第3話 親切の顔をした仕事
第3話 親切の顔をした仕事
宮沢蓮がハルの家へ来たのは、朝の九時を少し過ぎたころだった。紡は白いTシャツに紺色のもんぺを着て、借り物の麦わら帽子をかぶり、縁側で色鉛筆を削っていた。朝食に食べた卵入りの味噌雑炊の匂いがまだ台所に残り、物干し竿ではハルの白い割烹着と水玉模様の手拭いが揺れている。蓮は薄い灰色のシャツの袖を肘までまくり、肩から黒い測量用の鞄を提げていた。
「おはようございます。昨日の仕事について、説明に来ました」
「おはようございます。宮沢さん、麦茶を飲む?」
「後でいただきます。先に始めましょう」
「待ちな。先に決める話があるだろう」
ハルは青紫蘇を刻んでいた包丁を置き、縁側から蓮を見た。蓮は一瞬だけ口元を固くした後、鞄からクリップで留めた紙を取り出した。紡にも読めるよう大きな文字で、作業内容、期限、報酬が書かれている。
「庭の植物がどこにあるかを、この平面図へ記録してください。期限は一週間後です。報酬は三千円でどうでしょう」
「三千円は、何時間働くお金?」
「時間ではなく、記録一式に対して支払います。それほど難しい作業ではありません」
「何時から何時までやればいいの?」
「紡さんの好きな時間で構いません。無理のない範囲でお願いします」
紡は端末で紙面を読み取り、アイザックに内容を読み上げてもらった。「一式」という言葉が分からなかったので、全部を完成させたときに三千円が支払われるという意味だと説明された。作業が何時間かかっても金額は変わらないと聞き、紡はハルの顔を見た。
「おばあちゃん、三千円は多い?」
「何時間かかるかで変わるね。三時間なら一時間千円だが、十時間なら一時間三百円だ」
「十時間と三時間は、どっちが長い?」
「十時間だよ。朝から夕方までやっても終わらないくらいだ」
「今回の記録なら、三時間もかからないと思います」
蓮は庭を見渡しながら答えた。雑草も含めれば数え切れないほどの植物があるが、主要な樹木と花壇だけを記録すればよいと考えていた。紡は「主要なもの」の意味を尋ね、蓮は大きな木や目立つ植物のことだと説明した。
「分かりました。三千円でやります」
「無理だと思ったら、途中で言うんだよ」
「うん。分からないことも聞く」
ハルは念を押し、蓮が用意した紙の下へ日付を書かせた。紡は自分の名前をゆっくり書き、「紡」の糸偏を一度間違えて消した。消しゴムの粉を指で集めていると、蓮はもう庭へ測量機器を運び始めていた。
午前中、紡は蓮の後ろについて庭を歩いた。蓮は三脚のついた測量機器を置き、赤い光を板塀や母屋の角へ当てて距離を測った。紡はノートと色鉛筆を抱え、庭の入口から温室までを一歩ずつ進んだ。朝の日差しはまだ柔らかかったが、草の間から上がる湿気で、もんぺの膝が肌へ張りついた。
「紡さん、あの柿の木の位置を、この図に書いてください」
「この紙のどこが門なの?」
「下側です。ここが母屋で、こちらが温室です」
「柿の木は母屋より右?」
「図面では東側になります」
「東はどっち?」
「太陽が昇るほうです。今、僕が立っている側ですね」
紡は図面を回して、自分が見ている庭と同じ向きにした。蓮は紙を回すと方角が分からなくなると言ったが、紡には紙を回したほうが、目の前の木と図面を重ねやすかった。柿の木を茶色で描き、枝が張り出している方向へ短い線を何本も加えた。
「木の形まで描かなくていいですよ。丸印だけで構いません」
「でも、こっちの枝だけ長いよ。午後になると、下の紫陽花が陰になるの」
「今回は位置が分かれば十分です」
「分かりました」
