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第1話 三つに切れないケーキと、片道切符

第1話 三つに切れないケーキと、片道切符


七月の夕方、相田紡は台所の丸椅子に座り、冷蔵庫の低い音を聞きながら、母が帰ってくるのを待っていた。二十歳の誕生日だったので、紡は白い襟のついた薄桃色のワンピースを着ていたが、去年買ってもらった服は脇のあたりが少しきつくなっていた。テーブルには三枚の白い皿と銀色のフォークが並べられ、中央には父が朝に飲み残した麦茶のコップが置かれたままだった。水滴の消えたコップの底には、薄茶色の輪染みができていた。


「お母さん、何時に帰ってくるかな」


紡が生活支援端末へ尋ねると、青い画面に丸い光が浮かんだ。自治体から借りている端末には、文字を読み上げたり、予定を知らせたり、買い物に使った金額を計算したりする機能が入っていた。紡はそのAIに「アイザック」という名前をつけ、分からないことがあるたびに相談していた。


「登録されている予定では、十八時三十分です。現在時刻は十八時二十二分です」


「あと八分だね。八分なら、お米を研ぐには短いかな」


「炊飯には間に合いませんが、洗米を始めることはできます」


紡はうなずいたものの、米びつには触らなかった。母から、今日は何もしなくていいと言われていたからだ。言われていないことをして叱られるのも、言われたことを忘れて叱られるのも怖く、紡は両手を膝の上へ重ねた。ワンピースの裾を指で挟んでいると、玄関の鍵が回る音がした。


母の佐知子は、駅前の洋菓子店の箱を両手で抱えて帰ってきた。紺色のブラウスの背中には汗がにじみ、首には細い金色のネックレスが張りついていた。箱から出てきたのは、白い生クリームに苺が六粒載った丸いケーキだった。甘い香りが広がると、紡のおなかが小さく鳴った。


「わあ、苺だ。お母さん、ありがとう」


「駅前で一番小さいのを買ってきたのよ。お父さんが帰ったら食べるから、それまで触らないでね」


「うん。ろうそくは二十本立てるの?」


「そんなに立てたら穴だらけになるでしょう。長いのを二本でいいの」


紡は戸棚からろうそくを探し、赤いものを二本見つけた。以前の誕生日で使った残りらしく、一本は先端が少し曲がっていた。まっすぐなものと曲がったものを並べると、どちらを十歳にすればいいのか迷ったが、母に尋ねればまた話が長くなると言われそうなので、黙って箱へ戻した。


十九時を過ぎて帰宅した父の和正は、灰色の作業着を脱いで肌着姿になり、洗面所で顔を洗った。居間へ来たときには髪の生え際から水が垂れ、首に掛けた白いタオルで乱暴に拭いていた。佐知子は昼の残りの冷やし中華を冷蔵庫から出し、乾きかけた錦糸卵と胡瓜に、新しいたれをかけた。紡の皿にはハムが二枚、父の皿には四枚載っていた。


「今日で二十歳か。早いもんだな」


「二十歳になったら、お酒を飲んでもいいんでしょう。でも私は甘い麦茶のほうが好き」


「お前は酒なんか飲まないほうがいい。薬との飲み合わせもあるだろう」


「今日は薬、夕ご飯のあとに飲むよ。忘れないように、アイザックにも頼んだの」


父は返事をせず、冷やし中華をすすった。テレビでは芸能人が三人で旅をする番組が流れ、同じ形のソフトクリームを持った三人が笑っていた。紡は胡瓜を一本ずつ箸でつまみながら、三人とも同じ量をもらったのだろうかと考えた。


食事が終わると、母はケーキをテーブルの中央へ置いた。曲がったものとまっすぐなもの、二本のろうそくに火をつけ、部屋の照明を消した。炎はエアコンの風で片側へ傾き、苺の表面を濡れたように光らせていた。父と母が小さな声で誕生日の歌を歌い、紡は一息で二本とも吹き消した。


「お母さん、煙が甘い匂いする」


「そうね。じゃあ紡、三人分に切って」


母からケーキナイフを渡されると、紡の指先が止まった。四つなら十字に切ればいいことは知っていたし、二つなら真ん中に一本の線を入れればよかった。しかし三つにするときは、最初の一本をどこに入れればいいのか分からなかった。ケーキの上に載った六粒の苺を二粒ずつ分けることはできても、丸い台まで同じ大きさにする方法が思いつかなかった。


