↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/16

第9話 庭を受け継ぐ準備

第9話 庭を受け継ぐ準備


騒動が収まった十月、庭の柿は葉の端から赤くなっていた。紡は深緑色の作業着を着て、温室の前へ新しい苗棚を置いた。棚にはローズマリー、ミント、カモミールが並び、乾いた葉と湿った土の匂いが風に混じっていた。


紡の記録表には、難しい漢字も細かな数字もほとんどなかった。朝に日が当たる場所は黄色、土が湿っている場所は青、葉の香りが弱くなった苗には三角を描いた。水やりをした日は、水滴の形をした青いシールを貼った。


「アイザック、このミントは昨日より緑が薄い?」


「昨日の画像と比較して、明度が八パーセント上昇しています」


「八パーセントは分からない。元気になったの、それとも弱ったの?」


「葉の一部が黄色に近づいています。根の状態を確認してください」


「それなら、黄色い三角を貼ります」


蓮はその記録表を見て、読み書きに困難を抱える人や高齢者も働ける園芸工房を設計した。作業台の高さを三種類にし、道具を置く場所には文字だけでなく、鋏やじょうろの絵も描いた。以前のように紡の発想を自分の図面へ黙って入れず、設計書の共同制作者欄には「相田紡」と記した。


「ここに紡さんの名前を載せます。栽培表の使用料と、設計協力の報酬も支払います」


「私の名前を載せたら、私にも責任がある?」


「あります。だから、納得できないところは変えてください」


「この通路は、もう少し広くしたい。じょうろを持った人同士がぶつかるから」


「分かりました。幅を十五センチ広げます」


契約書は八ページあった。紡はアイザックに報酬、著作権、契約期間を一項目ずつ読んでもらい、分からない場所へ黄色い付箋を貼った。蓮は白いシャツの袖をまくり、冷めたコーヒーを飲みながら、質問が終わるまで待った。


「ここに書いてある『二次利用』は何ですか」


「この栽培表を、別の商品や施設でも使うことです」


「そのときも私に教えてくれる?」


「はい。紡さんの許可を得て、別の使用料を支払います」


「それなら分かりました。でも今日は名前を書きません。もう一度、明日読んでからにします」


「そのほうがいいと思います」


紡はペンを置き、契約書を青いファイルへしまった。以前なら人を待たせることに指先が動いたが、今は付箋が六枚残っていても、謝らなかった。翌日、すべての質問へ答えをもらってから、自分の名前をゆっくり書いた。


工房の準備が始まって間もなく、ハルが庭で胸を押さえて倒れた。病室のハルは薄桃色の寝巻きを着て、鼻の下には酸素を送る細い管がついていた。窓辺には近所の人が持ってきた蜜柑が三つ並び、病院の夕食で残した煮魚の匂いが室内に残っていた。


「おばあちゃん、家へ帰ったら、温室に新しい棚を置こう」


「見たかったねえ」


「帰ってから見ればいいよ」


「紡、そこの戸棚を開けておくれ」


戸棚には、古い木箱と茶色い封筒が入っていた。木箱にはハルが何十年も集めた種が小さな紙袋に分けられ、封筒には庭と家の権利書が収められていた。ハルは震える指で、木箱を紡の膝へ押した。


「この庭は、お前に残す。税金や手続きは、小松先生と相談するんだよ」


「私には一人でできない」


「一人で全部できる人間なんていないよ。私だって、屋根は大工に直してもらったし、重い肥料は豆腐屋の旦那に運んでもらった」


「薬を忘れた日は、私が教えたよ」


「そうだったね。お前が来てから、飲み忘れが減った」


ハルは息を整え、紡の手を両手で包んだ。土を触り続けた指は細くなっていたが、掌にはまだ硬い部分が残っている。紡は木箱を抱えたまま、ハルの言葉を待った。


「お前が覚えなきゃいけなかったのは、何でも一人でやることじゃない。誰に、何を頼むかを自分で決めることだ」


「分からないときは、聞いてもいい?」


「何度でも聞きな。聞いて笑う人とは、契約しなくていい」


「おばあちゃんにも、また聞くよ」


「答えられるうちならね」


春を待たず、ハルは病院で息を引き取った。家へ戻った紡は、二人分出す癖が残っていた湯飲みを一つだけ食器棚へ戻した。鍋には近所の人が届けてくれた里芋の煮物があり、温め直しても、紡は一度に二つしか食べられなかった。


庭を隊と買いたいという業者から電話が来たが、紡はその場で答えなかった。蓮、小松、福祉の相談支援員、近所の人を縁側へ招き、自分が続けたい仕事と、助けてほしいことを紙へ分けた。文字を書けないところには、アイザックが絵と色を添えた。


「私は、この庭を残したいです。でも、経理と役所の手続きは一人でできません」


「経理は専門家を紹介します」


「重い土は、俺が運ぶよ」


「設計と修理は僕が担当します」


紡は全員の顔を見て、頼む仕事を一つずつ決めた。最後にハルの古い種箱を開き、春にまく種を三袋選んだ。庭を一人で守るのではなく、自分で選んだ人たちと園芸工房を続けることを、紡はそこで決めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。