34 来々軒のラーメン
全然ダメでも、とにかく手を動かし続ける。それでいいんだ…
鳴人さん、これダメです。やり直して下さい。
れんげちゃんが、そんな妥協なんか許すわけないじゃありませんか。
ダメ出しされて捨てられるラーメンがもったいない?
ごもっともですが、そんなものをお客さんの前になんか、絶対に出せませんよ?
なので、ダメを出されないように、ちゃんとお仕事をして下さいね?
丁寧に正確に、そして素早く、ですよ。
れんげちゃん、キビシイ、キビシイよ…
午後五時開店なのだが、すでにお客はかなり長い列を作っている。
朝よりもお客の数は多いようだ。
30分前から、店を開ける。
昼どきと同じように、一気にお客で沸き返る来々軒。
れんげちゃんは、相変わらずの手早い働き振り。
親父も、麺を一心不乱に茹でて茹でて茹でまくっている。
そして俺といえば、まったくもって足手まといもいい所だった。
スープの準備が遅くて親父を待たせるし。
入れる分量はまちまちだし。
手間どる間に、麺が冷めて伸びてしまい、ダメだしされて作り直しの始末だし。
具の盛りつけまでも手が廻らなくて、れんげちゃんがやってしまうし。
メインスープの切り換えすら、彼女がいつの間にかやってしまうし。
かえって、調理場で俺が立っている場所を取っているのが邪魔なのではないかとすら思えてくる。
それでも、俺はただひたすら手を動かし続けた。
正直、親父やれんげちゃんの仕事の邪魔すらしていたかもしれない。
いい加減なつもりじゃ無いけど、雑な仕事ぶりをしてしまうと。
すかさず「鳴人さん、これダメです。やり直して下さい」とダメだしされるのだ。
しかも、れんげちゃん、そんなこと笑顔でいうし。
俺の手が遅いとみるや、すかさず自分で盛りつけて客席に運んでいってしまう。
ダメだ。
俺、全然ダメだ。
それでも、俺はただひたすら手を動かし続けた。
動かし続けるしか、無かった。
なぜそうしているのか、理由は判らなかった。
判っていたのかもしれないけど、判りたくないのかも知れなかった。
とにかく、今日一日は働いて、きっぱり辞めよう。
でも、今日一日は、とにかく働けるだけ働こう。
そんな風に思っていたのかもしれない。
でもそれは、あまり意味のない考え方で。
それでも、俺はただ、手を動かすしかなかったのだ…
~ ・ ~
午後八時を過ぎても、客足は全然衰えを見せなかった。
れんげちゃん、スープの分量を確かめると、店の外に消えた。
スープ切れを知らせるためらしい。
ああ、これで今日の仕事は終わりか…
どっと疲れが押し寄せるのを、なんとか踏み留める。
立ち仕事のバイト歴の長い俺だが、細かい手先の神経を使うラーメン屋の仕事だけに、かなり疲れているようだ。
まあ、それも、もう終わりにするつもりだが。
俺は、最後の一踏ん張りで、残りのスープを注文通りに捌いていった。
しかし。
あ、あれっ?
最後の客の分を掬ったのだが、スープが少し余ってしまった。
れんげちゃん、分量を読み間違えたのか。
彼女でも、そんなミスするんだな…
いや、俺がスープを少なめに注いでしまったのかも知れない。
でも、それなられんげちゃん、ダメを出すよな…
やっぱり彼女の間違い?
「ありがとうございましたっ!」
「アリガトやしたッ!」
れんげちゃんと親父が、最後の客を見送っている。
「ありがとっしたァ!」
ふと、俺もそんな挨拶を叫んでいた。
今日一日、ずっと耳にこびりついていた挨拶を。
「おっ、鳴人君、声が出て来たねえ」
「そうですねっ!」
親父も、れんげちゃんも、にっこり笑って俺を見ている。
そんな事いったって、今日一日ここにいて、いま初めて声が出ただけの事で。
やっと余裕が出てきた、といっても。
これで仕事が終わりだから、余裕がやっと出来ただけで。
ただ、それだけで。
本当に、ただ、それだけの事なのに…
お客の、その熱気の気配が揺蕩っている店の中で、俺はその空気を吸い込んでは、吐き出していた。
ただ、息をしていた。
ただ、生きていた。
ただ、それだけの俺の呼吸では、なかった。
その空気は熱を帯び、生きた、命を帯びていた。
その、その空気を、俺はただ吸い込み、ただ吐き出していた。
今日一日、ただひたすら、そうしていた。
確かに、親父のいった通りだった。
余計な事を考えている暇など無かった。
いや、色々と余計な事を考えていた分、俺はまだ来々軒の事を分かっていないのかも知れない。
分からないからこそ、余計な事に気を回してしまうのかも知れない。
だから、全て分かっていない以上、いま、店を辞める訳には行かない。
ったく、馬鹿だよな、俺って…
「鳴人さん、先にまかないを済ませてから、お店の片づけに入りましょう」
れんげちゃんが、優しく声を掛けてくれた。
「まかない…?」
「ラーメンで、いいかい?それとも、もううんざりするほど見てきたから、食いたくないかな?」
親父、そういいながら、すでに麺を茹で始めている。
そういえば、俺、すっごく腹を空かせている。
今までは、まったく気付かなかったが。
しかし。
ラーメン…
来々軒の、ラーメン…
今日一日、まるで一生分の来々軒のラーメンが目の前を通り過ぎていったように感じていた。
それでも、俺はラーメンが好きなんだろうか?
