第2話 転校生
特異事象対策室を出た頃には、東の空がうっすらと白み始めていた。
庁舎の地下駐車場に停められた黒い車の助手席で、久世は深く座席へ身体を沈めていた。
夜通し怪異の調査を行い、帰還後には報告書の作成と身体検査。そのうえ榊原から、翌日から中学校へ通えなどという馬鹿げた命令まで言い渡されたのだ。
肉体は若返っても、疲労まで消えてなくなるわけではない。
「久世さん、寝てもいいですよ。着いたら起こしますから」
運転席の瀬尾が、前を向いたまま声をかけてきた。
「子供扱いすんな」
「十四歳ですからね」
「戸籍の話だろうが」
「学校でも同じことを言わないでくださいよ。中身は五十二歳だなんて知られたら、僕たちまで事情を聞かれるんですから」
「わかってる」
久世は窓の外へ顔を向けた。
早朝の街を、通勤用の車や新聞配達のバイクが走っている。
数か月前までなら、自分も仕事を終え、安アパートへ戻っていた時間だ。
適当な総菜を買い、酒を飲み、煙草を吸って眠る。
それだけの生活だった。
今では酒も煙草も禁止され、住所も名前も年齢も変わっている。
明日からは制服を着て、中学生に混じって授業まで受けなければならない。
「……地獄に落ちろ、クソ狸」
「榊原室長のことですか?」
「ほかに誰がいる」
「一応、久世さんのためを思っての判断らしいですよ」
「どの辺が俺のためなんだ」
「社会復帰、規則正しい生活、同年代との交流」
「同年代じゃねえだろ」
「外見上は同年代でしょう」
久世が睨むと、瀬尾は涼しい顔のまま車を走らせた。
相変わらず、口だけはよく回る男だった。
◇
車は住宅街の奥へ入っていった。
幹線道路から離れるにつれて新しい建物は減り、代わりに古い塀や瓦屋根の家が目立つようになる。
やがて瀬尾は、黒ずんだ板塀に囲まれた一軒の前で車を停めた。
「着きましたよ」
久世は車を降り、目の前の建物を見上げた。
古い日本家屋だった。
年季の入った瓦屋根。ところどころ色の剝げた木製の引き戸。庭には枝を広げた松と、手入れの行き届いていない低木が並んでいる。
建物自体は平屋だが、横へ長い。見える範囲だけでも、かなりの部屋数がありそうだった。
「……ここか?」
「ここです」
「廃屋の間違いじゃねえのか」
「失礼ですね。定期的に手入れはされていますよ」
「どこがだ」
久世が門を押すと、錆びた蝶番が甲高い音を立てた。
「夜になったら勝手に襖が開くとか、天井から血が垂れてくるとか、そういう物件じゃねえだろうな」
「現在、そのような現象は確認されていません」
現在。
瀬尾の言葉に、久世は足を止めた。
「待て」
「何でしょう」
「どうして過去形じゃなく、現在なんだ」
瀬尾が視線を逸らした。
「とりあえず、中に入りましょうか」
「おい」
「鍵はこちらです」
「瀬尾」
呼び止めても、瀬尾は聞こえないふりをして玄関へ向かっていく。
久世は舌打ちし、その後を追った。
玄関の鍵は新しいものに交換されていた。引き戸を開けると、広い土間と磨かれた板張りの廊下が現れる。
外観ほど荒れてはいない。
埃もなく、空気が淀んでいる様子もなかった。畳や建材の古い匂いはするが、不快というほどではない。
久世は靴を脱ぐと、無意識に周囲を見回した。
廊下の長さ。窓の位置。勝手口までの距離。床下へ通じそうな収納。天井裏への点検口。
住居として確認するというより、怪異の発生現場へ踏み込んだときと同じ見方だった。
「間取りは六畳二間、八畳二間、台所、居間、風呂、物置。それから庭に離れと井戸があります」
「一人で住むにはデカすぎるだろ」
「広い方がいいじゃないですか」
「掃除する場所が増えるだろ」
「久世さん、前の部屋でも大して掃除してなかったでしょう」
「……死なねえ程度にはやってた」
「人が暮らす基準としては低すぎませんか?」
久世は瀬尾を無視し、玄関近くの棚に置かれていた分厚い封筒を手に取った。
表には新しい住所と、久世小夜の名前が印刷されている。
中には家屋に関する書類、周辺の地図、公共料金の案内などが収められていた。
「家賃は?」
「対策室持ちです」
