第1話 呼ぶ声
午前一時四十七分。
山中を縫う旧県道の先で、廃トンネルは黒々と口を開けていた。
正式名称は、旧鷺森隧道。
全長三百二十七メートル。昭和の半ばに開通し、二十年ほど前、新道の完成に伴って閉鎖された。
坑門に取りつけられていたはずの銘板は半ばから崩れ落ち、ひび割れたコンクリートを覆い隠すように、無数の蔦が絡みついている。
入口を塞いでいた金網には、人が一人通れるほどの穴が開いていた。
誰かが工具を使って切断したらしい。
穴の周囲には新旧いくつもの靴跡が残されている。閉鎖されて久しい場所ではあるが、人の出入りが完全に途絶えているわけではないようだ。
その手前に、一台の黒いワゴン車が停まっていた。
「最後に確認しますけど」
後部ドアへ背を預けていた青年が、手元のタブレット端末から顔を上げた。
二十代後半。癖のない黒髪を短く整え、端正な顔立ちをしている。
身につけているのは、仕立てのよい黒いスーツだ。
深夜の山中よりも、都心の洒落た店の方が似合いそうな男だった。
「本当に入るんですか?」
「ここまで来て帰るつもりか」
青年の向かいに立つ久世が、呆れたように答えた。
「帰れるなら帰りたいですよ。資料を読む限り、どう考えてもガセですし」
青年――瀬尾祐真は、タブレットの画面を久世へ向けた。
「ネット上に最初の書き込みが確認されたのは十三年前。その後、似たような投稿がいくつか増えていますが、細部はばらばらです。呼びかける言葉も違えば、時刻も違う。典型的な心霊スポット系の都市伝説ですよ」
「だったら、それを確認して帰ればいい」
「わざわざ午前二時に、こんな山奥まで来て?」
「何もいないと確認するのも仕事だ」
久世は瀬尾からタブレットを受け取り、画面を指で送っていった。
旧鷺森隧道周辺では、過去十六年間に五件の行方不明事案が記録されている。
うち一件は、友人たちと肝試しに訪れた大学生。
トンネルへ入ったのは五人。戻ってきたのは四人だった。
同行者たちは、途中まで一緒に歩いていたはずの友人が、いつの間にかいなくなっていたと証言している。
二件目は、旧県道脇に車だけを残して失踪した会社員。
三件目は家出の可能性が高い高校生。
残る二件については、最後に確認された携帯電話の位置情報が、この周辺で途絶えていた。
どの事案も、トンネルとの因果関係は立証されていない。
警察の記録上では、事故、自発的な失踪、あるいは自殺の可能性が高いものとして処理されている。
それ自体は、妥当な判断だ。
怪異の存在を前提としない警察に、これ以上の捜査を求めることはできない。
「警察が見落としているとは限りませんよ」
瀬尾が言った。
「分かってる」
「だったら、なおさら僕たちが来る意味は薄いでしょう」
「逆だ」
久世はタブレットを瀬尾の胸へ押し返した。
「警察が調べても、原因が分からなかった。だから俺たちが調べるんだ」
科学的に説明できない現象。
既存の生物や物理法則では分類できない存在。
呪い、霊、都市伝説。呼び方は何でも構わない。
それらの存在を確認し、可能であれば隔離する。
何が起きているのかを調べ、対処が可能か判断する。
それが久世たちの仕事だった。
怪異を倒すことが目的ではない。
人間と共存できるものなら、距離を保つ。
一定の場所から動かないのであれば、その場所ごと封鎖する。
危険性が不明なら、まずは観察する。
下手に刺激して被害を広げるくらいなら、手を出さない方がましなこともある。
そして、その判断を下すためには、怪異が従うルールを突き止める必要がある。
現れる条件。
標的に選ばれる条件。
