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第2話 庭の匂いと、測れないもの

第2話 庭の匂いと、測れないもの


祖母の家に近い駅へ着いたとき、紡の薄桃色のワンピースは背中に張りついていた。改札を出ると、古い商店街の屋根から白い日差しが落ち、八百屋の前に並べられた西瓜の皮が油を塗ったように光っていた。風はほとんどなく、惣菜屋から漂う揚げ物の匂いと、薬局の前で回る蚊取り線香の匂いが混じっている。紡は旅行鞄を右手から左手へ持ち替え、生活支援端末を開いた。


「アイザック、おばあちゃんの家まで、あと何分?」


「徒歩で十九分です。ただし、現在の気温は三十四度です。日陰を選び、途中で水分を補給してください」


「十九分は、昨日の八分より長い?」


「はい。十一分長いです」


「十一分が、どのくらい長いのか分からない」


「紡さんが普段聞いている歌を、約三曲聞く長さです」


「それなら分かる。三曲なら歩けるよ」


紡は端末を肩掛け鞄へ戻し、駅前の自動販売機で水を買おうとした。財布には百円玉が三枚、五十円玉が一枚、十円玉がいくつか入っていたが、百三十円の水を買った後にいくら残るのか分からない。アイザックに財布の中を見せて計算してもらい、百円玉一枚と十円玉三枚を投入口へ入れた。落ちてきたペットボトルは冷たく、掌にたまった汗が一度に引いていくようだった。


商店街を抜けると、道の両側に低い塀の家が増えた。軒下には朝顔の鉢や子ども用の小さな自転車が置かれ、ある家の物干し竿では、黄色いタオルと男物の白い肌着がほとんど動かずに干されていた。蝉の声が頭の上から降り続け、紡は地図の青い線を何度も確かめた。曲がり角に来るたび、端末は短い音で進む方向を知らせた。


「次の角を右へ曲がります」


「この角?」


「あと十二メートル先です」


「十二メートルって、どこまで?」


「電柱二本分ほどです」


「電柱なら分かる。アイザックは、私に分かる言い方が上手になったね」


「過去の応答履歴を参考にしています」


紡は電柱を二本数え、細い道を右へ曲がった。すぐに、道の奥から土と草の濃い匂いが流れてきた。古い板塀の向こうには柿の木が伸び、枝の一部が電線へ届きそうになっている。木でできた門柱には、墨の薄くなった「相田」という表札が掛かっていた。


門の前まで来ると、紡は旅行鞄を下ろした。庭は昔より狭くなったようにも、広くなったようにも見えた。子どものころに膝までしかなかった草は、いまでは紡の腰近くまで伸び、赤紫色の穂を揺らしている。青いトマトの匂い、日に温められた土の匂い、どこかで干している梅の酸っぱい匂いが、息を吸うたびに鼻の奥へ入ってきた。


「おばあちゃん」


紡が呼ぶと、家の中で何かが倒れる音がした。続いて引き戸が勢いよく開き、相田ハルが片方の靴下だけを履いた姿で縁側へ出てきた。白い木綿のブラウスに、紺色のもんぺを合わせ、首には水玉模様の手拭いを巻いている。短く切った白髪は片側だけ寝癖で浮き、右手には布巾を握っていた。


「紡、そこにいたのかい。十一時四十二分に着くって聞いてたのに、ちっとも来ないから、迎えに出ようとしてたんだよ」


「駅から十九分だった。途中でお水を買ったから、歌三曲より長くなったの」


「そりゃあ、水を買って正解だ。こんな日に急いで歩いたら、庭へ着く前に干し大根になっちまう」


「おばあちゃん、靴下が片方しかないよ」


「もう片方は洗濯機の横だ。履こうと思って持っていったのに、途中で味噌汁の火を消したか気になってね」


「火は消えてた?」


「消えてた。そしたら今度は、何をしに台所へ来たのか忘れた」


ハルが笑うと、紡の指から旅行鞄の持ち手が離れた。ハルは鞄の大きさを見ても、どうしてこんなに荷物を持ってきたのかとは尋ねなかった。代わりに紡の額へ触れ、汗で濡れた前髪を横へよけた。土を触った後らしく、ハルの指からは青臭い葉の匂いがした。


