第2話「予定を組み直す王太子側近」
婚約破棄の翌朝、マルクス・ヴァレンは机の上に積まれた書類を見て、嫌な予感がした。
「……何だ、これは」
「本日届いた分です」
部下が答える。
「西方大使館、王宮儀礼局、王都慈善協会、王立学院、それとグランベル公爵家から」
「なぜ全部こちらに来る」
「王太子殿下の婚約についてだそうです」
マルクスは一番上の封筒を開いた。
五分後。
頭を抱えた。
「馬鹿な」
西方大使夫妻を迎える晩餐会。
来月行われる予定だった。
その席でアルベルト王太子と婚約者エレノアが夫妻として初めて正式に迎賓を行う予定だった。
当然、それに合わせて席順も決まっている。
紹介順も決まっている。
贈答品も準備されている。
ところが婚約が解消されるなら、前提が変わる。
王太子単独で出席するのか。
王妃が補佐するのか。
別の女性を伴うのか。
誰にも分からない。
二通目。
王都慈善協会。
春の寄付祭で、次期王太子妃としてエレノアが名誉代表を務める予定だった。
婚約解消後も依頼してよいのか、という問い合わせ。
三通目。
王立学院。
卒業式に王太子夫妻として列席予定だった件について。
「……夫妻ではない」
マルクスは呟いた。
当たり前だ。
婚約を破棄したのだから。
そして次の瞬間、気づいた。
「全部、変更になるのか?」
「はい」
部下が申し訳なさそうに答えた。
「おそらく」
マルクスは昨日まで、婚約破棄に反対していなかった。
むしろ心の中では賛成していた。
アルベルト殿下とエレノア嬢の婚約は、幼い頃に決められた政略婚だった。
互いに憎み合っているわけではない。
だが、愛し合っているようにも見えなかった。
殿下がクラリス嬢を想っていることも知っていた。
ならば好きな相手と結ばれる方がいい。
そう考えていた。
婚約など、本人たちの話だと思っていたからだ。
「マルクス」
執務室へアルベルトが入ってきた。
「ちょうどよかった。今日の予定は?」
「予定、でございますか」
「ああ」
マルクスは机の上の書類を見る。
「まず、婚約解消に伴う各所への対応方針を決めていただきます」
「対応?」
「はい」
「それは任せる」
「任されましても」
「いつもやっているだろう」
「いつもは前提が決まっておりました」
アルベルトが眉をひそめた。
「前提?」
「エレノア嬢が将来の王太子妃である、という前提です」
そこへ儀礼局の役人が飛び込んできた。
「失礼いたします!」
「何だ」
「来月の西方大使歓迎晩餐会について、至急決裁をお願いいたします」
「何を決める」
「王太子殿下がお一人で迎えられるのか、王妃陛下にご同席いただくのか、それとも――」
役人が一瞬ためらう。
「新たな婚約者をお立てになるのか」
アルベルトの表情が明るくなった。
「それならクラリスを」
「お待ちください」
マルクスは反射的に止めた。
「クラリス嬢は正式な婚約者ではございません」
「なら婚約すればいい」
「それを今日決めるのですか?」
「何か問題があるのか」
ある。
山ほどある。
婚約は舞踏会の相手を決める話ではない。
伯爵家との協議。
国王の承認。
王妃教育。
国内貴族への通達。
外国王室への報告。
エレノアとの婚約解消手続きすら終わっていない。
「……まずは、晩餐会は殿下単独で出席なさる方向で調整いたします」
「分かった」
「ただし最終決裁は殿下にお願いいたします」
「君が決めればいいだろう」
まただ。
マルクスは答えかけて止まった。
これまでなら決められた。
王太子が出席する。
婚約者が同席する。
王妃が必要に応じて補佐する。
決まった枠の中で調整すればよかった。
でも、今は違う。
誰を隣に置くのか。
どの立場で出席するのか。
そもそも次の婚約をどうするのか。
それは側近が勝手に決めていいことではない。
「殿下」
「何だ」
「今後、同様の案件については、殿下ご本人に方針をお決めいただく必要がございます」
「なぜ」
「婚約がなくなったからです」
アルベルトが不満そうに顔をしかめた。
「それとこれと、何の関係がある」
マルクスは説明しようとして、言葉に詰まった。
自分自身、昨日まで分かっていなかった。
エレノアが何もかも取り仕切っていたわけではない。
違う。
むしろ彼女は、表立って何かをしていないことの方が多かった。
けれど。
彼女がそこにいると決まっていた。
来年も。
五年後も。
十年後も。
それだけで、他の全員が予定を立てられた。
午後。
さらに問題が届いた。
グランベル公爵家からだった。
王太子妃教育について、婚約解消手続き開始に伴いエレノアをすべての課程から外す、という通知。
「全部?」
マルクスは聞き返した。
「全部です」
王宮教育官が頷く。
「当然でしょう。王太子妃になる予定がなくなった方に、国家機密を含む教育を続けるわけには参りません」
「代わりは?」
「おりません」
「なぜ」
教育官は怪訝な顔をした。
「エレノア様が王太子妃になる予定だったからです」
またそれだ。
当たり前だった未来。
その言葉が一日中、マルクスを追いかけた。
夕方には、西方使節団の応接。
春には寄付祭。
夏には地方視察。
秋には王家主催の社交行事。
来年には隣国王太子の婚礼。
そのどれにも、
『王太子アルベルト及び婚約者エレノア』
の名前が書かれていた。
十二年分の積み重ね。
それを殿下は、一言で消した。
消したこと自体が悪いとは思わない。
本人が望まない婚姻を続ける必要はない。
だが。
「消した後を、誰が決めるんだ」
呟いたところで答えは一つしかなかった。
消した本人だ。
翌朝。
マルクスは新しい書類を作った。
『婚約解消に伴う王太子殿下決裁事項』
一番上に置く。
アルベルトがやってきて、それを見るなり眉をしかめた。
「何だこれは」
「殿下にお決めいただく事項です」
「こんなに?」
「はい」
「君たちで処理できないのか」
「事務処理はできます」
マルクスは答えた。
「ですが、方針は決められません」
「……」
「これまでは、殿下がエレノア嬢と結婚なさるという方針がありました」
それに沿って全員が働いていた。
「今はございません」
マルクスは初めて、その事実を正確に理解していた。
「ですから殿下。まず、今後どうなさりたいのかをお決めください」
アルベルトは書類の束を見下ろした。
その顔には、昨日までなかった戸惑いが浮かんでいた。
マルクスは少しだけ胸が軽くなった。
仕事は増えた。
予定は崩れた。
だが、一つだけ決めたことがある。
もう二度と。
王太子本人が決めるべきことまで、自分たちで先回りして決めたりはしない。




