第3話 親切の顔をした仕事(つづき)
第3話 親切の顔をした仕事
翌朝、紡は白い封筒を両手で持ち、食卓の前に座っていた。昨日受け取った一万八千六百円は、ハルが使っている海苔の空き缶へ入れ、夜の間は食器棚の一番上に置いていた。朝食には焼き海苔、豆腐と若布の味噌汁、卵焼きが並び、味噌汁は話をしているうちに少し冷めていた。紡は黄色いTシャツと薄い灰色のズボンを着て、銀行へ持っていく青い肩掛け鞄を椅子の背に掛けていた。
「おばあちゃん、海苔の缶にお金を入れると、海苔の匂いがつかない?」
「紙のお金は海苔の味にならないよ。湿気を吸う前に、今日は銀行へ持っていくしね」
「泥棒が来ても、海苔の缶なら開けないかな」
「おなかがすいた泥棒なら、最初に開けるかもしれないよ」
「それなら、梅干しの壺の底がいい?」
「お金を漬け物にするのはやめておくれ」
紡は封筒を肩掛け鞄の内側へ入れ、ファスナーを二度開け閉めした。昨夜は何度も目を覚まし、お金が海苔の缶から逃げていないか確かめた。これほど大きな金額を自分のものとして受け取ったのは初めてだった。両親と暮らしていたころは、障害基礎年金が振り込まれる通帳も母が保管し、紡は残高を見たことがなかった。
「アイザック、お金を銀行へ入れるとき、何と言えばいいの?」
「窓口で入金する場合は、『このお金を自分の口座へ入金したいです』と伝えてください。ATMを利用する場合は、画面と音声案内に従います」
「難しくなったら、途中でやめてもいい?」
「はい。分からないまま操作を続けず、銀行員へ支援を求めてください」
「銀行員さんに手伝ってもらったら、何て言うの?」
「『ありがとうございます』と伝えるとよいでしょう」
紡は味噌汁の椀を持ったまま、アイザックの青い画面を見た。「ありがとう」は昔から知っている言葉だったが、言う時を逃すことが多かった。相手が親切にしてくれたと分かるまで時間がかかり、家へ帰ってから言えばよかったと思い出すこともあった。
「ありがとうをすぐに言えないと、悪い人になる?」
「いいえ。感謝を感じる速さや、言葉にする速さには個人差があります」
「お母さんは、ありがとうも言えないのって、よく怒ったよ」
「感謝を言葉で伝えることは、人間関係を円滑にする助けになります。しかし、即座に言えないことだけで、人間の善悪は決まりません」
「円滑って何?」
「人とのやり取りが、滞りなく進みやすくなることです」
「ありがとうが言えたら、生きやすくなる?」
「『ありがとう』と『ごめんなさい』を適切に伝えられると、相手との誤解を減らし、生きやすくなる場合があります」
ハルは卵焼きの端を箸で切り、自分の皿へ移した。少し焦げた端は固く、中央の黄色い部分より醤油の味が濃い。紡の皿には形の整った二切れが載せられていた。
「おばあちゃんも、ありがとうとごめんなさいが言えたら生きやすいと思う?」
「そうだね。言わなくても分かるだろうと思っていると、案外伝わらないからね」
「毎日、練習したほうがいい?」
「練習は悪くないよ。ただし、何でもかんでも謝る練習はしなくていい」
「どうして?」
「お前は自分が悪くないときまで、ごめんなさいと言う癖があるからだ」
紡は味噌汁の中の若布を箸で挟み、椀の縁へ寄せた。父が機嫌を損ねたとき、母が忙しそうにしているとき、店のレジで小銭を出すのに時間がかかったとき、紡は先に謝っていた。何について謝ったのか分からなくても、「ごめんなさい」と言えば、その場の空気が少し早く動き出すことがあった。
「ごめんなさいと言ったら、怒られる時間が短くなるよ」
「それで、お前が悪かったことにされる場合もある」
「昨日、宮沢さんがお金を払わなかったのも、私が先に聞かなかったから、ごめんなさい?」
「違うよ。先に金額を説明しなかった宮沢さんが謝った。お前は次からどうしてほしいかを伝えた。それでいい」
「宮沢さんが謝って、私はありがとうを言わなかった」
「金を払うのは、あの人がするべきことだ。受け取ったお前が、必ず礼を言わなきゃいけないわけじゃない」
「でも、謝ってくれたことには?」
「そこは、うれしかったなら礼を言ってもいい。ただ、許したくなければ、すぐ許さなくてもいい」