「水道と電気は」
「それも対策室持ちです。ガス代、通信費、修繕費も原則として経費から出ます」
「……そうか」
久世は書類を封筒へ戻した。
「急に納得しましたね」
「無料なら文句は言えねえ」
「さっきまで廃屋だの何だの言っていたのに」
「金を取られるなら廃屋だ。無料なら広い家だ」
「現金ですねえ」
「うるせえ」
瀬尾は苦笑しながら、別の書類を抜き出した。
「ただし、条件があります」
「だろうな」
久世は書類を受け取り、表紙へ目を落とした。
そこには大きく、特異事象管理物件経過観察記録と記されていた。
「……やっぱり怪異物件じゃねえか」
「以前は、です」
夜間、特定の部屋へ入った者の前に、正体不明の存在が現れる。
対策室の調査によって異常の発生源となる部屋は特定され、その出入口は物理的に封鎖された。それ以降、家屋内で異常現象は確認されていない。
現在は定期観測のみが続けられているという。
「安全性は確認されています」
「確認されてるなら、一般に貸し出せばいいだろ」
「万が一、異常が再発した場合に困りますから」
「だから、俺を住ませるのか」
「久世さんなら、異変にも早く気づけるでしょう?」
「つまり家賃の代わりに、ここを監視しろってことか」
「そういうことになりますね」
住居の提供と、封鎖後の経過観察。
ついでに、怪異によって変化した久世本人の監視も行える。
榊原が一石二鳥どころか、三鳥も四鳥も狙っていることは明らかだった。
「クソ狸が」
「ですが、本当に学校から近いですよ。歩いて十五分ほどです」
「そこだけは認めてやる」
久世は書類を畳むと、改めて家の中を見回した。
畳も古いが傷んではいない。台所と風呂は改修されており、普通に使えそうだった。
少なくとも、以前の狭い部屋よりは暮らしやすいだろう。
「家電は?」
「夕方に持ってきます」
「新しく買うのか?」
「久世さんの前の部屋にあったものを運びます。電子レンジや炊飯器、調理器具も一通り」
「勝手に人の部屋へ入ったのか」
「行方不明者の住居ですから。今は対策室の管理下です」
「俺はここにいるだろうが」
「高城さんには言えませんよ、それ」
「高城?」
「ええ。荷物を運ぶのを手伝ってもらいます」
「何であいつが来るんだ」
「小夜さんにとって、今後重要な役目を担う人だからです」
瀬尾はそれだけ言うと、玄関へ向かった。
「詳しい話は夕方に。僕も一度戻らないといけないので」
「おい、待て。高城にはどこまで話してある」
「榊原室長から説明することになっています」
「だから、その説明の中身を聞いてんだ」
「詳しい偽装設定は、そこの封筒に入っていますよ」
瀬尾は逃げるように靴を履いた。
「夕方には戻ります。何かあったら連絡してください」
「話は終わってねえぞ」
「お疲れでしょう。少し寝た方がいいですよ」
引き戸が閉まり、瀬尾の足音が遠ざかっていく。
久世はしばらく玄関を睨んでいたが、追いかける気力までは残っていなかった。
◇
ひととおり家の中を確認したあと、久世は八畳の和室へ入った。
押し入れには、新しい布団が用意されている。
学校関係の書類だけでも目を通しておこうと封筒を開いたものの、文字を数行追ったところで瞼が重くなった。
久世は数か月前から隔離施設で生活していた。
その間、毎日のように検査を受け、怪異によって作り替えられた身体について調べられてきた。
拘束こそされなかったものの、自由に外へ出ることは許されず、仕事へ復帰できたのもつい最近だ。
久しぶりの夜間調査で、思った以上に疲れていたらしい。
「一時間だけ寝るか……」
そう呟き、久世は布団へ横になった。
次に目を開けたとき、部屋の中は夕日で赤く染まっていた。
遠くで何かが鳴っている。
最初は怪異による音かと思い、反射的に身体を起こした。
だが、それが玄関の呼び鈴だと気づくまでに数秒かかった。
「……何時だ」
枕元の端末を見る。
午後五時を回っていた。
「寝すぎた」
一時間のつもりが、ほとんど半日眠っていたらしい。
久世は乱れた髪を手櫛で整え、Tシャツと短パンのまま廊下へ出た。
呼び鈴がもう一度鳴る。