紡は長い枝を消そうとしたが、色鉛筆は消しゴムで完全には消えなかった。薄茶色の線が紙へ残り、その上から丸印を描くと、柿の木だけ毛が生えたような形になった。蓮はそれを見て息を吐き、次の植物へ進んだ。
昼前になると、ハルが縁側から二人を呼んだ。食卓には焼いたアジの開き、冷ややっこ、茄子の味噌炒めが並んでいた。味噌炒めには朝に刻んだ青紫蘇が載り、熱で少し黒くなっている。紡の麦わら帽子には細い草が何本も引っかかり、蓮の灰色のシャツには背中まで汗がにじんでいた。
「宮沢さんも食べていきな。アジが三枚あるから」
「いえ、家に戻って仕事をします」
「飯を抜いて仕事をしたって、図面がうまくなるわけじゃないよ」
「冷蔵庫にサンドイッチがありますので」
「昨日買ったやつじゃないだろうね」
「一昨日です」
「それなら、なおさらここで食べな。腹を壊して倒れられたら、紡が運べない」
蓮は断り切れず、食卓の端へ座った。ハルは一番焦げたアジを自分の皿へ置き、形のよい二枚を紡と蓮へ渡した。紡は魚の骨を外すのが苦手で、箸を入れるたびに小骨が身へ混じった。
「宮沢さん、アジをきれいに食べられる?」
「普通だと思います」
「おばあちゃんは、骨だけ魚の形で残せるよ」
「そんなことを自慢したって、一円にもならないけどね」
「でも私はできないから、すごいと思う」
蓮はハルの皿に残った骨を見て、小さく笑った。笑われたと思った紡は箸を止めたが、蓮は自分もそこまできれいには食べられないと続けた。紡はもう一度箸を持ち、取れない骨だけハルの小皿へ移してもらった。
午後、蓮は植物の位置だけでなく、温室の柱と水路の幅も測り始めた。紡には巻き尺の端を持つよう頼み、次に数字を読み上げるよう頼んだ。巻き尺の目盛りは細かく、紡が百八十七を百七十八と読んだため、蓮は同じ場所を測り直した。
「よく見てください。七と八が逆です」
「数字が並ぶと、途中で場所が動くの」
「でも正確に測らないと、模型が合わなくなります」
「アイザックに写真を見てもらっていい?」
「そのたびに端末を使っていたら、時間がかかります」
「間違えて測り直すのも、時間がかかるよ」
蓮は返事をせず、巻き尺を強く引いた。金属の帯が紡の指から外れ、勢いよくケースへ戻って鋭い音を立てた。紡が肩をすくめると、蓮は危ないから端をしっかり持つよう注意した。
最初に頼まれた植栽記録が終わらないうちに、蓮の指示は増えていった。温室の北側から苔を少し採ること、模型に使えそうな細い枝を二十本集めること、古い煉瓦の模様を写真に撮ること、水路の深さを測ることまで頼まれた。紡はノートへ書こうとしたが、蓮が話す速さに文字が追いつかなかった。
「苔と、枝と、煉瓦と、その次は何だった?」
「水路です。深さを三か所測ってください」
「三か所は、どことどことどこ?」
「入口、中央、奥です。それから、温室の中の棚も撮影してください」
「棚は全部?」
「正面と横からあれば十分です。あと、割れているガラスの位置も記録してください」
「待って。いま、アイザックに入れるから」
「僕も締め切りがあるんです。少しは自分で覚えてください」
紡は端末を持ったまま、唇を閉じた。覚えようとすると、最初に聞いた苔が頭から消え、棚を思い出すと枝の本数が分からなくなった。蓮はすでに測量機器を持って母屋の裏へ移動している。紡はとりあえず苔を採り、枝を十一本集めたところで、本数が分からなくなった。
「アイザック、いま何本だった?」
「映像記録では、布袋へ十一本入れています」
「二十本まで、あと何本?」
「九本です」
「九本なら、一本ずつ数えて」
「枝を入れるたびに、音声で通知します」
紡は枝を拾うたびに端末へ見せ、一、二、三と数えてもらった。落ちていた枝には乾いたものと湿ったものがあり、一本には小さな毛虫がついていた。紡は毛虫の枝だけ元の場所へ戻し、代わりに曲がった細い枝を拾った。
