第9話 庭を受け継ぐ準備
第9話 庭を受け継ぐ準備
騒動が収まった十月、庭の柿は葉の端から赤くなっていた。紡は深緑色の作業着を着て、温室の前へ新しい苗棚を置いた。棚にはローズマリー、ミント、カモミールが並び、乾いた葉と湿った土の匂いが風に混じっていた。
紡の記録表には、難しい漢字も細かな数字もほとんどなかった。朝に日が当たる場所は黄色、土が湿っている場所は青、葉の香りが弱くなった苗には三角を描いた。水やりをした日は、水滴の形をした青いシールを貼った。
「アイザック、このミントは昨日より緑が薄い?」
「昨日の画像と比較して、明度が八パーセント上昇しています」
「八パーセントは分からない。元気になったの、それとも弱ったの?」
「葉の一部が黄色に近づいています。根の状態を確認してください」
「それなら、黄色い三角を貼ります」
蓮はその記録表を見て、読み書きに困難を抱える人や高齢者も働ける園芸工房を設計した。作業台の高さを三種類にし、道具を置く場所には文字だけでなく、鋏やじょうろの絵も描いた。以前のように紡の発想を自分の図面へ黙って入れず、設計書の共同制作者欄には「相田紡」と記した。
「ここに紡さんの名前を載せます。栽培表の使用料と、設計協力の報酬も支払います」
「私の名前を載せたら、私にも責任がある?」
「あります。だから、納得できないところは変えてください」
「この通路は、もう少し広くしたい。じょうろを持った人同士がぶつかるから」
「分かりました。幅を十五センチ広げます」
契約書は八ページあった。紡はアイザックに報酬、著作権、契約期間を一項目ずつ読んでもらい、分からない場所へ黄色い付箋を貼った。蓮は白いシャツの袖をまくり、冷めたコーヒーを飲みながら、質問が終わるまで待った。
「ここに書いてある『二次利用』は何ですか」
「この栽培表を、別の商品や施設でも使うことです」
「そのときも私に教えてくれる?」
「はい。紡さんの許可を得て、別の使用料を支払います」
「それなら分かりました。でも今日は名前を書きません。もう一度、明日読んでからにします」
「そのほうがいいと思います」
紡はペンを置き、契約書を青いファイルへしまった。以前なら人を待たせることに指先が動いたが、今は付箋が六枚残っていても、謝らなかった。翌日、すべての質問へ答えをもらってから、自分の名前をゆっくり書いた。
工房の準備が始まって間もなく、ハルが庭で胸を押さえて倒れた。病室のハルは薄桃色の寝巻きを着て、鼻の下には酸素を送る細い管がついていた。窓辺には近所の人が持ってきた蜜柑が三つ並び、病院の夕食で残した煮魚の匂いが室内に残っていた。
「おばあちゃん、家へ帰ったら、温室に新しい棚を置こう」
「見たかったねえ」
「帰ってから見ればいいよ」
「紡、そこの戸棚を開けておくれ」
戸棚には、古い木箱と茶色い封筒が入っていた。木箱にはハルが何十年も集めた種が小さな紙袋に分けられ、封筒には庭と家の権利書が収められていた。ハルは震える指で、木箱を紡の膝へ押した。
「この庭は、お前に残す。税金や手続きは、小松先生と相談するんだよ」
「私には一人でできない」
「一人で全部できる人間なんていないよ。私だって、屋根は大工に直してもらったし、重い肥料は豆腐屋の旦那に運んでもらった」
「薬を忘れた日は、私が教えたよ」
「そうだったね。お前が来てから、飲み忘れが減った」
ハルは息を整え、紡の手を両手で包んだ。土を触り続けた指は細くなっていたが、掌にはまだ硬い部分が残っている。紡は木箱を抱えたまま、ハルの言葉を待った。
「お前が覚えなきゃいけなかったのは、何でも一人でやることじゃない。誰に、何を頼むかを自分で決めることだ」
「分からないときは、聞いてもいい?」
「何度でも聞きな。聞いて笑う人とは、契約しなくていい」
「おばあちゃんにも、また聞くよ」
「答えられるうちならね」
春を待たず、ハルは病院で息を引き取った。家へ戻った紡は、二人分出す癖が残っていた湯飲みを一つだけ食器棚へ戻した。鍋には近所の人が届けてくれた里芋の煮物があり、温め直しても、紡は一度に二つしか食べられなかった。
庭を隊と買いたいという業者から電話が来たが、紡はその場で答えなかった。蓮、小松、福祉の相談支援員、近所の人を縁側へ招き、自分が続けたい仕事と、助けてほしいことを紙へ分けた。文字を書けないところには、アイザックが絵と色を添えた。
「私は、この庭を残したいです。でも、経理と役所の手続きは一人でできません」
「経理は専門家を紹介します」
「重い土は、俺が運ぶよ」
「設計と修理は僕が担当します」
紡は全員の顔を見て、頼む仕事を一つずつ決めた。最後にハルの古い種箱を開き、春にまく種を三袋選んだ。庭を一人で守るのではなく、自分で選んだ人たちと園芸工房を続けることを、紡はそこで決めた。