「聞こえてる」
玄関の鍵を開け、引き戸を開いた。
そこには、大きな段ボール箱を抱えた瀬尾と、両手に紙袋を提げた女性が立っていた。
肩にかかる程度の黒髪を後ろでまとめた、三十代前半ほどの女性。
高城香澄。
久世と同じチームに所属し、これまで何度も現場を共にしてきた後輩だった。
「遅えぞ、高――」
そこまで口にして、久世は止まった。
高城が、驚いたように目を見開いている。
久世小夜と高城香澄は、今日が初対面ということになっている。
「……高城さん、だな」
久世は強引に言い直した。
「榊原……室長から聞いてる」
「あ……ええ。初めまして、高城香澄です」
高城は戸惑いながらも、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「あなたが、小夜ちゃんね」
「その呼び方はやめろ」
反射的に言い返した瞬間、高城が目を瞬かせた。
背後に立つ瀬尾は、段ボール箱で口元を隠している。
「……ごめんなさい。嫌だった?」
「……いや、好きにしてくれ」
久世は顔をしかめ、二人を家の中へ通した。
「突っ立ってねえで入れ。荷物が邪魔だ」
「はいはい」
瀬尾が靴を脱ぎ、その後から高城も玄関へ上がる。
高城は久世の顔をじっと見つめていた。
「何だ」
「ううん。ただ、本当に久世先輩には似ていないなと思って」
「悪かったな」
「悪いなんて言ってないでしょう。すごく綺麗な顔立ちだから、きっとお母さん似なのね」
「……そうかもな」
存在しない母親について同意を求められても、久世には答えようがない。
「でも」
高城は少しだけ目を細めた。
「その不機嫌そうな顔と、口の悪さは久世先輩にそっくり」
高城の背後で、瀬尾の肩が揺れた。
段ボール箱の陰に隠れ、必死に声を殺している。
久世はゆっくりと目を細めた。
「瀬尾」
「はい?」
「何を笑ってやがる」
「笑ってませんよ」
「だったら、その震えは何だ」
「重いんです、この箱」
「置けばいいだろうが」
「いやあ、親子というのは似るものなんだなと思いまして」
久世は瀬尾を睨みつけた。
「後で覚えてろよ」
「小夜ちゃん」
高城がたしなめるように名前を呼ぶ。
「年上の人に、そういう言い方をしないの」
「こいつにはこれでいい」
「そういうところよ」
「何がだ」
「久世先輩にそっくりだって言ってるの」
瀬尾が再び顔を背けた。
今度は段ボール箱を置くふりをして、完全に高城の後ろへ隠れている。
久世は無言で拳を握った。
高城がいなければ、一発殴っていたところだ。
◇
瀬尾が運んできたのは、久世が以前住んでいた部屋の家電や調理器具だった。
電子レンジ、炊飯器、電気ケトル。鍋とフライパン、最低限の食器。使い古したマグカップまである。
高城には、行方不明となった久世の私物のうち、娘の生活に使えそうなものを持ってきたと説明されているらしい。
「これ、本当に久世先輩が使っていたものなのよね」
高城がマグカップを手に取り、懐かしむように眺めた。
縁の一部が欠け、色もくすんでいる。
「そんなもの、捨てた方がよくないですか?」
瀬尾が言うと、久世は即座に顔を向けた。
「捨てんな」
高城が小さく笑う。
「お父さんの物だものね」
「……まあな」
「大丈夫。勝手に捨てたりしないから」
優しく言われ、久世は妙な居心地の悪さを覚えた。
高城は久世の失踪を、本気で案じている。
その本人が目の前にいるのに、高城には何も伝えられない。
「榊原室長から、今日の昼に話を聞いたの」
高城はマグカップを棚へ戻しながら言った。
「久世先輩に娘さんがいるなんて、全然知らなかった」
「……誰にも言ってなかったらしいな」
「ええ。あなたのお母さんに、ずっと生活費を送っていたそうね」
「そういうことになってる」
「なってる?」
「……そう聞いてる」
危うく余計なことを口にするところだった。
高城は気づかなかったのか、寂しそうに目を伏せた。
「何度も一緒に仕事をしてきたのに、何も話してくれなかった。少しくらい相談してくれてもよかったのに」
「あいつは、そういう男だったんだろ」