「まず家へ入りな。麦茶が冷えてるよ」


「お母さんが、おばあちゃんの手伝いをしなさいって」


「手伝いは麦茶を飲んでからだ。倒れた人間に草むしりはできないからね」


「私、今日からここで暮らすんだって」


「聞いてるよ。お前の部屋も用意してある」


「いつまでかは、聞いてる?」


ハルは一度だけ紡の鞄へ目を落とした。それから何も答えず、片方だけ靴下を履いた足で土間へ下りた。紡の旅行鞄を持ち上げようとして腰を押さえたため、二人で片側ずつ持つことにした。


家の中には、畳と古い箪笥の匂いが残っていた。廊下の壁には、紡が小学生のころに描いた黄色い向日葵の絵がまだ貼られている。絵の下にはハルの通院予定が書かれたカレンダーがあり、二日後の日付に赤い丸がついていた。台所の隅では古い扇風機が首を振り、風が来るたび、食器棚の上に置かれた薬局の紙袋がかさかさと鳴った。


「この扇風機、まだ動いてるんだね」


「お前が小さいころ、指を入れようとして怒られた扇風機だよ」


「覚えてる。指が細いから入ると思ったの」


「入るから危ないんだよ。お前は昔から、試す前に聞くってことをしなかった」


「今はアイザックに聞くよ」


「そうかい。それなら扇風機にも礼を言わなきゃね。紡の指を二十年守ってくれて、ありがとうって」


ハルは冷蔵庫から麦茶の入ったガラス瓶を取り出した。透明なコップには、大きさの違う氷が三つずつ入れられた。紡が一口飲むと、冷たい麦茶が乾いた喉を通り、炒った麦の香りが鼻へ抜けた。ハルは梅干しを入れたおにぎりと、胡瓜のぬか漬けを丸い盆へ載せた。


「朝、食パンを食べたよ。端が黒く焦げてた」


「なら、昼は米にしよう。梅干しは去年のだが、腹は壊さないよ」


「おばあちゃんが漬けたの?」


「そうだ。塩を量るときに眼鏡を忘れて、少ししょっぱくなった」


「量るのを間違えても、食べられる?」


「塩なら水へ浸せば少し抜ける。人間の間違いも、たいていは後から手を入れられるよ」


紡はおにぎりを両手で持ち、海苔のない白い部分からかじった。中の梅干しは頬の内側が縮むほど酸っぱく、目を閉じると汗が額から流れた。胡瓜は冷たく、噛むたびに小さな音がした。ハルのおにぎりは紡のものより小さかったので、紡は盆に残っていた半分を差し出した。


「おばあちゃん、私のほうが大きい。半分食べる?」


「それはお前の分だ。若い人間が食べな」


「でも、お父さんは昨日、一番大きなケーキを食べた」


ハルは胡瓜を噛むのをやめた。紡は昨日のケーキのことを、最初から順番に話した。定規を持ってきたこと、糸を三つに折ろうとしたこと、苺の数だけは二つずつにできると思ったこと、それでも切ったケーキの大きさがばらばらになったことを説明した。母が一番細いものを取り、父が一番大きなものを黙って取ったところまで話すと、ハルは麦茶をゆっくり飲んだ。


「それで、お前はどれを食べたんだい」


「先が欠けたケーキ。苺は二つあったよ。でも一つは倒れたから、フォークで戻した」


「味はどうだった?」


「甘かった。苺は少し酸っぱかった」


「なら、ケーキとしては合格だ」


「形は不合格だったよ。お母さんが、二十歳なのにこんなこともできないって」


ハルは立ち上がると、冷蔵庫へ向かわず、縁側から庭へ下りた。裸足に草履を引っかけ、伸びた草を手でかき分けていく。紡は何をするのか分からず、食べかけのおにぎりを皿へ置いて後を追った。