枝を持って蓮の家へ行くと、蓮は居間の大きな机で模型を作っていた。借りた空き家の室内には、切った厚紙、接着剤、木片、図面が広がり、床にはコンビニ弁当の空き容器が二つ重ねられている。窓際のカーテンレールには洗った黒い靴下が干され、接着剤と冷めたコーヒーの匂いが部屋へこもっていた。
「枝を二十本、持ってきました」
「そこへ置いてください。あれ、太いものが混じっていますね」
「細い枝って言ったから、私の小指より細いものにしたよ」
「模型に使うなら、爪楊枝くらいの太さがいいんです」
「爪楊枝くらいって、先に言ってほしかった」
「見れば分かると思ったんですが」
「模型を作ったことがないから、見ても分からないよ」
蓮は枝を一本ずつ選び、使えそうな六本だけを机へ残した。残りは庭の隅へ置いておくよう言われたため、紡はまたハルの家へ戻った。門へ着いたところで温室の棚を撮影していないことを思い出し、枝を置かずに温室へ向かった。
その日は夕方六時まで動き続けた。ハルが何度か休むよう声をかけたが、紡は「早く」と頼まれたからと答え、水筒の麦茶を立ったまま飲んだ。夕食の素麺は水を吸って柔らかくなり、錦糸卵の端も乾いていた。紡は箸を持ったまま何度もあくびをし、好きな胡麻だれを半分残した。
「今日は何時間やったんだい」
「アイザック、何時間?」
「午前九時十八分から午後六時七分まで作業を行いました。昼食と休憩を除いた作業時間は、七時間二十二分です」
「三時間もかからないって、宮沢さんは言ってなかったかい」
「植物の場所はまだ終わってないの。枝と苔と写真も頼まれたから」
「それは最初の三千円に入っているのかい」
「分からない。でも、宮沢さんが助かるって言ったよ」
ハルは素麺の鉢へ残った氷を箸で動かした。薄くなった麺つゆの表面には、葱が二つ浮かんでいる。何かを言おうとしたが、紡が目をこすっているのを見て、まず風呂へ入って寝るよう促した。
翌日も、蓮は朝から新しい仕事を頼んだ。前日に撮影した煉瓦の写真が暗かったため撮り直すこと、柿の木の幹回りを測ること、庭の高低差を調べるため棒を持って立つことを指示した。紡は昨日より古い緑色のTシャツを着ていたが、昼までに背中が汗で濃くなった。
「紡さん、棒をまっすぐ持ってください」
「まっすぐ持ってるよ」
「少し右へ傾いています」
「私から見ると、まっすぐなの」
「水準器を見れば分かるでしょう」
「その泡を、どこの線に入れるの?」
「二本の線の真ん中です。動かさないでください」
紡は両腕へ力を入れた。足元では蚊がもんぺの上から膝を刺し、汗が顎からTシャツの胸へ落ちた。鼻の横がかゆくなったが、棒を動かすなと言われたため、顔を肩へこすりつけた。
午後になると、紡は自分で作った植栽図を蓮へ渡した。正確な距離は書かれていなかったが、庭の地面が黄色、青、白、緑に塗り分けられている。蓮は図面を一目見るなり、眉を寄せた。
「これは何ですか。植物の位置だけでよかったんですが」
「黄色は朝に日が当たるところ。青は午後まで土が湿っているところで、白は風が通るところ。緑は昼から日陰になるところだよ」
「寸法が書かれていませんね」
「数字は宮沢さんが測ってたから、私は色にしたの」
「これでは正式な図面として使えません」
「でも、紫陽花を白いところへ移したら、葉が乾くと思う。青いところなら、午後も元気でいられるよ」
蓮は何か言い返そうとしたが、図面へもう一度目を落とした。黄色の帯は東側の生垣から温室まで伸び、白い部分は母屋と物置の隙間を抜けている。蓮が測量機器で作った図面には、距離と方角は正確に記されていたが、光や湿気や風の動きまでは表現されていなかった。