「まるで、よく知っているみたいな言い方ね」
「父親だからな」
久世は短く答え、視線を逸らした。
高城はしばらく黙っていたが、やがて座っている小夜の前へしゃがみ込んだ。
子供を安心させようとするように、目線を合わせてくる。
「小夜ちゃん」
「何だ」
「久世先輩が見つかるまで、私があなたの面倒を見ることになったの」
「必要ねえ」
「即答しないで」
「一人で暮らせる」
「十四歳の子を一人にしておけるわけないでしょう」
「数か月、自分のことは自分でやってた」
「それはうちの施設にいたからでしょう?」
榊原が作り上げた偽装設定では、小夜は以前から怪異を感知できる特殊体質で、何度か非公式に対策室の調査へ協力していたことになっている。
久世征司が行方不明となった後、安全確認と能力検査を兼ねて、本部が管理する施設で保護されていた。
保護とは、ずいぶん聞こえのいい表現だったが、高城はその説明を信じているようだった。
「お母さんは海外。お父さんは行方不明。近くに頼れる人もいないんでしょう?」
「別に困ってねえ」
「あなたが困っていると思っていなくても、周りは心配するの」
「面倒だな」
「そういうことを言わない」
高城は困ったように笑った。
「私も、久世先輩には何度も助けられたの。あの人の代わりにはなれないけど、困ったことがあったら何でも言って」
「あいつなら、余計な世話を焼くなって言うだろうな」
「やっぱり、性格はお父さん似ね」
久世の背後で、段ボールを開けていた瀬尾が吹き出した。
「瀬尾」
「すみません。今のは我慢できませんでした」
「表に出ろ」
「十四歳の女の子に呼び出されるのは、さすがに格好がつきませんね」
「安心しろ。一方的に殴るだけだ」
「小夜ちゃん!」
高城に叱られ、久世は舌打ちした。
◇
荷物を片づける途中、高城は寝室として使う予定の和室へ入った。
壁際には、対策室が用意した新しい箪笥が置かれている。
高城が引き出しを開け、そのまま動きを止めた。
「……これだけ?」
「ああ」
中に入っているのは、白や黒の無地のTシャツが数枚と、同じような短パンだけだった。
隣の洋服箪笥には、学校指定のセーラー服が数着掛けられていた。その端には、小夜の身体に合わせて用意された黒いスーツが一着ある。
「ほかの服は?」
「ねえよ」
「本当に?」
「何度聞いても増えねえぞ」
「制服と、Tシャツと短パンしかないじゃない」
「スーツもある」
「そういう問題じゃないの」
「何が問題なんだ。学校には制服で行く。家ではこれを着る。それで困らねえだろ」
高城は信じられないものを見るように、もう一度箪笥の中を確かめた。
「休日はどうするの?」
「家にいる」
「友達と出かけることだってあるでしょう?」
「ねえよ」
「これからできるかもしれないでしょう」
「必要ねえ」
「友達は必要でしょう」
「面倒事が増えるだけだ」
高城は頭痛を堪えるように額へ手を当てた。
「年頃の女の子が、こんな調子でどうするの……」
「別に困ってねえ」
「あなたは困っていなくても、私が心配なの」
「何でお前が困るんだ」
「放っておけないからよ」
久世には理解できなかった。
着る物があり、寒さを防げて、動きに支障がなければ十分だ。外見を飾るためだけに、似たような衣服を何着も揃える意味が分からない。
「次の休みに、服を買いに行きましょう」
「行かねえ」
「行きます」
「断る」
「駄目です」
高城は穏やかに微笑んでいた。
だが、その笑顔に拒否を受け入れる余地がないことを、久世は長年の経験から察した。
助けを求めるように瀬尾を見る。
瀬尾は久世と目が合うなり、さっと顔を背けた。
「おい」
「何でしょう」
「お前も何か言え」
「女性の服については、高城さんに任せるのが一番かと」
「逃げやがったな」
「適材適所です」
高城は箪笥を閉じると、満足そうに頷いた。
「今週末は空けておいてね」
「予定がある」
「何の?」
「家にいる」
「それは予定とは言いません」
「俺にとっては予定だ」
「俺?」
高城が振り返る。
久世は一瞬だけ黙った。
「……父親の影響だ」
「本当に、よく似てるのね」
