最終話「婚約を破棄した王太子」
「アルベルト。座れ」
婚約破棄から三日後。
父である国王に呼び出されたアルベルトは、執務室の椅子へ腰を下ろした。
机の向こうには国王。
その隣には宰相。
そして机の上には、見覚えのある書類が山積みになっている。
嫌な予感がした。
「エレノア嬢との婚約解消についてだ」
「はい」
「正式にグランベル公爵家から同意が届いた」
アルベルトはわずかに息を吐いた。
これで終わる。
そう思った。
「では、これから後始末を始める」
「……後始末?」
国王の眉が動いた。
「お前は、これで終わったと思ったのか?」
「婚約は解消されたのでしょう?」
「された」
「なら」
「西方大使歓迎晩餐会」
国王が一枚目の書類を取った。
「春の慈善祭」
二枚目。
「王立学院卒業式」
三枚目。
「夏の王領視察。秋の建国祭。来年の隣国王太子婚礼」
次々と机へ置かれる。
「すべて、お前とエレノア嬢が将来夫婦となる前提で予定されていた」
「それはマルクスたちが調整を」
「する」
国王は即答した。
「実務はな」
「でしたら」
「だが方針を決めるのはお前だ」
またそれか。
アルベルトは顔をしかめた。
「父上まで」
「まで?」
「マルクスにも同じことを言われました」
「当然だ」
国王は呆れたように息を吐いた。
「お前が壊した前提だからだ」
アルベルトは黙った。
「勘違いするな。私は、エレノア嬢と必ず結婚しろと言っているのではない」
予想外の言葉だった。
「違うのですか」
「お前には、エレノア嬢との婚約解消を申し出る権利を認めていた。生涯を共にできないと思ったのなら、婚約を見直すこと自体はあり得るからだ」
「なら私は――」
「だが」
国王の声が低くなる。
「まさか何の事前調整もなく、本人を呼びつけて婚約破棄を宣言し、その場で別の令嬢への想いまで明かすとは夢にも思わなかったがな」
「……」
「婚約を見直す権利を認めたことと、好き勝手に壊してよいということは別だ」
国王は机の上の書類を指で叩いた。
「十二年間続いた王家と公爵家の婚約だぞ」
アルベルトの背筋が伸びた。
「エレノア嬢は十二年間、王太子妃になるための教育を受けた。グランベル公爵家もそれを前提に娘の将来を決めてきた。王宮も、官僚も、外交官も、国内の貴族も、お前たちが夫婦になる前提で予定を組んでいる」
「……」
「婚約解消そのものは認めよう」
国王は一枚の書類をアルベルトの前へ置いた。
「だが、そのやり方と、その後始末まで認めた覚えはない」
公爵家への正式な謝罪。
アルベルトは書類を見た。
「私が行くのですか」
「誰が行く」
「使者を」
「なぜ?」
「……」
「婚約破棄を申し出たのは使者か?」
「私です」
「なら、お前が行け」
反論できなかった。
「それからローデン伯爵家にもだ」
「なぜクラリスの家に?」
国王の目が鋭くなる。
「お前は公衆の面前で、クラリス嬢を愛しているから婚約を破棄すると宣言したそうだな」
「はい」
「本人の了承は?」
「……ありません」
「婚約の約束は?」
「ありません」
「つまり、何の了承も得ていない伯爵令嬢を王太子の婚約破棄の原因として世間に晒したわけだ」
アルベルトは言葉を失った。
そこまで考えていなかった。
「幸い、ローデン伯爵は穏当な人物だ。娘の名誉が回復されれば、それ以上は求めないと言っている」
「名誉?」
「お前自身の口から、クラリス嬢は婚約破棄を求めておらず、すべて自分の判断だったと公表しろ」
「しかし、それでは」
「何だ」
自分が全部悪いようではないか。
そう言いかけて。
言えなかった。
全部、自分で決めたことだった。
「父上」
「何だ」
「それをすれば、終わるのですか」
国王はしばらくアルベルトを見た。
「終わらん」
「……え?」
「エレノア嬢が王太子妃になるために費やした十二年は戻らん。グランベル公爵家が娘のために組んだ十二年も戻らん。クラリス嬢が受けた噂も、最初からなかったことにはできん」
「ですが、謝罪して、訂正をすれば」
「それは責任を取るために必要なことであって、すべてを元に戻す魔法ではない」
アルベルトは黙った。
「お前は今まで、自分が決めれば物事はその通りになると思っていたのだろう」
否定できなかった。
婚約を破棄すると決めた。
だから婚約はなくなる。
クラリスを選んだ。
だからクラリスと結婚する。
そう思っていた。
「だが、お前が決められるのは自分の行動だけだ」
国王は言った。
「その結果をどう受け取るかは、相手が決める」
エレノアは婚約破棄を受け入れた。
クラリスは自分との婚姻を拒絶した。
どちらも。
アルベルトが決めたことではない。
「覚えておけ」
国王は書類を押し出した。
「責任を取るとは、壊したものが必ず元に戻るという意味ではない」
「……」
「戻らないものがあると知った上で、それでも自分にできる後始末から逃げないことだ」
アルベルトは、今度こそ何も言えなかった。
◇
二日後。
アルベルトはグランベル公爵家を訪れた。
「このたびは、私の突然の申し出によってご迷惑をおかけした」
頭を下げる。
王太子として生まれてから、これほど深く他人に頭を下げた記憶はない。
グランベル公爵は黙って聞いていた。
「婚約解消については、娘も納得しております」
「エレノアは?」
「北部領へ向かいました」
「北部?」
「ええ」
「なぜ」
公爵が少しだけ眉を上げた。
「雪解けの湖を見たかったそうです」
「……湖?」
「ご存じありませんでしたか」
知らなかった。
十二年も婚約していた。