庭の奥には、竹の支柱に結ばれたトマトの苗が何本も並んでいた。葉の間には赤い実も青い実もあり、虫に食われた葉には小さな穴が開いている。ハルは腰を曲げ、大きな赤いトマト、小さくて丸いトマト、少し曲がった細長いトマトを一つずつ採った。三つをエプロンの裾で拭き、縁側へ戻って新聞紙の上に並べた。


「これは、みんな同じ苗になったトマトだ」


「同じ苗なのに、形が違うね」


「日の当たり方も、花が咲いた日も違ったからね。こっちは大きいし、こっちは小さい。曲がったのは、隣の枝に当たって育ったんだ」


「小さいのは失敗?」


「食べてみな」


ハルは小さなトマトを台所で洗い、包丁で半分に切った。紡が片方を口へ入れると、皮の中から甘い汁が広がった。大きなトマトより味が濃く、種の周りはゼリーのように柔らかかった。


「甘い。これが一番おいしいかもしれない」


「同じ枝になったって、同じ大きさにはならないよ。人間だって同じだ。大事なのは、誰か一人が大きいものを黙って取らないことだ」


「お父さんは、黙って取ったよ」


「だったら、ケーキを切れなかったお前だけが悪いんじゃない」


「でも、上手に切れなかったのは本当だよ」


「できないことは、できないままでいいとは言わない。切り方を教わってもいいし、切れる人に頼んでもいい。最初から三等分しないで、食べたい量を聞いて切ったっていいんだ」


「そんな切り方でもいいの?」


「ケーキは法律じゃないんだから、食べる人が納得すりゃいいんだよ」


紡は新聞紙に並んだ三つのトマトを見た。大きなものが偉く、小さなものが恥ずかしいとは、もう見えなかった。曲がったトマトには横から押された跡が残っていたが、ハルはそれも今夜のサラダへ入れると言った。


昼食の後、紡は用意された六畳の和室へ荷物を運んだ。窓には薄い青色のカーテンが掛かり、机の上には新しいノートと十二色の色鉛筆が置かれている。押し入れにはハルが日に干した布団が入り、綿からは太陽と古い石鹸を混ぜたような匂いがした。鞄から猫のぬいぐるみを出すと、折れていた耳がまだ少し曲がっていた。


「おばあちゃん、ミイも連れてきたよ」


「久しぶりだね。ずいぶん痩せた猫だ」


「洗濯したら、中の綿が片方に寄ったの」


「うちへ来たなら、たくさん食べさせなきゃね」


「ぬいぐるみは食べないよ」


「知ってるよ。そういう無駄な話ができる相手がいると、家は静かになりすぎないんだ」


紡は猫のぬいぐるみを枕元へ置き、ワンピースから白いTシャツと薄い水色のズボンへ着替えた。汗を吸ったワンピースは洗濯籠へ入れたが、母が選んだ服なので勝手に洗ってよいのか迷った。ハルに尋ねると、汗をかいた服を洗うのに許可はいらないと言われた。紡は洗濯機へ服を入れ、洗剤をどこまで注ぐのかアイザックに教えてもらった。


午後三時を過ぎたころ、玄関の引き戸が二度鳴った。ハルは庭で青紫蘇を摘んでいたので、紡が代わりに玄関へ出た。そこには白い麻のシャツと黒いズボンを着た背の高い男が立っていた。三十二歳の建築家、宮沢蓮だった。


蓮は一か月前、三軒先の空き家へ引っ越してきた。短く整えた黒髪には汗が光り、片手に回覧板、もう片方に紙袋を持っていた。紙袋からは、バターと砂糖の甘い匂いがする。蓮は紡を見た瞬間、挨拶の言葉を少し遅らせた。


