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第3話 中学生生活は面倒くさい

「久世の席は、あそこだ」


 担任が指差したのは、教室の後方にある窓際の席だった。

 久世は短く頷き、教壇を離れた。

 自分へ向けられる無数の視線を無視し、机の間を進んでいく。

 先ほどまで騒がしかった教室は、妙なほど静かになっていた。


 久世が通り過ぎるたび、生徒たちが目を逸らす。だが、背中を向けた途端、また視線が突き刺さってくる。

 面倒くさいから、用もなく話しかけるな。

 はっきり伝えた以上、こちらへ寄ってくる物好きはいないだろう。

 久世は指定された席へ座り、机の中へ教科書を押し込んだ。

 教壇では担任が気を取り直すように咳払いをしている。


「それでは、朝の会を始めます」


 教室の空気がようやく動き始めた。

 小声で何かを話す者はいたが、久世へ直接声をかけてくる者はいない。

 久世は窓の外へ目を向けた。


 校舎の向こうには住宅街が広がり、そのさらに先には低い山並みが見える。

 これから毎日、ここへ通わなければならないらしい。

 授業を受け、教師の指示に従い、子供たちに混じって一日を過ごす。


「つまらねえ生活が始まっちまったな……」


 誰にも聞こえない声で呟いた。

 だが、命令である以上、拒否はできない。

 これは任務だ。

 久世小夜という少女が実在していると、周囲へ信じ込ませるための偽装工作。

 そう考えれば、多少は我慢できる。

 怪異の観察に比べれば、中学生を演じるくらい容易いはずだった。


 ◇


 そう考えていたのは、一時間目が始まるまでだった。

 授業そのものは難しくない。

 中学二年生の内容など、ほとんどが遠い昔に学んだものだ。忘れている部分もあるが、教科書を読めば思い出せる程度だった。


 問題は、ただ座って話を聞き続けることだった。

 教師が黒板へ数式を書き、生徒たちへ順番に説明していく。

 理解するだけなら数分で終わる内容を、授業では一時間近くかけて進める。

 久世は欠伸を噛み殺した。


「では、この問題を……久世さん」


 突然名前を呼ばれ、久世は顔を上げた。

 数学教師が黒板の前からこちらを見ている。


「転校してきたばかりで申し訳ありませんが、答えてもらえますか?」


 黒板には一次関数の問題が書かれていた。

 久世は数秒眺めたあと、答えを告げる。


「三だ」


「……正解です」


 教師は少し驚いた様子で頷いた。


「途中の計算も説明できますか?」


「面倒だ」


「久世さん」


「わかったよ」


 久世は席を立ち、黒板の前まで歩いた。

 チョークを受け取り、必要な式だけを書いていく。

 説明を求められたため、最低限の言葉を添えた。


「ここへ値を代入して、整理すれば終わりだ」


「ええ。その通りです」


 久世が席へ戻ると、周囲から再び視線が集まった。

 後ろの方で、


「へぇ、頭もいいんだ」


 と囁く声が聞こえた。

 久世は聞こえなかったふりをした。


 その後の国語も、大した違いはなかった。

 教科書や周囲の様子を見れば、問題なく対応できる。

 二時間目が終わる頃には、久世は学校生活というものを理解し始めていた。

 難しくはない。

 ただひたすら、退屈だった。


 ◇


 三時間目は体育だった。

 二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、男子生徒たちは体操服を抱えて教室に残り、女子生徒たちは廊下へ出ていく。