またしても、高城の後ろで瀬尾が肩を震わせた。
◇
荷物を片づけ終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
高城は冷蔵庫に食料を詰め、翌朝の朝食まで用意した。
久世はそこまでしなくていいと何度も言ったが、高城は聞く耳を持たなかった。
「それから、この家のことだけど」
帰り支度をしながら、高城が瀬尾へ厳しい視線を向ける。
「以前、怪異が出た家なんでしょう?」
「異常が発生した部屋は物理的に封鎖されています。現在、ほかの場所で現象は確認されていません」
「だからって、十四歳の子を一人で住ませる?」
「定期的に観測班も確認しますし、家屋内にはセンサーもあります。緊急時には十分以内に担当者が到着できる体制です」
「そういう問題じゃないでしょう」
「別にいい」
久世が口を挟むと、高城は呆れたように振り返った。
「あなたは怖くないの?」
「出たら対処すればいい」
「対処って……」
「怪異はルールさえ分かれば、どうにかなる」
高城が目を見開いた。
しまった、と久世は思ったが、もう遅い。
「ずいぶん詳しいのね」
「対策室の調査には何度も協力してきただろ、俺は」
口にしてから、久世はわずかに眉を寄せた。
「……私は」
高城は不思議そうに久世を見つめたあと、ふっと表情を緩めた。
「そこまで久世先輩に似なくてもいいのに」
「似てねえよ」
「似てるわよ。久世先輩も、危険な現場ほど平気な顔をしていたもの」
高城の声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。
「久世先輩には何度も助けてもらった。私だけじゃない。瀬尾君も、ほかの人たちも」
瀬尾は笑わなかった。
少しだけ目を伏せ、黙って高城の言葉を聞いている。
「だから今度は、私たちがあなたを守る番」
「守られるほど弱くねえ」
「ええ。そう言うと思った」
高城は小さく笑った。
「それじゃあ、明日の朝に連絡するから。学校へ行く前に、忘れ物がないか確認してね」
「子供じゃねえんだから、一人でできる」
「十四歳は子供です」
反論する前に、高城は玄関を出ていった。
瀬尾もその後を追おうとする。
「瀬尾」
「はい」
「今日笑った分は、全部覚えてるからな」
「怖いですねえ」
「次の現場を楽しみにしてろ」
「だから、そういうところが久世さんなんですよ」
瀬尾は声を潜めてそう言うと、素早く玄関の外へ逃げた。
◇
一人になった家は静かだった。
古い柱時計の音が、一定の間隔で居間に響いている。
久世は卓袱台の前へ座り、学校関係の書類を広げた。
市立鷺ノ宮中学校。
二年三組。
転校理由は家庭の事情。
父親である久世征司は行方不明。母親は海外の研究機関に勤務しており、長期間帰国できない。
そのため小夜は、かつて祖父母が暮らしていた家へ移り、近隣に住む父方の親戚である高城香澄が、保護者代理として生活を支援する。
「よくもまあ、ここまで作りやがったな」
久世は資料をめくった。
母親の名前、年齢、勤務先。過去に通っていた学校。成績、健康診断の記録、予防接種歴。幼少期から怪異を感知する特殊体質があり、父親を介して非公式に対策室へ協力していたという経歴まで用意されている。
書類だけを見れば、久世小夜は十四年前から実在していた。
「俺に隠し子を作りやがって……」
しかも、誰にも告げず密かに娘を支援していた、不器用だが娘思いの父親という設定になっている。
高城が信じたのも無理はない。
「元の身体に戻ったら、あのクソ狸を一発殴ってやる」
久世は悪態をつきながらも、資料を一つずつ頭へ入れていった。
偽装経歴。学校の見取り図。担任教師の顔と名前。教室の位置。保健室、職員室、非常口。登下校の経路。
覚え方は、怪異現場へ入る前と変わらない。
情報を整理し、危険になり得る場所を確認し、何かあった際の退路を確保する。
違うのは、今回の敵が怪異ではなく、中学校という未知の環境であることだけだ。
資料の最後には、転校初日の自己紹介例まで載っていた。