「この色分けは、どうやって調べたんですか」
「朝と昼と夕方に歩いたの。土を触って、濡れていたら青くした。風は、細い糸を枝に結んで、動く場所を見たよ」
「誰かに教わったんですか」
「おばあちゃんが、苗を置く場所は土と風に聞けって言ってた。土と風はしゃべらないから、触って見るの」
「この柿の木の下だけ、緑が濃いのは?」
「葉が多くて、午前中も暗いから。雨の後は三日くらい土が濡れてるよ」
蓮は机の上に植栽図を広げ、自分の図面と重ねた。模型へ紡の色分けを写し、黄色の場所には背の低い草木、青い場所には湿気を好む植物、白い場所には風を遮らない低木を置いていった。すると単に植物を並べていた昨日の模型より、庭の中で人が過ごす場所と、植物が育つ場所の関係が分かりやすくなった。
「紡さん、この図は使えます」
「間違ってなかった?」
「正式な測量図とは違います。でも、環境を説明する図としては、とても分かりやすい」
「役に立った?」
「はい。僕には思いつかなかった方法です」
紡の口元が緩み、土で汚れた指がもんぺの上で動いた。蓮が褒めたのは、作業を始めてから初めてだった。朝から棒を持ち続けた腕の重さも、何度も庭と蓮の家を往復したことも、その言葉で仕事ではなく親切へ変わったように思えた。
三日目の昼、紡が端末へ作業記録を尋ねると、アイザックはいつもより低い通知音を鳴らした。縁側には昼食の皿が残り、焼いた茄子にかけた鰹節が風で一枚だけ畳へ落ちていた。紡は黄色いTシャツの袖で額を拭き、麦茶の氷を噛みながら画面を見た。
「累計作業時間は、十五時間三十八分です。合意された植栽記録以外の作業が含まれています」
「十五時間は、長い?」
「当初、宮沢蓮さんが想定した三時間を大きく超えています。また、追加作業に対する報酬は設定されていません」
「でも、宮沢さんは私の図が役に立つって言ったよ」
「評価の言葉と、労働に対する報酬は別のものです」
「褒めてくれたから、仕事じゃなくて、お手伝いになったんじゃない?」
「依頼者の設計業務に使用される成果物を作成しているため、仕事に当たる可能性が高いと判断します。無償労働が十五時間を超えています」
「無償労働って何?」
「賃金や報酬が支払われない労働です」
紡は空になった麦茶のコップを両手で包んだ。冷えていたはずのガラスは、いつの間にか掌と同じ温度になっている。蓮に役立ったと言われたことと、働いた時間を数えなければならないことが、紡の中ではうまく一緒にならなかった。
「お金をくださいって言ったら、もう役に立てなくなる?」
「報酬を求めることは、役に立たないことを意味しません」
「でも、宮沢さんは急いでるの。私が止めたら困るよ」
「紡さんが無償で働き続ける義務はありません」
「アイザックは、人間に褒められたことがないから分からないんだよ」
端末の青い光が一度止まった。すぐに通常の速さで回り始めたが、返答までには少し時間がかかった。
「私は人間からの評価を必要としません。しかし、紡さんが評価の言葉を大切にしていることは記録しました」
「宮沢さんは、私の図を使ってくれたの。お母さんは、私が何かすると仕事が増えるって言ってた。でも宮沢さんは、役に立ったって」
「その評価が事実であっても、報酬を受け取る権利は失われません」
ハルは台所の流しで、昼に使った皿を洗っていた。紡とアイザックの会話が聞こえると、水道の栓を閉め、濡れた手を前掛けで拭いた。畳へ落ちた鰹節を拾ってから、紡の隣へ腰を下ろした。
「十五時間だって?」
「アイザックが、無償労働だって言うの。でも三千円はもらえるよ」
「三千円で引き受けたのは、植物の場所を書く仕事だけだろう」
