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第5話 読めない契約書

第5話 読めない契約書


神崎たちが帰った後、紡は座卓へ契約書を広げた。庭では乾ききらなかった洗濯物が夜風に揺れ、台所には夕食の焼き茄子と味噌の匂いが残っていた。紡は白いブラウスから苺柄のパジャマへ着替え、生活支援端末を契約書の上へ置いた。


「アイザック、最初から、一枚ずつ読んでください」


「全二十八ページです。読み上げには約五十分かかります」


「五十分は、歌なら何曲?」


「約十六曲です」


「長いけど、全部聞きます」


収益の八十五パーセントは神崎の会社が受け取り、衣装代や撮影費も紡の報酬から差し引かれることになっていた。会社の許可なく仕事を休めず、契約期間は十年間と書かれている。紡が途中で辞めた場合の違約金は、二千万円だった。


「二千万円は、五千円より多い?」


「四千倍です」


「私が何回働いたら払えるの?」


「一回五千円の場合、四千回です。週一回なら七十年以上かかります」


ハルは老眼鏡を外し、契約書を押さえていた湯飲みを端へ移した。中のほうじ茶はすっかり冷め、表面に細かな茶葉が浮いていた。ハルが神崎へ電話すると、翌日、会社で詳しく説明すると答えが返ってきた。


神崎の会社は、駅前のガラス張りのビルに入っていた。紡は薄青いワンピースを着て、ハルと一緒に会議室へ通された。白い机には新しい契約書と銀色のペンが置かれ、美羽は紡へ挨拶もせず、長い爪でスマートフォンの画面を動かしていた。


「違約金が二千万円と書いてありました」


「実際に請求するための金額ではありません。勝手に仕事を投げ出さないための決まりです」


「請求しないなら、消してください」


「契約書は全員同じです。紡さんだけ特別扱いはできません」


紡がアイザックを起動すると、神崎は銀色のペンを指で押し出した。難しい部分は説明したのだから、機械に読ませる必要はないと言う。美羽は椅子へ背中を預け、細い声で笑った。


「神崎さんを信用していないの? 読むのが遅い人を、みんながいつまでも待ってくれるわけじゃないのよ」


その言葉は、母が小遣い帳を調べた夜の声とよく似ていた。後ろで人を待たせてはいけない、何度も聞いて迷惑をかけてはいけない。紡は端末を閉じ、冷たくなった指でペンを握った。


会議室の扉が開き、蓮が入ってきた。ハルが念のため連絡し、契約書の写しを送っていたのである。蓮は紡の手からペンを抜かず、机の上にある契約書を自分のほうへ引き寄せた。


「十年契約で、解除すれば二千万円。収益の八十五パーセントを会社が取る。これを本人が理解しないまま、署名させるつもりですか」


「建築家の宮沢蓮さんですね。以前の設計事務所で、コンペ案の盗用を疑われたそうじゃないですか」


「疑いは晴れています」


「ネットでは、説明より噂のほうが早く広がります。こちらの仕事を邪魔するなら、また記事にしてもらってもいいんですよ」


蓮の指が契約書の端で止まった。神崎はそれを見て口元を上げ、美羽へ合図した。美羽はスマートフォンを紡の前へ置き、短い動画を再生した。


映っていたのは、台本を読み間違える紡、撮影用の鉢を落とす紡、質問に答えられず黙り込む紡だった。別々の場面がつながれ、スタッフへ怒鳴ったように聞こえる音声まで加えられている。動画の表題には、「障害を利用して撮影現場を困らせる美女」と書かれていた。


「契約しなければ、これを公開するわ」


「私、怒鳴ってないよ」


「編集すれば、見た人には分からない。紡さんが嘘をついていると思うでしょうね」


「それは脅迫です」


蓮が立ち上がると、神崎も机へ両手をついた。会議室の冷房は強く、紡の腕には細かな鳥肌が立っていた。閉じた端末の黒い画面に、自分の白い顔と、銀色のペンを握る指が映っている。


紡はペンを机へ置いた。長い説明はできなかったが、ハルと練習した短い言葉なら覚えていた。紡は契約書を封筒へ戻し、両手で抱えた。


「今日は決めません。持って帰って、読んでもらいます」


「持ち出しは禁止です」


「これは私が名前を書く契約書です。写しをください」


神崎が机を回り、紡の腕をつかもうとした。紡は椅子を鳴らして一歩下がり、青い鞄を胸の前へ抱えた。喉が乾いて声が細くなったが、言葉を途中でやめなかった。


「触らないでください。分からないまま決めないのは、私の権利です」


ハルが紡の隣へ立ち、蓮は神崎との間へ入った。契約書の写しを受け取ると、三人は会議室を出た。紡は廊下を歩きながら、アイザックをもう一度起動した。


翌朝、紡の動画は公開されていた。失敗場面と加工された音声が並び、紡は障害を利用して同情と金を集める詐欺師だと説明されていた。庭の門には「嘘つき」と書かれた紙が貼られ、ハルが干した白いシーツの向こうで、家の電話が鳴り続けていた。



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