『久世小夜です。まだ分からないことも多いですが、一日も早く皆さんと仲良くなりたいと思っています。よろしくお願いします』
「誰がこんなこと言うんだ」
久世はその頁を閉じた。
◇
翌朝。
久世は畳の上に広げられた制服を睨んでいた。
濃紺のセーラー服。白いラインの入った襟。その隣には、同じ色のプリーツスカートが置かれている。
少女の身体へ変わってから、すでに数か月が経っている。
今さら細い手足や、鏡に映る少女の顔へ驚くことはない。
だが、それと女子中学生の制服を着ることは別の話だった。
久世はスカートを両手で持ち上げた。
「こ、こんなものを穿くのか……俺が」
当然、返事をする者はいない。
資料を何度確認しても、用意されている制服はこれだけだ。女子用のスラックスなどという気の利いたものはなかった。
「ズボンでいいだろうが……」
文句を言っていても、登校時間は待ってくれない。
久世は意を決して着替え、鏡の前に立った。
そこには、濃紺のセーラー服に身を包んだ黒髪の少女がいた。
整った顔立ち。白い肌。長い黒髪。
不機嫌そうな表情を除けば、どこから見ても普通の女子中学生だった。
腹立たしいほど、制服が似合っている。
「……最悪だ」
久世は通学鞄を肩にかけ、家を出た。
学校までは徒歩十五分。
道順は昨夜のうちに完全に頭へ入れてある。
途中の交番、防犯カメラ、細い路地、塀の低い家。何かあった場合に身を隠せる場所と、追跡を振り切るための経路も確認した。
自分でも、中学校へ登校する人間の考えることではないと分かっている。
だが、長年染みついた習慣は簡単には抜けなかった。
校門へ近づくにつれ、同じ制服を着た生徒が増えていく。
その何人かが、久世を振り返った。
視線が集まる。
小声で何かを話している者もいる。
久世は眉を寄せた。
まだ何もしていないというのに、どうして見られているのか分からない。
自分の顔が整っていることくらい、鏡を見れば分かる。
だが、それが他人の視線を集める理由になるという感覚までは、まだ身についていなかった。
職員室で簡単な説明を受けたあと、久世は担任教師に連れられ、二年三組の教室へ向かった。
教室の前まで来ると、担任が中へ入っていく。
引き戸の向こうから、生徒たちの声が聞こえていた。
「今日は転校生を紹介します」
その一言で、教室内が一気にざわめく。
久世は小さく息を吐いた。
怪異の潜む場所へ入るときでさえ、これほど気が重くなった覚えはない。
「久世さん、入ってください」
担任に呼ばれ、久世は教室の引き戸を開けた。
四十人近い生徒の視線が、一斉にこちらへ向けられる。
驚き。好奇心。期待。
教室の空気が明らかに変わった。
久世はその視線を無視し、教壇の横まで歩いた。
「こちらが、今日からこのクラスで一緒に勉強する久世小夜さんです」
担任からチョークを渡され、黒板へ名前を書く。
久世小夜。
数か月前までは存在すらしなかった名前だ。
「それでは、自己紹介をお願いします」
久世は教室を見渡した。
昨夜覚えた模範的な挨拶が、頭の中に浮かぶ。
一日も早く皆さんと仲良くなりたいと思っています。
冗談ではない。
誰も彼も、珍しい動物でも見るような目を向けている。
このままでは休み時間になるたび、興味本位の質問を浴びせられるに違いない。
久世は、最初にはっきり言っておくべきだと判断した。
「久世小夜だ。家庭の事情で、今日からここに通うことになった」
教室が静かになる。
「分からねえことは、必要になったらこっちから聞く」
担任の表情が、わずかに引きつった。
だが、久世は構わず続けた。
「だから――面倒くせえから、用もなく話しかけんなよ。以上だ」
教室から、すべての音が消えた。
誰もが呆然と久世を見つめている。
教室の中央では、華やかな雰囲気をまとった女子生徒が、笑顔のまま静かに目を細めていた。
窓際の後方では、制服をわずかに着崩した女子生徒が頬杖をつき、楽しそうに口角を上げる。
「……面白えのが来たじゃん」
その小さな呟きは、久世の耳には届かなかった。
これだけ言っておけば、余計な人間に絡まれることもないだろう。
久世はそう信じていた。