 久世も周囲に合わせて立ち上がった。


「久世さん」


 声をかけてきたのは、近くの席にいた女子生徒だった。

 肩のあたりで切り揃えた髪をした、眼鏡の少女だ。


「女子は体育館横の更衣室で着替えるから」


「ああ」


 久世は短く答え、その後へ続いた。

 何人もの女子生徒と廊下を歩き、校舎から体育館へつながる渡り廊下を進む。

 体育館の手前に、女子更衣室と書かれた扉があった。

 先を歩いていた生徒たちが、次々と中へ入っていく。

 久世は入口の前で足を止めた。


「どうしたの?」


 眼鏡の少女が振り返る。


「いや」


 中学生の少女に興味などない。

 久世にとっては、自分の子供どころか孫に近い年齢だ。

 だからといって、五十二歳の男である自分が、当然の顔をして女子更衣室へ入ることには抵抗があった。


 今の身体が少女である以上、周囲から見れば何の問題もない。

 理屈ではわかっている。

 だが、理屈だけで割り切れるものでもなかった。


「先に行ってくれ」


「う、うん」


 少女は不思議そうな顔をしながら、更衣室へ入っていった。

 久世は周囲を見回す。

 空いている教室を探そうとしたが、勝手に校内の部屋へ入れば、後で余計な問題になりかねない。

 舌打ちし、体育館の中へ向かった。

 体育教師らしい男性が、器具庫から測定用の道具を運び出している。


「先生」


「ん?」


 教師が顔を上げた。

 四十代ほどの、日に焼けた大柄な男だった。


「久世か。どうした」


「別の場所で着替えさせてくれないか」


「更衣室があるだろ」


「大勢いるところで着替えたくねえ」


 体育教師は一瞬、何かを言いかけた。

 しかし、久世の家庭事情について、担任から簡単な説明を受けていたのかもしれない。

 少し考えたあと、体育館脇の廊下を指差した。


「保健室の隣に、多目的室がある。普段は使っていないから、そこを使っていいぞ」


「助かる」


「ただし、毎回使うなら担任にも話を通しておけよ」


「わかった」


「それと、着替えた制服は更衣室の籠に置いておけ。多目的室には鍵がないからな」


 久世は言われたとおり、多目的室へ向かった。

 中には折り畳まれた机や椅子が置かれていたが、着替える程度の空間はある。


「何でこんなことにまで気を使わなきゃならねえんだ……」


 誰もいない部屋で悪態をつき、手早く体操服へ着替えた。

 白い半袖のシャツと、紺色の短パン。

 制服よりは動きやすい。

 体操服に関しては、特に抵抗を覚えなかった。


 着替え終えると、制服を抱えて女子更衣室へ向かう。

 既にほとんどの生徒が着替えを終えており、室内には数人しか残っていなかった。

 久世は入口近くに用意された籠へ制服を畳んで入れ、すぐに更衣室を出た。


 ◇


 校庭へ出ると、二年生の生徒たちが男女に分かれて並んでいた。


「今日は新体力テストを行う」


 体育教師が出席簿を片手に説明する。


「一日ですべては終わらない。今日は握力、長座体前屈、反復横跳び、立ち幅跳び、五十メートル走を測定する。残りは次回以降だ」


 周囲から、面倒そうな声が上がった。

 久世も同じ気持ちだった。

 走ったり跳んだりして、その数値を記録する。

 何が楽しいのかわからない。


 適当に済ませようと考えていたが、ふと久世は思い直した。

 この身体になってから、何度も検査を受けた。

 血液、内臓、骨格、神経。筋力や反射速度についても、測定されていたはずだ。

 しかし、その詳しい結果を久世は知らされていない。

 伝えられたのは、日常生活や現場復帰に大きな問題はない、という曖昧な説明だけだった。


 少女の身体になって以降、以前より身体が軽く、反応も速くなったことは感じている。

 だが、自分がどの程度動けるのか、正確に確かめたことはなかった。

 対策室が教えないなら、自分で調べればいい。

 握力、柔軟性、瞬発力、走力。

 一通り測ってくれるというのなら、利用しない手はない。

 生徒たちはいくつかの班に分かれ、それぞれの測定場所へ移動していった。


「久世」


 名前を呼ばれ、久世は列の前へ出た。

 最初の種目は握力だった。


「利き手は?」


「右だ」


「この部分を握って、合図をしたら全力で力を入れろ」


 体育教師から握力計を渡される。