「お母さん、印をつけてくれる?」


「二十歳なんだから、自分で考えてごらんなさい。三等分するだけでしょう」


「苺は二つずつだから分かるよ。でも、白いところが同じにならないかもしれない」


「だいたいでいいのよ。早くして。生クリームが溶けるでしょう」


紡はケーキナイフを持ったまま、台所へ行った。裁縫箱から白い糸を出し、引き出しの奥にあった十五センチの定規も持ってきた。定規には乾いた小麦粉がついていたので、布巾で拭いてからケーキの直径を測った。目盛りの数字を一つずつ指で追ったが、十五センチを越えた分をどう足せばよいのか分からなくなった。


「何をしてるんだ」


父が椅子の背にもたれ、あくびをしながら尋ねた。紡は糸をケーキの周りへ巻きつけ、その長さを三つに折ろうとした。しかし一つ目を折ると残りの長さが分からなくなり、糸の端が生クリームへ触れた。母は眉間にしわを寄せ、紡の手から定規を取り上げた。


「ケーキ一つ切るのに、定規と糸を持ってくる人がどこにいるのよ」


「同じにしたかったの。お父さんだけ大きかったら、お母さんの分が小さくなるでしょう」


「そんなこと、見れば分かるでしょう。だいたい三角に切ればいいの」


「その三角の角を、どこから始めたらいいか分からないの」


「もういい。好きなように切りなさい」


母の声が硬くなったので、紡は急いでナイフを入れた。最初の一切れは細長くなり、二切れ目はその倍ほどの大きさになった。残った部分を見て小さくしようともう一本切ったため、最後の一切れは先端が欠けた四角に近い形になった。六粒の苺も、一切れには三粒、もう一切れには二粒、細い一切れには一粒しか載らなかった。


「ほら、やっぱり変になったじゃない」


母は細い一切れを自分の皿へ移した。父は一番大きな一切れを取り、苺を一粒口へ入れた。紡は残った先端の欠けたケーキを皿に載せ、生クリームで汚れた糸をティッシュに包んだ。


「二十歳にもなって、こんなこともできないなんて。外で同じことをしたら、私たちまで笑われるのよ」


「外ではケーキを切らないようにする。切ってくださいって頼むから」


「そういう話をしているんじゃない」


「じゃあ、どういう話?」


母は答えず、冷蔵庫の扉を開けてペットボトルの水を出した。父はテレビを見たまま、大きな一切れを半分ほど食べている。紡は自分のケーキをフォークの背で整え、倒れた苺を生クリームの中央へ戻した。形は違っていても、口へ入れるとスポンジは柔らかく、苺は少し酸っぱかった。


ケーキを食べ終えた母は、食器棚の上に置かれていた紡の小遣い帳を持ってきた。桃色の表紙には、紡が青いペンで名前を書いていたが、「紡」の右側が何度もなぞられて黒く太くなっていた。ページには、百円ショップで買った色鉛筆、コンビニのプリン、駅前の花屋で買った種の金額が書かれている。消しゴムで何度も消したため、紙の一部は薄く毛羽立っていた。


「これも今日、整理しておきなさい。残っているお金と帳面の金額が合わないわよ」


「昨日、アイザックと計算したよ。四千八百円残っているはず」


「財布には三千二百円しかなかったでしょう」


「千六百円は、ハルおばあちゃんに種を送ったときに使ったよ」


「種は六百円と書いてあるじゃない」


「封筒と、箱と、切手も買ったの。種が潰れないように箱にしたから」


「それを全部書かなきゃ、帳面をつける意味がないでしょう」


紡は小遣い帳を開き、空いている場所へ書き足そうとした。しかし「郵送料」の漢字が思い出せず、鉛筆の先を紙へ押しつけたまま動けなくなった。アイザックに聞けば教えてくれるが、母の前で端末を使うと、自分で考えなさいと言われる。迷っているうちに鉛筆の芯が折れ、帳面の上へ黒い粉が散った。