「こんにちは。相田さんのお宅ですよね」


「はい。相田です」


「僕は近所の宮沢です。おばあさんはいますか」


「庭にいます。私は孫の紡です。今日からここに住みます」


「そうなんですね。これ、引っ越しの挨拶が遅くなったので。焼き菓子です」


「焼いたお菓子なら、今食べてもいい?」


「紡、いただいたものを玄関で開けるんじゃないよ」


庭からハルの声が飛んできた。紡は紙袋を胸の前に抱え、蓮を座敷へ案内した。ハルは青紫蘇の入った笊を持って戻り、手を洗ってから麦茶を三人分用意した。


「宮沢さん、今日は回覧板かい」


「はい。夏祭りの交通規制と、空き地の除草についてです」


蓮は回覧板を紡の前へ広げた。黒い文字が細かく並び、道路の名前や時間が表になっている。紡は一行目を指で追ったが、「車両通行止め」の途中で目の位置が分からなくなった。文字が上下へ重なって見えたため、何度か瞬きをした。


「紡さん、この辺に車を止める予定があるなら、読んでおいたほうがいいですよ」


「私は車を運転しません」


「でも、内容くらい確認したほうがいい。大人なら回覧板も読むでしょう」


「文字がたくさんあると、どこを読んでいるか分からなくなるの。アイザックに読んでもらいます」


紡が端末を回覧板へ向けると、蓮は片方の眉を上げた。端末は紙面を読み取り、重要な部分だけを短い文章に変えて読み上げた。八月五日の午後六時から九時まで、神社前の道路へ車が入れないこと、空き地の草刈りは翌週の日曜日に行われることが伝えられた。


「便利なものを使っているんですね」


「区から借りています。長い字を読んでもらったり、お金を数えてもらったりします」


「計算も苦手なんですか」


「はい。ケーキも三つに切れませんでした」


紡は隠す必要がないと思い、その日の朝から何度も考えていたことをそのまま話した。蓮は麦茶のコップへ口をつけながら、紡の顔と端末を交互に見た。幼い受け答えをする一方で、目をそらさずに話す紡の顔は、街で見かければ誰もが振り返るほど整っていた。だが蓮が気に留めたのは、その美しさより、頼み事をすれば断らなさそうな態度だった。


蓮の家の机には、地域再生をテーマにした設計コンペの資料が積まれていた。提出期限まで三週間しかなく、庭と古民家を生かした交流施設の案は、まだ形になっていない。ハルの庭には、昔の園芸農家が使った水路、温室、苗床が残っている。植物の位置をすべて記録できれば、設計の資料として役に立つはずだった。


「紡さんは、庭の植物に詳しいんですか」


「名前は全部分からないけど、匂いで分かるものもあります。あそこにあるのは青紫蘇で、触ると手がいい匂いになります」


「じゃあ、少し手伝ってもらえませんか。庭のどこに何が植わっているか、紙に記録してほしいんです」


「何のために使うの?」


「僕は建築の仕事をしています。古い家と庭を残す方法を考えていて、その参考にしたいんです」


「私が書いたものが、建物になるの?」


「うまくいけば、そうなるかもしれません」


紡の口元が緩み、両手が膝の上で重なった。両親の家では、何かを手伝おうとするたび、かえって仕事が増えると言われていた。ここへ来た最初の日に、知らない人から仕事を頼まれたことがうれしく、期限や作業量を考える前に答えが出た。


「やります。私、庭を見て書きます」


「助かります。できるだけ詳しくお願いします」


「色鉛筆を使ってもいい? 名前が分からない花は、色で描けるから」


「何でもいいですよ。明日から始めてもらえますか」


「今日からでもできるよ。まだ外は明るいから」


ハルは笊の青紫蘇を一枚ずつ確かめ、虫に食われた葉だけを別の皿へ移していた。蓮が報酬も提出期限も説明しないことに気づいていたが、その場では口を挟まなかった。紡が自分から何を尋ねるかを待ったものの、紡は新しいノートを取りに立ち上がってしまった。


