第2話 庭の匂いと、測れないもの(つづき)
第2話 庭の匂いと、測れないもの(つづき)
翌朝、紡は生活支援端末の目覚ましが鳴る前に目を覚ました。網戸の向こうでは雀が鳴き、庭から入ってくる風には、湿った土と青紫蘇の匂いが混じっていた。枕元に置いた猫のぬいぐるみは、夜中に紡が抱えたため、片方の耳がまた内側へ折れている。紡は耳を指で起こしてから、白いTシャツとハルに借りた紺色のもんぺに着替えた。
台所へ行くと、ハルは昨夜の味噌汁を温めていた。鍋の中では、形の崩れたじゃがいもと大根がゆっくり回り、冷や飯を入れたため、汁には白いとろみがついている。食卓には塩鮭の残りと胡瓜のぬか漬けが置かれ、昨日使った麦茶のコップには、洗った後の水滴が一つ残っていた。ハルは白い割烹着の紐を後ろで結びながら、紡の顔を見た。
「ずいぶん早いね。枕が変わって眠れなかったのかい」
「眠れたよ。でも、ケーキのことを考えてた」
「夢の中でも食べたのかい」
「食べてない。切る前で目が覚めたの」
「そりゃあ、もったいない夢だ。せめて食べてから起きればよかったのに」
紡は食卓へ座り、生活支援端末を横に置いた。昨日ハルが見せてくれた三つのトマトを思い出すと、ケーキを同じ大きさに切れなかったことだけで、自分のすべてが決まるわけではないと分かった。しかし、できなかったことをそのままにしておくと、もう一度ケーキが出てきたとき、また定規と糸を持って立ち尽くすことになる。紡は端末の丸い起動ボタンを押した。
「おや、朝飯の前から勉強かい」
「分からないことは、分かる人に聞くの」
「それが一番早いね。人間は一生かかっても、全部を自分一人では覚えられないから」
「おばあちゃんが、小さいときから言ってたでしょう。聞くは一時の恥、聞かぬは末代までの恥って」
「覚えていたのかい」
「郵便ポストに石を入れたときも言われた」
「三つも入れたからね。中がどうなっているのか聞けば、郵便屋さんと一緒に針金で石を拾わずに済んだ」
「郵便屋さん、最後に羊羹を食べて笑ったよ」
「謝りに行くのに手ぶらじゃ悪いと思って、一本持っていったんだ。あの人は甘いものが好きだったからね」
ハルは味噌汁の火を弱め、卵を一つ割り入れた。白身が雲のように広がり、黄色い丸い黄身だけが鍋の中央に残った。紡には、その黄身が昨日のホールケーキに見えた。三つの線を入れようと考えたが、どの線から始めればよいのか、やはり頭の中では形にならなかった。
「アイザック、ホールケーキを三等分するには、どうするの?」
「円の中心から、百二十度ずつ間隔を空けて切ります」
「百二十度は、ケーキのどこにあるの?」
「目で正確に測ることは難しいため、中心と円周上の三点を目印にします」
紡は端末をのぞき込んだが、文字だけではナイフを入れる場所が見えてこなかった。「百二十」という数字を頭に置こうとすると、「十二」と「二十」が別々に浮かび、すぐに順番が入れ替わった。以前なら、分からないと言えば母にため息をつかれると思い、分かったふりをしたかもしれない。だがハルは味噌汁を混ぜながら、急かさずに待っていた。
「アイザック、画像をください。文字だけでは分かりません」
「承知しました。三等分の参考画像を表示します」
端末の画面へ、白いホールケーキの絵が現れた。中央には赤い丸があり、そこから外側へ三本の線が伸びている。一つ目の線は時計の十二時、二つ目は四時、三つ目は八時の方向を指し、三つの間には同じ数の苺が載せられていた。
「時計の形に置き換えて説明します。最初にケーキの中心を見つけ、中央から十二時の方向へ切ります。次に、同じ中央から四時と八時の方向へ切ると、ほぼ同じ大きさの三切れになります」
「十二時、四時、八時?」
「はい。三つの切れ目が、時計の中心から外側へ伸びるようにします」
「おばあちゃん、見て。昨日の苺を十二時と四時と八時に置いたら、目印にできたかもしれない」
ハルは火を止め、濡れた手を割烹着で拭いてから画面をのぞいた。老眼鏡を鼻の先まで下ろし、三本の線を指で追っている。紡が端末を動かすと見えにくくなるため、ハルはその手首を軽く押さえた。