それなのに。
「いつ戻るのです」
「決めておりません」
「決めていない?」
「もう王太子妃教育もございませんので」
そうだった。
「娘には、好きなだけ滞在させるつもりです」
アルベルトは何も言えなかった。
以前なら、そんなことはできなかった。
自分との予定があったから。
それをなくしたのは自分だった。
「それから殿下」
「何だ」
「王宮から、春の慈善祭だけでも娘に従来どおり出席してもらえないかとの問い合わせがございました」
「そうなのか?」
「お断りしました」
「なぜ」
公爵は静かに答えた。
「娘はもう、未来の王太子妃ではございませんから」
「だが、急な変更で」
「ええ。大変でしょうな」
「なら」
「殿下」
公爵の声は穏やかだった。
「婚約者としての立場を失った娘に、婚約者としての役目だけを求めるのは、おかしな話でしょう」
アルベルトは口を閉じた。
正論だった。
「ご心配なく。娘は殿下を恨んではおりません」
公爵は続けた。
「今頃は、ずっと見たかった景色を楽しんでいるでしょう」
なぜか。
恨まれていないという言葉の方が、胸に刺さった。
「公爵」
「はい」
「エレノアに……謝罪を伝えてもらえるだろうか」
公爵は少しだけ考えた。
「お伝えすることはできます」
「頼む」
「ですが、殿下」
「何だ」
「娘がそれを受け入れるかどうかは、娘が決めることです」
アルベルトは息を止めた。
父と同じだった。
自分が謝る。
だから許される。
そう決めることさえ、自分にはできない。
「……分かっている」
初めて。
そう答えた。
◇
翌日はローデン伯爵家だった。
「クラリス嬢」
「はい」
「すまなかった」
アルベルトは彼女にも頭を下げた。
「君の意思を確認せず、私の判断に巻き込んだ」
クラリスは少し驚いた顔をした。
「……はい」
「婚約破棄は私一人の判断だったと、正式に公表する」
「ありがとうございます」
「君には迷惑をかけた」
「本当に」
即答された。
アルベルトは顔を上げた。
クラリスは少し困ったように笑っている。
「私、昨日までずっと『王太子を誘惑した女』だと思われていたんですよ」
「……すまない」
「ですから、きちんと訂正してください」
「ああ」
「それで十分です」
それ以上でも、それ以下でもなかった。
かつて自分へ向けられていた好意は、もうどこにも見えなかった。
「クラリス」
「はい」
「私が訂正すれば……」
言いかけて止まった。
訂正すれば、以前のように戻れるか。
そう尋ねようとした。
だが。
答えはもう分かっていた。
「いえ。何でもない」
「そうですか」
「ああ」
自分が壊したものを直そうとすることと。
直したのだから返してほしいと求めることは。
まったく違う。
◇
王宮へ戻る。
マルクスが待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「こちらが本日の決裁分です」
机の上に書類が置かれる。
「まだあるのか」
「増えております」
「……そうか」
以前なら腹を立てていた。
今も嬉しくはない。
「まず、西方大使歓迎晩餐会です」
「私一人で出る」
「王妃陛下のご同席は?」
「必要ない。私が迎える」
「承知いたしました」
「次は?」
「春の慈善祭です」
「読む」
マルクスが一瞬だけ目を見開いた。
アルベルトは書類を受け取った。
以前ならエレノアが必要な部分だけまとめてくれた。
『殿下はこちらだけ目を通してください』
そう言って。
「エレノアに頼めないのか」
数日前、自分はそう言った。
今思えば、とんでもない話だ。
自分から婚約を破棄しておいて。
それでも彼女が以前と同じように自分を助けてくれると思っていた。
「マルクス」
「はい」
「次の婚約は、しばらくいい」
「承知いたしました」
「父上には私から話す」
「はい」
アルベルトは書類を読む。
春の慈善祭。
代表者を新たに決めなければならない。
「今年は王太子名義で引き受ける」
「殿下ご自身が?」
「ああ」
「例年より公務が増えますが」
「分かっている」
自分で空けた席だ。
「私がやる」
マルクスは何も言わず、書類を差し出した。
署名する。
次。
夏の地方視察。
次。
秋の建国祭。
次。
来年の外交予定。
終わらない。
これを全部終えたとしても。
十二年間は戻らない。
エレノアが自分の隣へ戻るわけでもない。
クラリスの好意が戻るわけでもない。
謝罪したから。
働いたから。
反省したから。
だから元通りになる。
そんな都合のいい話ではなかった。
それでも。
自分が発生させた問題を、誰かに押しつけて逃げる理由にはならない。
エレノアとの婚約を破棄した瞬間。
自分は自由になったと思った。
確かに自由にはなった。
もう誰と結婚するか決められていない。
どんな未来を選ぶかも決められていない。
だが。
誰も決めてくれないということでもあった。
そして、自分が選んだ結果まで消してくれる者もいない。
アルベルトは次の書類を取った。
窓の外では春の日が沈み始めている。
北部では今頃、エレノアが湖を見ているのだろう。
クラリスも、自分で選んだ未来へ戻っていった。
二人とも、自分の人生を歩き始めている。
ならば。
自分だけが、誰かに未来を整えてもらうわけにはいかない。
「次は?」
アルベルトが尋ねる。
「まだございます」
「持ってこい」
終わらせれば、許されるわけではない。
元に戻せるわけでもない。
それでも、自分が始めたことだ。
最後まで引き受ける。
アルベルトは次の書類を開いた。




