プロローグ 障害年金と愛の手帳という応援
プロローグ 障害年金と愛の手帳という応援
二十歳になる少し前、紡は母と一緒に区役所の障害福祉窓口を訪れた。白い襟のついた紺色のワンピースを着て、膝の上には自治体から借りた生活支援端末を載せていた。待合室では杖を持った男性が居眠りをし、向かいの椅子では小さな子どもが母親の鞄から飴を探していた。昼を過ぎていたため、母が持ってきた鮭のおにぎりは鞄の中で少し温かくなり、海苔の匂いが書類へ移っていた。
「お母さん、障害年金をもらったら、働いてはいけないの?」
「窓口の人に聞きなさい。私は説明を何度も聞きたくないから」
「聞いたら、そんなことも知らないのかと思われない?」
「あなたは、いつも同じことを気にするのね」
番号を呼ばれ、紡は相談室へ入った。担当者の机には、障害年金、精神障害者保健福祉手帳、愛の手帳について書かれた冊子が並んでいた。漢字の多い表紙を見ただけでは違いが分からず、紡は生活支援端末の読み上げ機能を起動した。
「障害年金と、愛の手帳は同じものですか」
「別の制度です。障害年金は、障害によって日常生活や仕事が大きく制限される人の暮らしを支える年金です。手帳は、必要な福祉サービスや支援を利用しやすくするためのものです」
「愛の手帳を持っていたら、障害年金も必ずもらえる?」
「いいえ。手帳と年金は、それぞれ別に審査されます」
「私は字を読むのが遅いから、愛の手帳をもらえる?」
「愛の手帳は、読み書きの苦手さだけで決まるものではありません。知能検査だけでなく、日常生活の様子なども含めて判定します」
担当者は急がず、一つの制度を説明するたびに、紡が理解できたか確かめた。紡の場合は、発達障害やディスレクシアによる生活上の困難について、精神障害者保健福祉手帳と障害年金をそれぞれ検討することになった。申請書へ名前を書く前に、紡は分からない場所へ黄色い付箋を貼った。
「障害年金をもらうのは、働かなかった人へのご褒美ですか」
「違います。生活に必要な支援です」
「ほかの人より、お金を多くもらうことにならない?」
「障害があることで、手助けを頼んだり、働く時間が限られたり、生活に余分なお金が必要になったりすることがあります。その差を少し支えるための制度です」
「杖みたいなもの?」
「そう考えてもいいですね。杖を使う人へ、楽をしているとは言わないでしょう」
母は隣で腕時計を見ていた。申請に必要な診断書や生活状況の書類が増えるたび、細く息を吐き、早く終わらないかと椅子を揺らした。紡はその音が気になったが、説明を途中で止めなかった。
「診断書には、できないことだけを書くの?」
「できることも書きます。ただし、無理をして一度だけできたことではなく、普段どれくらい助けが必要かを伝えることが大切です」
「お金を数えるときは、母にしてもらいます。病院の日も、端末が教えないと忘れます」
「それも大切な情報です。助けを受けてできていることを、一人でできると書かなくていいんですよ」
「助けてもらっていると書いたら、怠けていると思われない?」
「思いません。支援を使うことも、生活するための力です」
紡は生活状況を伝える書類を、担当者と一緒に一行ずつ確認した。文字が密集した部分は端末に読ませ、質問の意味が分からないときは、具体的な例へ言い換えてもらった。母が先に答えようとすると、担当者は紡本人の言葉を待った。
数か月後、障害基礎年金の決定を知らせる封筒が届いた。母は通知書と通帳を受け取り、自分が管理すると言って箪笥へしまった。紡は振込額を尋ねたが、生活費に使うのだから細かく知らなくてよいと答えられた。
「私の年金なのに、私は見なくていいの?」
「あなたには管理できないでしょう。なくしたら困るのよ」
「アイザックと一緒なら、数えられるかもしれない」
「余計なことを考えなくていいの」
紡はそれ以上言えず、箪笥の閉まる音を聞いた。支援のために認められたお金が、自分には触れられない場所へ入っていった。それでも区役所でもらった冊子だけは、自分の机の引き出しへ残した。
冊子には、障害年金も手帳も、人間の価値を決めるものではないと書かれていた。愛の手帳、精神障害者保健福祉手帳、障害年金は同じ制度ではなく、必要な支援も一人ずつ異なる。紡はアイザックにその部分を何度も読んでもらい、最後に一つだけ尋ねた。
「支援を受けながら、自分で決めてもいいの?」
「はい。支援は、紡さんから決定を取り上げるためのものではありません。紡さんが自分の生活を選ぶために使うものです」
その答えを聞いたとき、紡には、まだ自分の通帳を取り戻す方法が分からなかった。それでも冊子を捨てず、黄色い付箋のついたページを机の引き出しへしまった。後に祖母の庭へ向かう片道切符を渡された日、その冊子も紡の青い鞄へ入ることになった。