「どうして、こう何もかも手がかかるのかしら」


「お母さん、私、今度からレシートを全部貼るよ。そうしたら忘れないと思う」


「レシートをなくすでしょう」


「なくさないように、赤い袋に入れる」


「その赤い袋をどこへ置いたか忘れるじゃないか」


父が口を挟むと、母は初めて笑った。二人の笑い声は短かったが、紡には、テレビの音よりはっきり聞こえた。紡は折れた鉛筆を筆箱へ戻し、ケーキの油が染みた紙ナプキンを四角く畳んだ。


その夜、紡が浴室で髪を洗っている間、居間から両親の声が聞こえてきた。換気扇の音とシャワーの水音で言葉の一部は消えたが、「二十歳」「もう限界」「母さんのところ」という言葉だけは何度も聞こえた。紡は泡のついた髪を急いですすぎ、黄色いタオルで体を拭いた。パジャマは白地に小さな苺が並んだもので、袖口は何度も洗ったせいで少し伸びていた。


居間へ戻ると、父は焼酎の入ったグラスを持ち、母は洗濯物を畳んでいた。父の肌着、母の靴下、紡の下着が畳の上で三つの山に分けられている。紡の山だけが少し離れた場所に置かれていた。エアコンから出る風で、小遣い帳のページが一枚ずつめくれていた。


「私、おばあちゃんのところへ行くの?」


母の手が止まり、父はグラスの氷を揺らした。紡は両親の顔を交互に見たが、どちらもすぐには答えなかった。洗濯物から柔軟剤の甘い匂いがし、その向こうに焼酎の匂いが混じっていた。


「ハルおばあちゃんも一人でしょう。庭も広いし、手伝う人が必要なのよ」


「いつまで行くの?」


「それは、向こうで相談しなさい」


「来週の病院はどうするの?」


「おばあちゃんと区役所へ行って、近くの病院を探してもらえばいい」


「この家から通ったら、今の先生のところへ行けるよ」


父がグラスを強く置いたため、氷が乾いた音を立てた。紡は口を閉じ、パジャマの袖口を親指と人差し指で丸めた。父は額を押さえてから、紡を見ないまま言った。


「こっちにも生活があるんだ。いつまでも、お前の面倒ばかり見ていられない」


「私も洗濯物を畳むよ。お皿も洗える。ケーキは切らないようにする」


「そういうことだけじゃないのよ」


「じゃあ、何をできるようになったら帰ってきていいの?」


母は紡の靴下を畳み直し、左右のかかとをきれいに重ねた。答えはないまま、テレビの天気予報が明日の最高気温を知らせた。東京は三十五度になるという。母は洗濯物を抱えて立ち上がり、明日は暑いから薄い服を鞄へ入れなさいと言った。


翌朝、紡の部屋の床には、開いたままの旅行鞄が置かれていた。母が選んだ青いブラウス、白いTシャツ、薄手のズボン、下着、薬の袋が隙間なく詰められている。紡は本棚から植物図鑑を一冊取り出したが、鞄には入らなかった。代わりに母は、紡が大切にしていた猫のぬいぐるみを取り出した。


「これは置いていきなさい。向こうにも布団くらいあるでしょう」


「ミイは小さいから、端に入るよ」


「子どもじゃないんだから、ぬいぐるみなんていらないでしょう」


「でも、昨日まで子どもだったよ。二十歳になって、まだ一日しかたってない」


母は息を吐き、猫のぬいぐるみを鞄の端へ押し込んだ。耳が片方だけ折れたが、紡は直さなかった。台所からは、トースターで焼きすぎたパンの匂いが流れてきた。朝食は黒く焦げた食パンと冷たい牛乳で、母は食べずに立ったままコーヒーを飲んでいた。