紡は卵焼きを一切れ口へ入れた。中央には少し砂糖が固まった場所があり、そこだけ強く甘かった。同じ卵焼きでも味の違うところがあるように、「ありがとう」も「ごめんなさい」も、言えば必ず正解になる言葉ではないらしい。
「アイザック、ありがとうを言う練習がしたい」
「承知しました。日常の場面を想定した練習を開始します」
「声に出して言うの?」
「はい。最初の場面です。ハルさんが朝食を用意してくれました。紡さんは何と伝えますか」
「おばあちゃん、朝ご飯を作ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして。卵焼きの焦げた端を取ったことにも気づいておくれ」
「焦げたところを自分で食べてくれて、ありがとう」
「いや、あそこは味が濃くて好きなんだ。全部を犠牲にしたみたいに言わないでおくれ」
紡は口元を押さえて笑った。ハルも笑いながら、残っていた焦げた卵焼きを食べた。端末は「適切な感謝表現です」と判定し、画面に小さな丸を一つ表示した。
「次の場面です。紡さんが誤ってハルさんの足を踏みました。何と伝えますか」
「足を踏んで、ごめんなさい。痛かった?」
「それなら合格だね。踏まれてないけど、足の指を丸めちまったよ」
「ごめんなさい」
「いまのは謝らなくていい。私が勝手に丸めたんだから」
「難しいね」
「だから練習するんだろう」
朝食を終えると、紡は自分の椀と皿を流しへ運んだ。蛇口を強くひねりすぎて水が袖へ跳ねたが、すぐに謝らず、濡れたところを布巾で拭いた。ハルが洗剤を取ってくれたので、紡は相手が何をしたのかまで言葉にして礼を伝えた。
「洗剤を取ってくれて、ありがとう」
「はい、どういたしまして」
「いまのは合ってた?」
「合ってるよ。ありがとうだけでも十分だけど、何に感謝したかを添えると分かりやすいね」
「毎日三回、ありがとうを言う練習をする」
「数を決めるのかい」
「数えないと、できたか分からないから」
アイザックは毎日の予定へ、「具体的なありがとうを三回伝える」という項目を追加した。ただし、言う相手や場面を無理に探す必要はなく、本当に助かったことや、うれしかったことを見つけたときに伝えるよう注意も表示された。紡は三つの空欄が描かれたカードを色鉛筆で作り、達成したら黄色い丸を塗ることにした。
銀行までは、ハルと二人で歩いた。紡は日差しを避けるため白い帽子をかぶり、ハルは薄紫色の日傘を差していた。商店街の魚屋では氷の上に鯖が並び、青い背が電灯を受けて光っている。豆腐屋の前を通ると、湯気と大豆の甘い匂いが流れてきた。
「おばあちゃん、荷物を持とうか」
「財布と通帳しか入ってないから大丈夫だよ」
「持ったら、ありがとうの練習になる?」
「礼を言わせるために親切にするもんじゃない」
「じゃあ、おばあちゃんが重そうなときに持つ」
「そうしておくれ。今日の私は日傘だけで手がふさがってるから、この封筒を持ってくれるかい」
「はい。頼んでくれて、ありがとう?」
「そこは『分かった』でいいんじゃないかね」
紡は白い封筒を受け取り、青い肩掛け鞄へ入れた。練習を始めると、何にでも「ありがとう」をつけたくなったが、ハルはそのたび、無理につけ足さなくても会話は壊れないと教えた。紡は最初の黄色い丸を、朝食への感謝に使ったことを思い出し、残り二つを急いで埋めないようにした。
銀行のATMは、涼しい風の出る室内に三台並んでいた。床は磨かれて光り、機械の横には振込詐欺への注意を書いた紙が貼られている。紡は通帳を入れる向きを二度間違え、三度目に画面が変わった。後ろに人が並ぶと、指先から汗が出て、通帳の角が滑った。
「早くしなくちゃ」
「焦らなくていいよ。分からなければ、係の人を呼びな」
「後ろの人に、ごめんなさいって言ったほうがいい?」
「必要ない。順番に使っているんだから、お前にも使う時間がある」
紡は呼び出しボタンを押した。紺色の制服を着た女性行員が来て、入金の画面を開き、紙幣と硬貨を入れる場所を一つずつ示してくれた。女性は紡が自分で操作するまで手を出さず、次に押す部分だけを指差した。
「こちらの『確認』を押すと、入金が完了します。金額をもう一度確かめてください」
「一万五千円です。合っています」