 久世は持ち手の位置を調整し、軽く息を吐いた。


「始め」


 合図に合わせ、力を込めた。

 握力計から、かすかな軋みが伝わる。


「もういいぞ」


 力を緩め、教師へ返す。

 教師は表示された数値を見て、動きを止めた。


「……久世」


「何だ」


「もう一度やってみろ」


「失敗したのか?」


「いいから」


 握力計を返され、久世はもう一度全力で握った。

 結果は、先ほどとほとんど変わらなかった。

 教師が握力計と久世の顔を交互に見る。


「機械が壊れてんじゃねえのか」


「ほかの生徒は普通に測れているんだよ」


「なら問題ねえだろ」


「女子中学生の数値じゃない。成人男性でもそうは出ないぞ……」


 周囲で順番を待っていた生徒たちがざわつき始める。


「何キロだったの?」


「男子より上じゃん」


「本当に?」


 久世は眉を寄せた。

 比較対象を知らないため、どの程度異常な数字なのかわからない。


「まぁ、いい。次へ行け」


 教師に促され、久世はその場を離れた。

 以前の自分に比べれば、驚くほどの数値でもない。

 久世は、そう考えることにした。


 長座体前屈では、予想以上に身体が柔らかく動いた。

 身体を前へ倒すと、ほとんど抵抗を感じないまま、指先が測定器を押していく。


 反復横跳びでは、合図と同時に身体が勝手に反応した。

 足を交互に動かし、線の間を往復する。

 頭で考えるより先に、身体が次の位置へ移っていた。

 終了の笛が鳴る。

 記録係をしていた生徒が、紙へ書き込む手を止めた。


「先生」


「どうした?」


「数え間違えたかも」


「もう一回やるか?」


「いや、合ってる」


 見ていた体育教師が答えた。

 その視線が久世へ向けられる。


「久世。何か運動をやっていたのか?」


「別に」


「陸上は?」


「やったことねえ」


「球技とかは?」


「興味ねえな」


 教師は納得できないようだった。

 立ち幅跳びでも同様だった。

 踏切線の前に立ち、両脚へ力を込める。

 全力で跳べと言われたため、言われたとおりに跳んだ。

 次の瞬間、身体が想像以上の勢いで前へ飛び出した。


「――っ」


 久世自身が、わずかに目を見開く。

 着地して振り返ると、踏切線が思っていたより遠い。

 見ていた生徒たちは、声も出せずにいる。

 ようやく久世も、自分の身体が単に若返っただけではないことを理解し始めた。


 軽く、速く、力もある。

 それでいて、動作にほとんど無駄がない。

 絶対的な筋力なら、以前の身体には及ばないだろう。

 以前の方が、体重も腕の長さもはるかに上だった。

 だが、体格に対する出力と反応速度は、明らかに現在の身体が上だった。


 今まで鍛えてきた技術を、この軽く鋭い身体で使える。

 ただし、以前とは体格も手足の長さも違う。

 走るだけならともかく、実戦で以前と同じように動けるかは別の問題だった。


「……あいつら、何を調べてやがった」


 対策室の検査担当者たちは、この数値を知っていたはずだ。

 それなのに、久世には何も伝えていない。

 少なくとも、学校では全力を出すなと、一言くらい注意できたはずだった。

 もっとも、正体を隠す立場で全力を出した自分にも、多少の落ち度はある。

 久世はそれを認めたくなかった。


「次、五十メートル走! 二人一組で並べ!」


 体育教師の声が響く。

 久世はスタート地点へ向かった。

 隣に並んだのは、陸上部らしい女子生徒だった。


「よろしく」


「ああ」


「久世さん、すごいね。私、短距離やってるけど、負けるかも」


「知らねえよ」


「手加減しないでよ?」


 少女は冗談めかして笑った。

 久世は少し考える。

 既に十分すぎるほど目立っている。

 中途半端に記録を変えれば、それはそれで不自然だ。

 何より、自分の走力がどれほどなのか知りたかった。

 久世はスタートラインの前で腰を落とした。


「位置について」


 体育教師が腕を上げる。


「よーい」


 笛が鳴った。

 久世は地面を蹴った。

 一歩目から、身体が前へ飛び出す。

 風が耳元で鳴り、周囲の景色が一気に後方へ流れていく。

 走っているというより、身体そのものが地面の上を滑っているような感覚だった。