「なるほどね。丸いものを時計に見立てるのか」
「おばあちゃんは、これを見たら切れる?」
「切れると思うよ。ただ、真ん中を間違えたら、やっぱり大きさは少し違ってくるね」
「真ん中はどうやって見つけるの?」
「アイザックへ聞いてごらん。せっかく起きているんだから、朝から働いてもらおう」
「アイザック、ケーキの真ん中は、どうやって見つけるの?」
「円形のケーキを上から見て、最も幅の広い部分を縦と横に確認します。二つの幅が交差する位置がおおよその中心です。より分かりやすくする場合は、ケーキと同じ大きさの紙へ十字の折り目をつけ、食品へ触れないよう横に置いて、中心の位置を確認してください」
「紙を使ってもいいの?」
「はい。清潔な道具や型紙を利用することは、一般的な方法です」
紡は膝の上に置いていた両手を開いた。昨日、母はケーキを切るために定規と糸を持ち出す人などいないと言った。しかしアイザックは、紙や目印を使ってよいと説明している。紡が同じ大きさにしたくて道具を探したことまで、間違いだったわけではなかった。
「私、昨日、定規を使おうとしたの。糸も三つに折ろうとした」
「円周を糸で測り、三等分した位置へ印をつけることでも切り分けられます。ただし、裁縫用の糸を食品へ直接触れさせることは避けてください」
「じゃあ、考え方は合ってた?」
「均等に分けるための目印を作ろうとした点は適切です。衛生面と測定方法には改善が必要です」
「全部が間違いじゃなかったんだね」
ハルは紡の前へ味噌汁を置いた。椀の中では卵の黄身が半分ほど崩れ、冷や飯の粒に黄色く絡んでいる。湯気には味噌と油揚げの匂いが混じり、紡の鼻の先を温めた。
「最初から全部うまくできる人なんていないよ。間違ったところだけ直せばいいのに、人間そのものを不良品みたいに言うほうがおかしいんだ」
「お母さんは、私が二十歳だから、できなくちゃいけないと思ったのかな」
「二十歳になったら、夜中に急に知恵が増えるわけじゃない。昨日のお前と今日のお前は、一日分しか違わないよ」
「でも今日は、三つに切る画像を持ってる」
「なら、その一日で一つ増えたじゃないか」
紡は味噌汁を一口飲み、端末の画面を保存した。画像には「三等分」という題名が自動でつけられたが、漢字だけでは後で探しにくい。紡は音声入力を使い、「ケーキを三人で食べるとき」という名前に変更した。
「五つに切るときは、どうするの?」
「五等分する場合、円の中心から七十二度ずつ切り分けます」
「七十二度も見えません。画像をください」
「承知しました。五等分の画像を表示します」
画面のケーキに、今度は五本の線が現れた。中央から外側へ広がる線は、開いた扇子の骨のように並んでいる。ケーキの縁には赤、青、黄、緑、紫の丸い印がつき、それぞれの間が同じ広さになっていた。
「五つは、十二時、四時、八時ではできないの?」
「時計は十二等分されているため、五等分の位置とは一致しません。目分量で切ることもできますが、同じ大きさに近づけるなら、五等分用の型紙やケーキマーカーを使う方法が簡単です」
「ケーキマーカーって何?」
「ケーキの表面へ、切り分ける位置の目印をつける道具です。三等分、五等分、七等分など、目分量では難しい数に対応した製品があります」
「道具を使うのは、ずるじゃない?」
「いいえ。目的に合った道具を使用することは、問題を解決する方法の一つです」
ハルは塩鮭の骨を箸で取りながら、短く笑った。皿の端には、食べ終わった骨が魚の形に近いまま並んでいる。ハルは魚をきれいに食べることだけは昔から得意で、紡が小さいころには、残った骨を猫へ見せて自慢していた。
「眼鏡をかけるのも、杖をつくのも、みんな道具を使ってるんだ。私だって眼鏡を外したら、鮭の骨と身の区別がつかないよ」
「おばあちゃんは、眼鏡を使うのが恥ずかしい?」
「ちっとも。骨を食べて喉へ刺すほうが困る」
「私がアイザックを使うのも、眼鏡と同じ?」
「そうだよ。見えにくいところを見えるようにしてもらうんだ」
