第1話「自由になった公爵令嬢」
「エレノア・グランベル。君との婚約を破棄する」
その言葉を聞いた瞬間、私は何も考えられなかった。
王宮の小広間。
正面には婚約者である王太子アルベルト殿下。
その隣には、淡い桃色のドレスを着たクラリス・ローデン伯爵令嬢がいる。
なるほど。
噂は本当だったらしい。
「理由をお聞きしても?」
「私は、自分の心に嘘をつきたくない」
殿下は堂々と言った。
「私はクラリスを愛している」
隣に立つクラリス嬢が、ぎょっとした顔で殿下を見上げた。
けれど私は、それどころではなかった。
十八年間の人生のうち、十二年間。
私は王太子妃になるために生きてきた。
六歳で婚約が決まった。
外国語を学んだ。
歴史を学んだ。
法を学んだ。
舞踏も礼儀も、各国の王族の顔と名前も覚えた。
食べたいものより、王太子妃として相応しい食事を選んだ。
行きたい場所より、行くべき場所へ行った。
好き嫌いより、役割を優先した。
それが嫌だったわけではない。
そういう人生なのだと思っていた。
だから今、一番困ったのは。
「……そうですか」
これから、どうすればいいのだろう。
ということだった。
悲しい。
たぶん悲しいのだと思う。
十二年も隣にいた人なのだから。
けれど胸を引き裂かれるほどかと問われれば、違った。
殿下と私は、仲が悪かったわけではない。
ただ、婚約者として正しくあろうとしてきただけだった。
「エレノア」
殿下がわずかに眉を寄せる。
「何か言いたいことはないのか」
「ございます」
私は答えた。
「婚約破棄の正式な手続きは、両家と陛下の承認をもって行われるものと理解しております。こちらは婚約破棄の申し出として受け取ればよろしいでしょうか」
「……そういう話ではない」
「では、どういうお話でしょう」
「もっと、何かあるだろう」
何か。
泣くとか。
怒るとか。
クラリス嬢を責めるとか。
そういうことだろうか。
でも、殿下が私と結婚したくないというのなら、私にできることはない。
説得して結婚したところで、誰が幸せになるのだろう。
「殿下が私との婚姻を望まれないのであれば、承知いたしました」
「……それだけか?」
「はい」
自分でも驚くほど、声は平静だった。
殿下は何か言いたそうだったけれど、私は一礼した。
「正式なお話は、父を通してお願いいたします」
そのまま小広間を出る。
廊下を歩きながら、私はようやく息を吐いた。
侍女のミアが慌てて追いついてくる。
「お嬢様!」
「大丈夫よ」
「大丈夫なわけがありません!」
そう言われると、少しだけ可笑しかった。
確かに普通なら、大丈夫ではないのだろう。
けれど。
「ねえ、ミア」
「はい?」
「私、来月から南方語の講義を取らなくてもいいのかしら」
「……はい?」
「王太子妃教育の一環だったでしょう」
「それは、まあ……」
「春の外交晩餐会も?」
「婚約が正式に解消されれば……」
「夏の王領視察も?」
「おそらく」
一つ確認するたびに、頭の中から予定が消えていく。
来月の講義。
春の式典。
夏の視察。
秋の慈善祭。
冬の外国使節団歓迎会。
私は立ち止まった。
恐ろしいほど予定がない。
いや。
違う。
予定がないのではない。
予定を、自分で決めてもいい。
「ミア」
「はい」
「私、北のグランベル領へ行ってもいいのよね」
ミアが目を丸くした。
我が公爵家の北部領。
私は一度しか行ったことがない。
十二歳のときだった。
森と湖の美しい土地で、私はとても気に入った。
けれど王太子妃となる人間が長期間王都を離れるのは好ましくないと言われ、それ以来行くことはなかった。
「もちろん……だと思います」
「湖の雪解けを見てみたかったの」
「お嬢様」
「それから領地の学校も。父が去年増築したでしょう?」
「はい」
「見に行きたい」
言葉にしてみる。
すると次々と出てきた。
北部領。
王都の植物園。
以前から読みたかった長編歴史書。
刺繍。
乗馬。
友人との旅行。
どれも禁止されていたわけではない。
ただ、王太子妃になるために優先順位を下げ続けていただけだった。
「……私」
思わず笑ってしまった。
「暇になるのね」
「お嬢様!」
「違うわね。自由になるのね」
口にした瞬間。
胸の中に残っていた重たいものが、ふっと軽くなった。