「これが切符。なくさないでね」


渡された封筒には、祖母の家に近い駅までの切符と、乗り換えを書いた紙が入っていた。帰りの切符は見当たらなかった。紡は封筒を裏返し、底まで指を入れて確かめた。


「帰りの分が入ってないよ」


「おばあちゃんの手伝いに行くんだから、今日帰ってくるわけじゃないでしょう」


「何日いるの?」


「向こうで暮らしなさい。おばあちゃんも承知しているから」


「私の部屋は、このままにしてくれる?」


母はコーヒーカップを流しへ置き、水を出した。返事の代わりに、食パンの皿を早く片づけるよう言った。紡はパンの耳を最後まで噛み、牛乳で喉へ流し込んだ。


父は仕事へ行った後で、見送りには戻らなかった。母は駅の改札まで紡を連れていき、乗る電車の時刻と乗り換える駅を二度説明した。紡が紙を読むのに時間をかけていると、後ろから来た会社員が舌打ちをしたので、母は紡の肩を押して改札の中へ入れた。


「おばあちゃんの言うことを聞くのよ。困らせないでね」


「お母さん、私が帰ってきてもいい日は、電話で教えてくれる?」


「電車が来るから、早く行きなさい」


「私から電話してもいい?」


「必要なことがあれば、おばあちゃんから連絡をもらうから」


母はそれだけ言うと、改札の向こうで手を一度上げた。紡も手を振ったが、母は振り返らず、人の流れに入って見えなくなった。紡は鞄の持ち手を両手で握り、猫のぬいぐるみの折れた耳がファスナーに挟まっていないか確かめた。


電車の座席は冷房で冷たく、紡の薄桃色のワンピースを通して太腿へ冷気が伝わった。向かい側では、制服姿の高校生が二人でイヤホンを分け合い、窓際の老人は新聞を細く折って読んでいた。紡は母からもらった封筒を何度も開き、切符が一枚しかないことを確認した。外には同じ形の団地が続き、ベランダでは白いシーツや青いシャツが風に揺れていた。


鞄の中から生活支援端末の短い音がした。画面を開くと、青い光がゆっくり回り始めた。位置情報が変わったことを端末が確認し、機械の落ち着いた声が流れた。


「生活支援対象者、相田紡。新しい居住地への移動を確認しました。目的地は相田ハル様の住所で間違いありませんか」


「間違いありません」


「到着予定時刻は十一時四十二分です。乗り換えは一回です。到着の十五分前に通知します」


「ありがとう。乗り過ごさないように、大きい音にしてね」


「音量を七十パーセントに設定しました」


紡は端末を閉じようとしたが、指を画面の上に置いたまま止めた。昨夜から尋ねたかったことが、喉の奥に残っていた。声を出すと向かいの高校生に聞かれそうだったので、紡は端末を口元へ近づけた。


「アイザック。お母さん、帰ってきてもいい日を言わなかったの」


「予定情報には、帰宅日の登録がありません」


「聞き忘れただけかな」


アイザックの青い光が回転した。いつもなら数秒で答えるのに、今日は光が何度も明るくなったり暗くなったりした。紡は返事を待ちながら、封筒の中の片道切符を親指でなぞった。


「質問の意味を確認します。佐知子様が帰宅日を伝えなかった理由を知りたい、ということですか」


「うん。お父さんもお母さんも忙しかったから、忘れたのかな。それなら、あとで思い出して電話をくれるよね」


「佐知子様と和正様の意図に関する情報が不足しています」


「私がもっと上手にケーキを切れたら、帰る日を教えてくれたかな」


端末は再び沈黙した。電車が鉄橋へ入り、車輪の音が大きくなる。窓の下には茶色く濁った川が流れ、その上を夏の光が細かく跳ねていた。


やがて画面の中央に、見たことのない灰色の文字が現れた。アイザックはその文字を読み上げず、ただ低い通知音を一度鳴らした。紡は端末の読み上げボタンを押した。


「判定不能」


紡はその四文字を二度聞いた。分からないという意味なら、自分と同じだと思った。紡は片道切符を封筒へ戻し、折れないように小遣い帳の間へ挟んだ。


「アイザックにも、分からないことがあるんだね」


「はい。現在の情報では、正確な回答ができません」


「じゃあ、一緒に考えよう。おばあちゃんの家へ着いたら、電話が来るかもしれないから」


紡は猫のぬいぐるみを鞄から少しだけ出し、折れた耳を指で直した。電車は母のいる町から遠ざかり、窓の外には背の低い家と、濃い緑の畑が増えていった。紡の膝の上で、帰る日が書かれていない小遣い帳が、車体の揺れに合わせて小さく震えていた。



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