紡は五等分の画像も保存した。三人なら十二時、四時、八時を目印にする。五人なら無理に頭の中だけで考えず、型紙かケーキマーカーを使う。覚えられなくても、端末を開けば同じ画像をもう一度見られる。
「アイザック、六つなら?」
「六等分は、最初に二等分し、それぞれを三等分する方法があります。画像を表示しますか」
「今日はいい。たくさん見ると、三つと五つが混ざるから」
「承知しました。必要になったときに表示します」
「聞かないんじゃないよ。後で聞くの」
「はい。質問を延期しました」
ハルは茶碗に残った冷や飯を一粒ずつ箸で集めた。紡も椀の底に残った卵を匙ですくい、最後まで食べた。窓の外では、洗濯物を干すために張った縄が風で揺れ、昨日洗った薄桃色のワンピースの裾が朝日に透けていた。
朝食の後、紡は新しいノートを開き、小鉢を伏せて円を二つ描いた。左の円には赤い色鉛筆で三本の線を引き、外側へ十二時、四時、八時と書いた。右の円には青い線を五本引こうとしたが、二本目と三本目の間が狭くなったので、消しゴムで消した。紙の表面が少し毛羽立ったが、破れないように指で押さえた。
「おばあちゃん、五つはやっぱり難しい」
「難しいなら、画像を見ながら描けばいい」
「同じように描けないよ」
「絵を上手に描くためのノートじゃないんだろう。後でお前が見て分かれば、それでいいんじゃないかい」
「この線が狭いと、ここのケーキだけ小さくなる」
「だったら、『五つは型紙を使う』って書いておけばいい」
紡は「型紙」という漢字が分からなかったので、アイザックに一文字ずつ大きく表示してもらった。画面とノートを交互に見ながら書くと、「型」の右側が少し大きくなった。それでも紡は消さず、文字の横へ紙と鋏の絵を描いた。
「ノートの写真を保存しますか」
「お願いします。名前は『分からなかったから聞いたこと』にして」
「題名は十二文字です。短い名称へ変更しますか」
「変えません。長くても、忘れたくないから」
「承知しました。保存しました」
紡は端末とノートを布袋へ入れ、庭仕事用の麦わら帽子をかぶった。帽子はハルにはちょうどよくても、紡には少し大きく、顔を下へ向けると目まで隠れた。ハルは洗面所から古い手拭いを持ってきて細く畳み、帽子の内側へ挟んだ。
「これで落ちないよ。今日は宮沢さんが来るんだろう」
「庭の植物を記録するの」
「始める前に、何を聞くんだった?」
「いつまでに終わらせるのかと、何時間くらいやるのかと、お金をいくらもらえるのか」
「忘れなかったね」
「聞いたら、役に立たない人だと思われないかな」
「聞かずに一週間ずっと働いて、あとから話が違うと言うほうが困るよ。分からないことを聞くのは、相手と同じ場所に立つためなんだ」
「聞くは一時の恥、聞かぬは末代までの恥だね」
「そうだ。ただし、ちゃんとした質問を笑う人がいたら、その恥は質問した人のものじゃない。笑った人のものだよ」
紡は庭へ出た。朝の土はまだ湿り、草履の裏へ黒い土がついた。トマトの葉を指で軽く触ると、手に青臭い香りが残った。昨日の三つのトマトが実っていた枝には、まだ小さな黄色い花が二つ咲いている。
紡は生活支援端末を開き、保存した三等分の画像をもう一度表示した。白いケーキの中央から、十二時、四時、八時へ線が伸びている。昨日のように丸いものを前にして手が止まっても、今日は尋ねる言葉を知っていた。
「アイザック、画像をもう少し大きくしてください」
「拡大しました」
「ありがとう。次にケーキが出たら、この画像を見ながら切るね」
「必要であれば、カメラを使用して切る位置を画面上に重ねて表示できます」
「それなら失敗しない?」
「完全に同じ大きさになるとは限りません」
「少しくらい違ってもいいよ。食べる人に、どれがいいか聞くから」
紡は端末を閉じ、宮沢蓮の家へ続く道を見た。測れないものを、無理に同じ大きさへそろえなくてもよい。それでも分からないことを分からないままにせず、必要なときには画像を求め、道具を使い、人へ尋ねればよい。紡はノートの横へ定規を入れ、昨日より少し重くなった布袋を肩へ掛けた。