襲われる条件と、生きて帰るための条件。
怪異は理不尽だが、無秩序ではない。
その法則を見つけ出すことが、久世たちの最優先任務だった。
今回の都市伝説にも、怪異を呼び出すための手順が残されている。
それが本当に発現条件なのか。
そして、呼び出した後に何をすれば生きて帰れるのか。
それを確かめるために、久世たちはここまで来た。
「まったく、模範的な回答ですね」
「何か文句があるのか」
「ありませんよ。三年前、同じようなことを言って現場責任者の命令を無視した人とは思えないだけです」
「あれは向こうの判断が間違っていた」
「結果的には、でしょう」
「結果を出したなら問題ねえ」
「そういうところを室長に嫌われるんですよ」
「知るか」
久世は腕時計へ目を落とした。
午前一時五十二分。
「条件をもう一度確認するぞ」
「了解です」
瀬尾の顔から軽い笑みが消えた。
切り替えだけは早い。
久世は長年、瀬尾を部下として使ってきた。
口が軽く、隙を見つければすぐに余計なことを言う。だが、現場に入れば余計な感情を切り離せる。
若いが優秀な男だった。
「最古の書き込みでは、午前二時ちょうどにトンネル中央へ立つ」
瀬尾がタブレットを確認しながら読み上げる。
「すべての明かりを消し、奥へ向かって『迎えに来た』と三回告げる。その後、目を閉じて十三秒待つ」
「すると」
「何者かが名前を呼ぶ」
「呼ばれたら?」
「振り向かない。返事をしない。そのまま来た道を戻る」
「走った場合は」
「追いつかれる、転ぶ、出口が遠ざかる。書き込みによって違います」
「声に反応した場合」
「何かが自宅まで憑いてくる。一週間以内に失踪するか、自殺する。これも諸説ありますね」
「諸説だらけだな」
「だからガセだと言ってるんです」
「都市伝説は後から余計な話が増える。確認するなら、一番古い手順だ」
「目を閉じるところまで再現しますか?」
「ああ」
「危険性が分からないのに?」
「条件を変えたら、何も起きなかった時に判断できねえだろ」
瀬尾は小さく息を吐いた。
「慎重なのか無茶なのか、時々分からなくなりますよね、先輩は」
「両方だ」
「自覚はあるんですね」
「装備を確認しろ」
瀬尾はそれ以上言わず、車内から黒いケースを引き出した。
「暗視対応の小型カメラ。指向性マイク。温度、湿度、気圧、電磁場を記録する環境測定器。簡易生体センサー。すべて正常です」
「無線は」
「本部との接続を確認。電波が切れた場合は端末側で記録を継続します」
「武器」
瀬尾はスーツの内側へ手を触れた。
「拳銃一丁、予備弾倉が二つ。弾薬は通常弾です」
「わかっているとは思うが、怪異へは撃つなよ。効く保証もないうえ、反応条件を増やす可能性がある」
「ええ、人間が出てきた場合だけですね」
「ああ。怪異より、肝試しに来た連中の方が話の通じないこともある」
瀬尾の視線が、久世の腰元へ落ちた。
「先輩は、本当に丸腰で?」
「持たせねえって決めたのは上だ」
「以前なら、絶対に文句を言って奪ってましたよね」
「今でも必要なら、お前から奪う」
「やめてください。僕まで処分される」
「なら、しっかり持ってろ」
久世は大型の懐中電灯を点灯させた。
強い白色光が、トンネル内部を切り裂く。
湿った地面。
ひび割れた壁。
色とりどりの落書き。
空き缶や菓子の袋、割れた酒瓶。誰かが供えたらしい花束や、片目の取れた人形も転がっている。
今のところ、荒れ果てた心霊スポットにしか見えない。
「行くぞ」
「了解」
二人は金網の穴をくぐり、トンネルの中へ足を踏み入れた。
◇
足音が、暗い坑内へ響いていく。