 脚を動かすたび、さらに速度が増す。

 数秒後、久世はゴールラインを駆け抜けた。

 勢いを殺しながら振り返る。

 隣を走っていた少女は、まだ十メートル近く後ろにいた。

 遅れてゴールした少女が、膝へ手をつきながら久世を見上げる。


「……速すぎない?」


「そうらしいな」


 久世自身も、少し息が弾んだ程度だった。

 体育教師は、手にした時計を見たまま動かない。


「先生」


「もう一度測る」


「何でだ」


「記録を間違えた可能性がある」


「なんだそりゃ」


 二度目も、記録はほとんど同じだった。

 周囲が再びざわめく。

 男子生徒まで集まり始めていた。


「男子より速いじゃん」


「陸上部の先輩より上じゃない?」


「何者なんだよ、あいつ」


 久世は集まる視線に気づき、ようやく顔をしかめた。

 身体能力を知るという目的は達成できた。

 だが、少々やりすぎたらしい。


「久世」


 体育教師が近づいてくる。


「お前、陸上部に入る気はないか?」


「ねえよ」


「短距離なら、すぐに大会へ出られる。きちんと練習すれば――」


「面倒くせえからいい」


「才能を無駄にする気か?」


「使う予定はほかにある」


「ほか?」


「何でもねえ」


 教師との会話を聞きつけ、運動部に所属している女子生徒たちまで集まってきた。


「久世さん、バスケ部は?」


「入らねえ」


「バレーも向いてると思うよ」


「興味ねえ」


「ソフトボール部なら、きっと――」


「どこにも入らねえよ」


 久世が低い声で言うと、少女たちは少し怯んだ。

 体育教師が腕を組む。


「残念だが、この学校は原則として全員、何か一つ部活動に所属することになっている」


「……聞いてねえぞ」


「転校生には、後で担任から説明があるはずだ」


「帰宅部は?」


「ない」


「自分で作るか」


「転校初日に新しい部を作ろうとするな」


 周囲から小さな笑い声が上がった。

 久世は舌打ちし、集まっている生徒たちを追い払うように手を振った。


「測定は終わったんだろ。もういいか」


「あ、ああ」


 体育教師はまだ何か言いたそうだったが、久世は聞かずにその場を離れた。

 静かに過ごすはずだった学校生活は、早くも予定どおりにいかなくなっていた。


 ◇


 授業終了のチャイムが鳴ると、女子生徒たちは更衣室へ向かった。

 久世は少し離れた廊下の壁へ寄りかかり、彼女たちが着替え終わるのを待った。

 全員が出ていったのを確認してから、更衣室へ入る。

 室内には誰もいない。

 久世は自分の制服を入れた籠へ向かった。

 空だった。


「……ん?」


 隣の籠を確認する。

 その隣も見る。

 ほかの生徒の制服や荷物は、ほとんど持ち出されている。床へ落ちている様子もない。

 久世は自分が使った籠の前へ戻った。

 置き場所を間違えた覚えはなかった。

 セーラー服、スカートをまとめて畳み、間違いなくここへ入れた。


「誰かが間違えて持ってったのか?」


 同じ制服なのだから、あり得ない話ではない。

 そのうち気づいて返しに来るだろう。

 久世はそう考え、更衣室を出た。


 廊下の先に、数人の女子生徒がいた。

 同じクラスの生徒だった。

 教室の中央付近に座っていた華やかな雰囲気の少女と、その周囲にいた二人が、こちらを見ながら何かを話している。

 久世と目が合った瞬間、一人が口元を押さえた。


 もう一人も顔を背けたが、肩が小さく揺れている。

 中央に立つ少女だけは笑わなかった。

 ただ、久世の体操服姿を見て、満足そうに目を細めていた。

 久世は三人を順番に見た。


 更衣室。

 なくなった制服。

 こちらを見て笑うクラスメイト。

 状況を判断するのに、時間はかからなかった。


「……あいつらか」


 聞こえないほど小さな声で呟く。

 三人は何事もなかったように、廊下の向こうへ歩いていった。

 久世はその背中を見送り、短く息を吐く。

 こちらから関わるつもりはなかった。

 面倒事は持ち込むなと、最初にはっきり伝えたはずだ。

 だが、面倒事の方から寄ってきたらしい。


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