好きでいられるだろうか?
ラーメンの味を、感じ取れるのだろうか?
それでも、俺は手を動かしていた。
親父が麺を茹で上げるそのタイミングに合わせて、残り僅かな調味スープとメインスープをブレンドさせる。
三つのドンブリに、スープの命を宿す。
そこに、親父が茹で上げた麺を放り込み、かぐわしい香りを放つ花を咲かせる。
そして、熟練の手つきでれんげちゃんが具を加えていく。
いつもの来々軒のラーメンより、ちょっと具が多めだ。
それは多分、俺が作り間違えた分の具を、彼女がフォローして少し多めに作ってくれたためだろう。
そして。
調理場の中で、俺は来々軒のラーメンと、向かい合った。
多分、これまでになく、真剣な面持ちで。
俺は、あれほど愛してやまなかったこのラーメンを、今でも美味いと感じ取れるのだろうか?
本当に、心から美味いと感じ取れるのだろうか?
だが。
考える必要は、無かったのだ。
美味いラーメンは、本当に美味いラーメンは。
例えどのような状況であっても、間違いなく“美味い”のだ。
まさに親父のいった通り「考える暇もない位」忙しく俺は箸を動かしていた。
まさに“爆食”していた。
それは、今までとは次元の違う“美味さ”だった。
以前の来々軒の、やる気のない親父の作り出すあの“不味さ”も、鮮明に理解できた。
試食に誘った、れんげちゃんの茹でた麺の、あの他に何も寄せつけない凄まじいまでの“旨さ”も、このラーメンの中に、含まれていた。
そう、そのどちらも、この一杯のドンブリの中に、含まれていた。
でも、そのどちらでもない、それは“来々軒のラーメン”だった。
どちらでもない、温かで深みのある、美味くて飽きのこない、食べれば食べるほど元気のでるような、そんな、心に染み通るラーメンだった。
今までの俺なら、多分味わえなかったのかの知れない。
ここで働いたからこそ、判る“味”なのかも知れない。
だから。
俺は、もしかして、とんでもないラーメンを作る手伝いをしているのかも知れない。
でもそれは、まだ、この自分の手の平で生み出しているものではない。
まだ、俺は何もしていない。
させて貰える、力もない。
今は、まだ…
「鳴人君、どうだ?今日はキツかっただろう?続けられそうにないと思うなら、辞めて貰っても構わないよ?」
温かく柔らかな親父の顔。
それはまさに、来々軒のラーメンの顔で。
それはまさに、今食べたラーメンそのものの顔で。
そして俺は、そんなラーメンが大好きで。
そして俺は、そんな親父さんがきっと大好きで。
「なに言ってるんですか。まだバイト始めて初日じゃないですか。失敗の一つや二つ、なんだっていうんですか。もっと温かい目で見守って下さいよ」
強がりを、言ってみた。
「そうですよ。鳴人さん、絶対に見込み、ありますよ。そんな冷たい言い方しなくったっていいじゃないですか」
「い、いや、あっしはそういうつもりでいった訳では…」
二人して、笑いあっている。
そして、こんな俺を、来々軒は受け入れてくれている。
あの美味いラーメンの様に、こんな俺を受け入れてくれているのだ。
(続く)
来々軒の、アイのあるラーメン。
ああ、こういう事なのか、と実感する鳴人君。
人嫌い?
コミュ障?
ただ息をしてるだけ?
何言ってるんだヨ、と笑う親父。
そうですよ、何言ってるんですか、明日も頑張りましょうね、と笑うれんげ。
来々軒繁盛記は、そういう、熱く温かく元気の出る物語です。