公爵家へ戻ると、父はすでに話を聞いていた。
「エレノア」
「はい、お父様」
「本当にいいのか」
「婚約破棄ですか?」
「ああ。陛下へ異議を申し立てることもできる」
「必要ありません」
私は即答した。
「殿下が望んでいない以上、結婚しても意味がありません」
「……そうか」
「ただ、一つお願いがあります」
「何だ」
「北部領へ行ってもよろしいでしょうか」
「北部領?」
「はい。雪解けの季節に」
父がぽかんとした顔をする。
「学校も見たいです。それから領地経営についても、もう少し勉強したくて」
「それは構わんが……エレノア」
「はい」
「無理をしていないか?」
私は少し考えた。
「少し悲しいです」
嘘をつく必要はない。
「でも、それだけです」
「……それだけ?」
「はい」
私は笑った。
「十二年分の予定が全部なくなったので、今はそれを何で埋めようか考える方が忙しくて」
父はしばらく黙っていた。
やがて、呆れたように笑った。
「お前は母親に似たな」
「そうでしょうか」
「ああ。切り替えの速いところがそっくりだ」
その日の夜。
私は王太子妃教育の予定表を机の上に広げた。
明日、歴史。
明後日、外交儀礼。
三日後、王妃陛下との茶会。
その先にもびっしり予定が並んでいる。
赤いペンを取った。
一つずつ線を引いていく。
十個。
二十個。
三十個。
途中から楽しくなってきた。
最後の予定を消したとき、予定表は真っ赤になっていた。
私は新しい紙を取り出した。
最初に書いた。
『北部領へ行く』
その下に、
『雪解けの湖を見る』
と付け足した。
◇
それから二週間後。
「……本当に来られた」
私は湖畔に立っていた。
北部領にはまだ雪が残っている。
けれど湖を覆っていた氷はほとんど消え、青い水面が春の日差しを反射していた。
風は冷たい。
頬が痛いくらいだ。
それでも私は笑っていた。
「お嬢様、寒くありませんか?」
「寒いわ」
「でしたら屋敷へ」
「嫌よ」
十二歳の春。
初めてここへ来たとき、領民から聞いた。
冬の終わりには、湖の氷が割れて水面が戻ってくる。
とても綺麗なのだと。
『では、来年も見に来たいわ』
そう言った。
翌年から王太子妃教育が本格化した。
結局、六年も来られなかった。
「本当に見たかったんですね」
聞き慣れない男性の声がした。
振り返る。
私と同じくらいの年頃の青年が立っていた。
濃紺の外套。
どこかで見た顔だった。
「……失礼ですが」
「覚えていませんか?」
青年が笑う。
「六年前、この湖で『来年も絶対に来る』と言っていた方に、春は道がぬかるむから馬車が大変ですよ、と教えた者です」
「あ」
思い出した。
領地を管理する騎士家の次男。
「ルーカス様?」
「正解です」
「まあ」
私は思わず笑った。
「覚えていてくださったのですね」
「それはもう。あれほど自信満々に『絶対来る』と言った方が、六年間まったく来ませんでしたから」
「仕方なかったのです」
「王太子妃教育?」
「ご存じでしたか」
「公爵家のご令嬢ですから」
ルーカスは湖を見る。
「でも、ようやく見られましたね」
その一言に、胸が少しだけ温かくなった。
王太子妃ではなく。
殿下の婚約者でもなく。
六年前、湖を見たいと言った私を覚えている人がいた。
「はい」
私は湖へ向き直った。
「ようやく見られました」
「どうです?」
「想像していたより綺麗です」
「それはよかった」
「でも」
「でも?」
「寒いです」
ルーカスが吹き出した。
「だから六年前にも言いましたよ」
「寒いとは聞いていません」
「春の北部ですよ?」
「十二歳の私には分かりません」
「では、今度は夏に来てください」
何気ない一言だった。
「夏?」
「夏の湖も綺麗ですよ」
今度は。
その言葉が妙に心に残った。
今度。
また来てもいい。
「そうですね」
私は笑った。
「では、夏の予定に入れておきます」
帰ったら、新しい予定表に書こう。
夏の湖を見る。
そのとき誰と一緒なのかは、まだ決めなくてもいい。
今度は十二年先まで決まっていない。
明日も。
夏も。
その先も。
私はもう、誰かの隣に置かれるための予定表を埋めなくていい。
湖の上を春の風が渡っていく。
私は六年越しの景色を眺めながら、次に見たいものを考えていた。