戻ってきた紡は、十二色の色鉛筆を座卓へ並べた。赤、青、黄色と一本ずつ指で触れ、庭のどこから始めればよいか蓮へ尋ねた。蓮は温室の周辺から始めるよう頼み、必要なら写真も撮ってほしいと付け加えた。


「写真は何枚くらい?」


「多いほど助かります」


「百枚でもいい?」


「撮れるなら、お願いします」


「いつまでに渡すの?」


「できるだけ早く。僕も急いでいるので」


「分かった。早くする」


蓮は立ち上がり、空になった麦茶のコップを座卓へ置いた。紡は回覧板とノートを持ち、蓮を門まで見送ろうとした。ハルも縁側から庭へ下り、二人の後ろをゆっくり歩いた。


門の外では、西日が古い板塀を赤く照らしていた。道路の端では、近所の子どもが水色のじょうろで朝顔へ水をやり、犬を連れた女性が日傘の下からハルへ頭を下げた。紡は明日着る服を考えながら、白いTシャツは土で汚れるかもしれないと蓮へ話した。


「汚れてもいい服のほうがいいでしょうね」


「もんぺを借りようかな。おばあちゃんのは大きいけど、紐で結べば履けるよ」


「暑いので、無理はしないでください」


「大丈夫。私は役に立てるから」


紡はそう言って、回覧板を胸へ抱えた。蓮は軽く笑い、明日また来ると約束して自宅の方向へ歩き始めた。ハルは紡に先に家へ戻るよう言い、自分だけ門の外に残った。


「宮沢さん」


ハルの低い声に呼び止められ、蓮は足を止めた。振り返ると、ハルは手拭いで首の汗を拭きながら立っていた。曲がった腰や日に焼けた手とは違い、その目だけは少しも衰えていなかった。


「何でしょう」


「紡に頼んだ仕事は、何時間くらいかかるんだい」


「まだ分かりません。庭の広さにもよりますから」


「いつまでに欲しいんだい」


「できれば一週間以内です」


「それで、いくら払うつもりだい」


蓮の口が止まった。近所の庭を見せてもらい、その記録を手伝ってもらうだけだと考えていた。紡も喜んでいたのだから、金銭を支払う仕事という意識はなかった。


「そこまで大げさなものではありません。紡さんも庭の勉強になりますし、できる範囲で構いません」


「勉強になる仕事なら、ただで人を使っていいのかい」


「利用するつもりではありません。本人もやりたいと言ったので」


「そりゃあ、あの子は頼まれたら喜ぶよ。自分が役に立たないと言われ続けてきた子だからね」


ハルは声を荒らげなかった。道の向こうから豆腐屋のラッパが聞こえ、台所の窓では、洗い終わった紡のワンピースが扇風機の風に揺れていた。蓮は縁側に置かれた新しいノートと、紡が一本ずつ並べた色鉛筆を見た。


「この子が疑わないことと、あんたがだましていいことは、同じじゃないよ」


「だましてなんかいません」


「そうかい。なら明日、期限と報酬を先に説明しておくれ。分からないと言われたら、分かる言葉に直してやってくれ」


「分かりました。考えておきます」


「考えるんじゃない。決めてから頼むんだよ」


蓮は返事をせず、白いシャツの袖を一度引いた。門の内側から、紡がハルを呼ぶ声が聞こえた。洗濯機が止まったので、ワンピースをどこへ干せばいいか分からないらしい。


「いま行くよ。物干し竿は逃げないから、慌てるんじゃないよ」


ハルは紡へ答えてから、もう一度だけ蓮を見た。蓮は小さく頭を下げ、自宅へ向かって歩き出した。背中に残った汗が、夕方の風に冷えていった。


家へ戻ると、紡は濡れたワンピースを両手で抱えていた。洗濯籠の底には、片方だけの靴下が残っている。ハルは朝から探していた靴下を拾い上げ、こんなところにいたのかと笑った。


