第10話 ひかりの輪郭
第10話 ひかりの輪郭
ハルが亡くなってから三年後、古い庭には木造の園芸工房と小さな喫茶室が建っていた。柿の木と温室は以前の場所に残され、ハルが使っていた物干し竿には、職員の前掛けや土で汚れた手袋が干されている。喫茶室からはローズマリーを入れたパンと、乾燥させたカモミールの甘い匂いが漂っていた。
工房では、文字を読むことが苦手な人、暗算ができない人、長く立っていられない人が一緒に働いていた。苗の状態は、紡が作った色と図形の表で管理している。黄色は日光、青い水滴は水やり、赤い三角は虫や病気を確認する印だった。
「紡さん、ローズマリーの鉢に赤い三角がついています」
「葉の裏を見てください。白い粉があったら、隣の鉢から離します」
「文字を書かなくても、私にも分かりました」
「私も長い文字は時間がかかるから、一緒に使える形にしたんです」
喫茶室のハーブティーには難しい商品名をつけず、香りと色の印を使っていた。眠る前に飲む茶は紺色の月、気分を切り替えたい人向けのミントティーは緑の窓で表している。紡の栽培表は地域の福祉施設や学校にも提供され、利用料は工房で働く人たちの賃金になっていた。
開店三周年の日、蓮が白い箱を持って工房へ来た。紡は庭仕事用の深緑色のワンピースを着て、エプロンのポケットへ色鉛筆を三本入れていた。箱を開けると、苺が六粒載った生クリームのケーキが現れた。
「三周年、おめでとうございます」
「三つに切るケーキだね」
「画像を出しましょうか」
「今日は見ないで切ってみます。でも同じにならなかったら、食べたい大きさを聞きます」
紡は中央を確かめ、三本の切れ目を入れた。三切れは少しずつ大きさが違い、一つは苺の間で先端が崩れていた。紡は失敗を隠さず、蓮と、工房で働く松田へ皿を見せた。
「どれくらい食べたいですか」
「僕は昼を食べすぎたので、一番小さいので」
「私は苺が二つ載ったものがいいです」
「残った大きい一切れは半分食べて、半分は明日にします」
三人がケーキを食べ始めたとき、門の鈴が鳴った。紡の両親である和正と佐知子が、連絡もなく立っていた。工房がテレビで紹介されたことを知り、佐知子は上品な灰色のスーツ、和正は紺色のジャケットを着ていた。
「こんな立派な施設を作ったなんて、母親として誇らしいわ」
「お前には昔から、植物を見る力があった。父さんたちは分かっていたよ」
紡はフォークを皿へ置いた。二人が祖母の家へ片道切符だけを持たせて送り出したことは、口にされなかった。佐知子は実家へ戻って一緒に暮らそうと言い、和正は工房の帳簿を自分に任せれば安心だと申し出た。
「お金の管理は難しいだろう。父さんが通帳も預かってやる」
「昔の通帳も、お母さんが持っていました」
「あれは、あなたが困らないように管理していたのよ」
「残高を見せてもらったことはありません」
「親を疑うの?」
紡はエプロンのポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。両親が来た場合に伝えたいことを、相談支援員と一緒に短い文章へまとめていた。紡は紙へ目を落とし、一行ずつ指で追った。
「私は、ここで暮らします。私のお金と庭を、あなたたちには預けません。会いたいときは、先に連絡してください」
佐知子は親に向かって失礼だと声を上げた。和正も、蓮に何か吹き込まれたのだろうと言い、紡ではなく蓮へ説明を求めた。蓮は口を開かず、紡が続きを話すのを待った。
「今日は仕事の日です。連絡のない人と話す時間はありません」
「紡、いい加減にしなさい」
「帰ってください。次に来るときは、先に私へ聞いてください」
紡は謝らなかった。両親が門を出るまで見届けると、鍵を閉め、来訪の日時を記録した。手は少し震えていたが、蓮に代わりに断ってもらわず、自分で最後まで伝えた。
夕方、客と職員が帰った後、紡はハルが使っていた椅子へ新しい水玉模様の座布団を置いた。蓮は隣の椅子には座らず、庭を挟んで少し離れた場所に立っていた。土と夕食用に炊いている米の匂いが、開いた台所の窓から流れてきた。
「これからも、紡さんと一緒に庭を育てたいと思っています。仕事だけではなく、生活も含めてです」
「結婚したいという意味?」
「はい。ただ、すぐに答えてほしいとは言いません」
「来週の金曜日まで考えます。その日に返事をします」
「分かりました。待っています」
紡はその場で相手の望む答えを返さなかった。拒絶するためでも、蓮を試すためでもない。自分の人生について考える時間を、自分で決めたのである。
生活支援端末が、三年間の成長記録を表示した。読解速度に大きな変化はなく、暗算には現在も支援が必要と書かれていた。その下には、新しい結果が並んでいた。
「契約理解――補助機能を利用して達成。意思表示――達成。援助要請――達成。自己決定――測定上限を超過」
「アイザック、最後はどういう意味?」
「対象者が基準を超えたのではありません。基準のほうが、相田紡を測るには狭すぎました」
紡は端末を閉じ、ハルが残した種箱を開けた。大きさも形も違う種を一粒ずつ土へまき、分からなくなると最初から数え直した。急がせる人はもういなかったので、紡は自分に数えられる速さで、春の準備を続けた。




