第7話 数字で築いた王国
第7話 数字で築いた王国
弁護士の小松がハルの家を訪れた日は、朝から細い雨が降っていた。紡は白い襟のついた紺色のワンピースを着て、座卓に並べられた契約書と作業記録を見つめていた。台所では南瓜の煮物が冷め、醤油と砂糖の匂いが畳まで流れていた。
「求めるものを、一つずつ確認しましょう」
小松は、動画の削除、未払い報酬、名誉を傷つけた行為への謝罪を大きな文字で紙へ書いた。紡はアイザックに読んでもらい、自分でも指で一行ずつ確かめた。違約金を含む契約書と加工前の音声は、紡の許可を得て報道機関にも提供することになった。
「神崎さんを困らせるためじゃありません。同じ契約書を渡された人に、見てほしいです」
「その目的も記録しておきます」
「私が途中で分からなくなったら、止めてください」
「何度でも説明します。急いで署名する書類はありません」
記事が公開されると、神崎の会社に所属していた女性たちから、小松の事務所へ連絡が入った。報酬の大半を会社に取られた人、辞めるなら違約金を払えと迫られた人、病気で休んだ日に罰金を請求された人もいた。それぞれの契約書には、紡のものと同じ文章が並んでいた。
神崎はすぐに記者会見を開いた。黒いスーツに銀色のネクタイを締め、壇上には会社の成長率や取引実績を示す数字を並べた。会見前に口をつけたコーヒーは冷め、白いカップの縁に茶色い跡が残っていた。
「相田紡さんの主張には、事実と異なる部分があります。弊社は彼女の特性へ十分に配慮しました」
「二千万円の違約金は、何に対する金額ですか」
「所属者が一方的に契約を破棄した場合の損失を想定しています」
「紡さんには五千円しか払っていないのに、どのような計算で二千万円になるのでしょう」
「個別の契約内容には、お答えできません」
別の記者が、広告であることを隠した化粧品動画について質問した。神崎は美羽個人の投稿だったと答えたが、元社員が提出した指示書には、会社名と神崎の承認印があった。質問が重なるほど説明は変わり、神崎の指は壇上の資料を何度もめくった。
会見後、化粧品会社は広告契約を停止した。投資家は説明を求め、予定されていた出資を見送った。さらに元経理担当者が、外注費の水増しと、存在しない広告成果を投資家へ報告していた記録を告発した。
「昔の経理データを全部消せ。共有サーバーも確認しろ」
神崎は会議室で部下へ命じた。しかし、部下の一人は身を守るため、その音声を保存していた。削除命令まで報道機関へ渡ると、税務当局が申告内容の調査を始め、銀行も追加融資を停止した。
数日後の夕方、紡は庭でバジルの枯れた葉を摘んでいた。薄黄色のTシャツには土がつき、縁側ではハルが夕食の隠元豆の筋を取っている。ポケットの中で生活支援端末が鳴り、見覚えのある神崎の番号が表示された。
「出なくてもいいんだよ」
「小松先生に録音するよう言われています。アイザック、記録を始めてください」
「録音を開始します」
紡が電話に出ると、神崎の荒い声が聞こえた。高層階の社長室では机から書類があふれ、窓の外に光る街を見下ろしても、電話を返す取引先は残っていなかった。神崎はカーテンを握ったまま、紡へ低い声で告げた。
「要求はいくらだ。金なら払う」
「小松先生を通してください」
「君が欲しい金額を言えばいい。庭でも家でも、好きなだけ直せるぞ」
「あなたが決めた私の値段はいりません」
「きれい事を言うな。人間は金を積めば動く」
「働いた分と、壊したものの分だけ、きちんと払ってください。嘘の動画も消してください」
紡はアイザックへ金額を尋ねなかった。未払い報酬と損害は弁護士が証拠から計算し、神崎が勝手につけた値段では決めないと理解していた。電話の向こうで神崎が何か言いかけたが、紡は小松を通すようもう一度伝え、通話を終えた。
縁側へ戻ると、ハルが隠元豆の入った笊を差し出した。紡は一本だけ残っていた筋を取り、夕食の支度を手伝った。数値だけで築かれた神崎の会社は、神崎自身が書き換えた数字によって、音を立てずに崩れ始めていた。