「おばあちゃん、宮沢さんと何を話してたの?」


「仕事を頼むときの話だよ」


「私、ちゃんとできるかな」


「できないところがあったら、できないと言えばいい。分からないことがあったら、先に聞けばいい」


「聞いたら、役に立たないと思われない?」


「分からないまま引き受けて倒れるほうが、よっぽど困る。仕事は我慢比べじゃないんだよ」


紡はワンピースの肩を物干し竿へ掛けたが、洗濯ばさみを片側に三つつけ、反対側には一つしかつけなかった。風が吹くと裾が斜めに持ち上がったので、ハルが一つを反対側へ移した。二人は縁側に並び、庭の奥に沈んでいく夕日を見た。


夕食には、三つのトマトと胡瓜を切ったサラダ、青紫蘇を刻んだ冷ややっこ、朝の残りの味噌汁が並んだ。味噌汁は鍋の底で少し煮詰まり、じゃがいもの角が崩れていた。ハルは大きなトマトも小さなトマトも曲がったトマトも同じ鉢へ入れ、箸で混ぜた。


「おばあちゃん、この小さいの、昼に食べた甘いトマトかな」


「さあね。切ったら、どれがどれだか分からなくなった」


「形が違っても、切ったら一緒になるんだね」


「一緒になるところもあれば、ならないところもある。それでいいんだよ」


紡はサラダの中から赤いトマトを一つ取り、ハルの小鉢へ入れた。今度はどちらが大きいか、しばらく見比べてから選んだ。ハルは黙って食べ、酸っぱい顔をした。


「それ、甘くなかった?」


「ちょっと早かったね。まだ青い味がする」


「じゃあ、私の甘いのと半分ずつにする?」


「そうしよう。甘いのも酸っぱいのも、分けりゃあ同じだけ味わえる」


紡は自分のトマトを箸で半分にしようとしたが、うまく切れず、片方が大きくなった。大きいほうをハルの小鉢へ入れようとすると、ハルは首を振り、小さいほうを取った。どちらも黙って大きなものを取らなかったので、二人は顔を見合わせて笑った。


夜になり、庭の蝉が鳴きやむと、代わりに網戸の外から虫の細い声が聞こえ始めた。紡は布団に入り、枕元へ猫のぬいぐるみと生活支援端末を置いた。明日は庭の植物を記録する日なので、アイザックに七時の目覚ましを頼んだ。


「明日の予定に、庭の記録作業を追加しました。終了時刻は何時ですか」


「分からない。宮沢さんが、できるだけ早くって言ったから」


「作業時間が設定されていません。休憩時刻を登録しますか」


「役に立つまでやったら、終わりでいいんじゃない?」


「『役に立つまで』は、終了条件として測定できません」


紡は天井から下がる古い照明を見た。紐の先には、ハルが編んだ赤い毛糸の玉がついている。窓から入る土と青いトマトの匂いは、両親の家の柔軟剤の匂いより濃かった。


「じゃあ、おばあちゃんに聞く。分からないまま始めたらいけないって言ってたから」


「承知しました。明日の朝、確認するよう通知します」


「アイザック。今日の私は、役に立った?」


「洗濯を一回行い、食器を二枚運び、回覧板の情報を確認しました」


「三つもしたんだね」


「はい。ただし、人の価値を作業の数だけで判断することはできません」


「それは、おばあちゃんが教えたの?」


「いいえ。支援システムの基本方針に含まれています」


紡は少し考え、猫のぬいぐるみの曲がった耳を撫でた。母と父には、その基本方針が入っていなかったのかもしれない。そう口にしようとしたが、廊下からハルが薬を探して引き出しを開ける音が聞こえたので、紡は布団を出た。


「おばあちゃん、薬は食器棚の上の紙袋だよ」


「そうだった。紡が来てくれて助かったよ」


ハルの声を聞くと、紡は裸足のまま廊下を歩いた。庭に何本の草木があるのかも、明日の仕事に何時間かかるのかも、まだ分からない。それでも、自分を呼ぶ声のする家で眠るのは、昨夜とは違っていた。



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