「枝と苔と煉瓦と水路と写真もした。今日は棒を持ったよ」
「その追加分を、宮沢さんは払うと言ったのかい」
「言ってない。でも、私の図が役に立ったって」
ハルは紡の手を取り、指先を裏返した。巻き尺で擦れた人差し指には赤い跡ができ、小枝を集めたときについた細かな傷も残っている。ハルは傷へ消毒液を塗り、小さな絆創膏を巻いた。
「褒め言葉で腹がいっぱいになるなら、今日の夕飯はいらないかい」
「いる。今日は鶏肉でしょう」
「仕事だって同じだよ。褒めてもらうのはうれしい。でも、それで飯や服は買えない」
「お金を聞いたら、宮沢さんが怒るかもしれない」
「怒るかどうかは、あの人の問題だ。働いた時間を伝えることは、お前が悪いことをした証拠じゃない」
ハルは紡が作った植栽図、作業記録、蓮から受け取った最初の依頼書を集めた。縁側へ座布団を二枚並べ、麦茶の代わりに温かいほうじ茶を用意した。冷房のない家で熱い茶を出すのはどうかと紡が尋ねると、冷たいものばかり飲むと腹が冷えるとハルは答えた。
夕方、模型を取りに来た蓮を、ハルは縁側へ座らせた。蓮は紡の植栽図を丸め、黒い筒へ入れていた。紡は庭へ下りたまま、二人から少し離れたところに立った。
「紡の図が役に立ったそうだね」
「ええ。正直、驚きました。コンペの説明資料にも使えると思います」
「それなら、まず仕事の話を終わらせようか」
「最初に決めた三千円は、今日お渡しします」
「三千円で頼んだのは、植物の位置を記録することだったね。枝集め、苔の採取、写真、巻き尺の補助、測量の棒を持つ仕事まで入っていたのかい」
「それは作業の途中で必要になったことで、少し手伝ってもらっただけです」
「少しってのは、何時間だい」
蓮は答えられず、紡のほうを見た。紡は端末を開き、開き、アイザックに作業時間を表示してもらった。十五時間三十八分という数字が大きく画面へ出た。
「最初の三時間を除くと、追加作業は十二時間三十八分です」
「端末でそこまで記録していたんですか」
「休憩時間と移動時間も分けてあるよ。あんたが数えなかった分までね」
ハルは湯飲みにほうじ茶を注いだが、蓮の前へはまだ出さなかった。香ばしい匂いが縁側へ広がり、庭では夕立の前の風がトマトの葉を裏返していた。物干し竿に残っていた紡の黄色いTシャツが大きく膨らみ、洗濯ばさみが一つ外れて地面へ落ちた。
「この子が数えられないと思って、あんたまで数えなくていいことにはならない。働いた時間も、払うべき金もだよ」
「だますつもりはありませんでした」
「だます人間が、みんな最初から悪い顔をしているわけじゃない。自分に都合のいいことを親切とか勉強とか呼んでいるうちに、人を使うことへ慣れるんだ」
「僕は紡さんのためにもなると思っていました」
「それを決めるのは、働いた紡だ。あんたじゃない」
蓮は黒い筒を膝の上へ置いた。庭の記録を頼んだとき、紡なら断らないと考えたことを思い出していた。質問が多いことに苛立ち、自分が急いでいるという理由で、覚えられない量の指示を一度に与えた。それでも紡が作った図だけは、当然のように自分のコンペへ使おうとしていた。
「すみませんでした」
蓮は紡へ向き直った。紡はすぐに笑わず、麦わら帽子の縁を両手で持っていた。庭仕事が終わった後なのに帽子を脱がなかったのは、顔を見られると何を言えばよいか分からなくなるからだった。
「紡さん、最初に頼んだ範囲を超えて働かせてしまいました。追加分を計算して支払います」
「いくらになるの?」
「一時間千二百円として計算します。追加作業が十二時間三十八分なので、端数を切り上げて十三時間分、一万五千六百円です。最初の三千円と合わせて、一万八千六百円を支払います」