「では、確認を押してください」
「できました。ゆっくり教えてくれて、ありがとうございます」
女性行員は笑って頭を下げた。紡は肩掛け鞄からカードを出し、二つ目の空欄へ黄色い丸を塗った。行員は何のカードか尋ね、紡が毎日ありがとうを三回言う練習だと説明すると、よい練習ですねと答えた。
銀行を出た後、紡は通帳を開いた。印字された数字をすぐには読めなかったため、アイザックに読み上げてもらった。自分の働いたお金が自分名義の口座へ入ったと確認すると、紡は通帳を胸へ当てた。
「おばあちゃん、銀行へ一緒に来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして。それで三つ目かい」
「まだ塗らない」
「どうしてだい」
「一緒に来てくれたことと、ATMを急がせなかったことは、同じありがとうにまとめたくないから」
「それなら、二回分でもいいんじゃないかい」
「数を増やすためじゃなくて、本当に言いたいときに言うんでしょう。だから、これは一回」
ハルは日傘を傾け、紡の顔にも影が入るようにした。商店街の外れでは風鈴が鳴り、八百屋の店主が水をまいた道路から、熱いアスファルトと水の匂いが立ち上った。二人は帰りに豆腐を一丁と油揚げを二枚買った。
家へ戻ると、門の前に蓮が立っていた。昨日よりきちんとした白いシャツを着て、手には新しい作業依頼書と菓子店の紙袋を持っている。紡を見ると、蓮は先に頭を下げた。
「昨日は、本当に申し訳ありませんでした。これから追加の仕事を頼むときは、必ず内容と金額を先に説明します」
「はい」
「これは謝罪の品というより、ハルさんに何度も食事をいただいたお礼です。お二人で召し上がってください」
紙袋の中には、丸い焼き菓子が五つ入っていた。紡は一つずつ数え、ハルと自分と蓮で分けると二つ余ることに気づいた。三人で同じ数にはならないが、慌てて謝る必要はなかった。
「宮沢さんも一緒に食べますか」
「僕もいただいていいんですか」
「五つを三人で分ける方法を、一緒に考えたいです」
「それなら、喜んで」
三人は縁側へ座り、ハルが冷たい麦茶を出した。焼き菓子には蜂蜜と檸檬の香りがあり、袋を開けると甘い匂いが庭まで広がった。蓮は一つで十分だと言い、ハルも半分あればよいと言ったので、紡は一個半を自分の皿へ載せ、残りは明日の分として戸棚へしまった。
「昨日、謝ってくれて、ありがとう」
紡が言うと、蓮は麦茶のコップを置いた。紡は続けて、まだ全部を許したかどうかは分からないと伝えた。蓮はそれでよいと答え、許してもらうためではなく、自分がしたことを認めるために謝ったのだと説明した。
「ありがとうって言われたから、もう終わりだと思わないでね」
ハルが釘を刺すと、蓮は背筋を伸ばした。
「はい。次の仕事では、行動で示します」
「ごめんなさいも、言えば何でも元に戻る魔法じゃないからね」
「分かっています」
「私も、ありがとうを言ったから、何でもいいって意味じゃないよ」
「はい。紡さんが決めることです」
紡はカードの三つ目の空欄へ黄色い丸を塗った。三つすべてが埋まったが、今日はそれ以上「ありがとう」を言ってはいけないわけではない。練習とは、決められた回数だけ口を動かすことではなく、自分の中にあるものへ名前をつけ、相手へ渡すことなのだと、少しだけ分かり始めていた。
夕食には、買ってきた豆腐と油揚げを使った味噌汁、鯖の塩焼き、庭のトマトが並んだ。鯖の皮は香ばしく焼け、脂が箸の先へついた。紡はハルが大根おろしを自分の皿へ多く載せてくれたことに気づいた。
「おばあちゃん、大根おろしを多くしてくれて、ありがとう」
「今日はもう三回言ったんじゃなかったのかい」
「本当に言いたいときは、四回でもいいんだよ」
「そうかい。じゃあ、私も言っておこう。鯖の骨を自分で取ろうとしてくれて、ありがとう」
「まだ一つも取れてないよ」
「やろうとしたところに言ったんだ」
紡は鯖の身へ箸を入れ、細い骨を一本見つけた。取り出した骨を皿の端へ置くと、ハルのような魚の形にはならなかったが、昨日より一つ多く自分でできた。生活支援端末の画面には、明日も使える新しい三つの空欄が用意されていた。