「一万八千六百円は、三千円より多い?」
「はい。六倍以上です」
「どうして最初は三千円だけだったの?」
蓮は答えるまでに時間がかかった。ハルは急かさず、ほうじ茶を一口飲んだ。紡も帽子の縁を持ったまま、蓮の言葉を待った。
「あなたが断らないと思ったからです。追加の仕事も、少しくらいなら頼んでいいと、勝手に考えました」
「私が計算できないから?」
「それもありました。金額を細かく説明しなくても、問題にならないと思っていました」
「それは、私をだましたことになる?」
「はい。少なくとも、あなたの苦手なことを僕に都合よく使いました」
蓮は一度自宅へ戻り、白い封筒を持ってきた。中には一万八千六百円が入り、表には作業内容と金額の内訳が大きな字で書かれている。紡はすぐに受け取らず、アイザックへ読み取らせた。
「記載された合計金額は、一万八千六百円です。内訳の計算に誤りはありません」
「封筒の中も数えてください」
紡は紙幣と硬貨を縁側へ並べ、端末のカメラへ映した。ハルも隣で一枚ずつ指を差し、二人で金額を確認した。蓮は黙って待ち、早くするよう促さなかった。
金額が合っていると分かると、紡は封筒へ戻した。それでも口元を緩めず、蓮の顔をまっすぐ見た。指に巻かれた絆創膏の端を撫でてから、自分で用意していた言葉を一つずつ口にした。
「次からは、始める前にいくらか教えてください。何をするのかも、一つずつ書いてください。それなら私は、自分で決められます」
「分かりました。追加の仕事が出たときも、その前に説明します」
「私が聞き忘れても、言ってください」
「必ず言います」
「褒めるのと、お金を払うのは別ですか」
「別です。あなたの図が優れていることと、働いた分を支払うことは、両方とも必要です」
紡はそこで初めて、封筒を胸へ抱えた。大きな金額をそのまま財布へ入れるのは不安だったので、明日ハルと銀行へ行くことにした。アイザックには、一万五千円を預け、三千六百円を生活費として分ける方法を提案してもらった。
夕立が降り始めると、蓮は縁側から庭へ下り、地面へ落ちた黄色いTシャツを拾った。土のついた裾を見て、洗い直したほうがよいと紡へ渡した。紡は受け取りながら、洗濯も仕事に入るのかと尋ねた。
「自分の服を洗うのは、暮らしの仕事だと思います」
「暮らしの仕事にも、お金は出る?」
「自分で自分に払うことはできませんが、やらないと明日着る服がなくなります」
「じゃあ、お金にならない仕事もあるんだね」
「あります。でも、誰かの利益のために頼まれた仕事と、自分の暮らしに必要なことは分けて考えないといけません」
「分かりにくいね」
「僕も、分かっているつもりで間違えました」
蓮が帰った後、紡はハルと一緒にTシャツを洗面器で洗った。雨に濡れた土の匂いが網戸から入り、洗濯石鹸の匂いと混じった。夕食の鶏肉と大根の煮物は鍋の中で冷めかけ、表面には薄い脂の膜ができていた。
「おばあちゃん、私、今日は自分でお金のことを言えたよ」
「言えたね」
「宮沢さんが、もう仕事を頼まなくなったらどうしよう」
「それなら、ただで働く人が欲しかっただけだ。きちんと払ってでも頼みたいと言うなら、お前の仕事が必要なんだよ」
「私の図は、優れてるって言った」
「そこは遠慮せずに覚えておきな。ただし、褒め言葉を財布へ入れようとしても、店じゃ使えないよ」
紡は白い封筒を食卓の端へ置き、冷めた煮物を口へ運んだ。大根には鶏肉の味が染み、箸を入れると柔らかく割れた。三つに切れないものがあっても、働いた十五時間まで消えるわけではない。紡は端末へ今日の記録を頼み、「報酬を確認して受け取った」という項目を、自分で達成に変えた。