懐中電灯の光が左右へ動くたび、壁を埋める落書きが浮かんでは消えた。
帰れ。
振り向くな。
死ね。
ここにいる。
誰かを怖がらせるために書かれた言葉ばかりだ。
瀬尾は胸元に取りつけたカメラを確認し、測定器へ目を落とした。
「気温十一・三度。湿度七十九パーセント。気圧に大きな変化なし」
「電磁場」
「基準値内です」
「音は」
「反響が強いだけですね。今のところ異常なし」
「生体反応」
「僕たち以外に小型の反応が二つ。鼠かコウモリでしょう」
数値だけを見れば、何も起きていない。
百メートルほど進んだところで、瀬尾が小さく笑った。
「やっぱり外れじゃないですか?」
「条件を再現するまでは分からん」
「でも、これだけ落書きやゴミがある。若者が頻繁に入り込んでるんでしょう。噂が本当なら、もっと被害が出ていてもおかしくない」
「条件が間違ってる可能性もある」
「ネットの書き込みを一つずつ試すつもりですか?」
「必要ならな」
「勘弁してくださいよ」
瀬尾は口では文句を言いながらも、足を止めなかった。
トンネルの半ばへ差しかかったところで、久世は不意に歩みを止めた。
数歩先へ進んでいた瀬尾も、すぐに気づいて振り返る。
「どうしました?」
「……静かすぎる」
「静か?」
二人の足音が止まる。
坑内から、すべての音が消えた。
水滴の落ちる音すらしない。
入口の外では、虫がうるさいほど鳴いていた。その声も、今はまったく届いてこない。
「トンネルの奥ですから、外の音が届かないだけでは?」
「俺たちの呼吸音も、妙に響かねえ」
瀬尾が指向性マイクの表示を確認する。
「記録上は正常です」
「そうか」
「引き返しますか?」
慎重派の瀬尾らしい提案だった。
久世は暗い奥へ懐中電灯を向けた。
光の届かない先で、何かがこちらを待っている。
そんな気がした。
「いや。予定どおりやる」
「感覚的に異常を感じたんでしょう?」
「だから確認するんだ」
「それを慎重とは呼ばないんですよ」
「口より手を動かせ」
「はいはい、わかりましたよ」
トンネルの中央付近には、白いスプレーで大きな円が描かれていた。
円の中には、古びた手鏡と、蝋燭の燃え残りが置かれている。
都市伝説を試した者が残していったのだろう。
瀬尾は円から少し離れた場所へ三脚を立て、カメラと測定器を固定した。
「逃走経路は入口方向。異常を確認した場合、僕が機器を回収します」
「捨てろ」
「これ一台で、その辺の車より高いんですよ」
「命より高いなら持って帰れ」
「先輩が始末書を書いてくれるなら」
「じゃあ、頑張って持って帰れ」
ため息をつき、瀬尾が腕時計を見た。
「午前二時です」
久世は懐中電灯を消した。
瀬尾も照明を落とす。
暗闇が、一瞬で二人を飲み込んだ。
外から差し込む月明かりは、ここまでは届かない。
目を開けていても、自分の手すら見えなかった。
久世はトンネルの奥へ身体を向けた。
「迎えに来た」
声が、闇の中へ吸い込まれていく。
「迎えに来た」
二度目。
「迎えに来た」
三度目。
久世は目を閉じた。
一秒。
二秒。
三秒。
遠くで、何かが擦れる音がした。
四秒。
五秒。
六秒。
ぺたり。
濡れた足で、地面を踏んだような音。
七秒。
八秒。
九秒。
ぺたり。
先ほどよりも近い。
十秒。
十一秒。
十二秒。
十三秒。
久世は目を開いた。
何も見えない。
隣にいる瀬尾の呼吸だけが、微かに聞こえている。
数秒待ったが、声はしなかった。
「……外れですかね」
瀬尾が小声で言った。
「黙ってろ」
久世が返した、その直後だった。
『征司』
背後から、女の声がした。
全身の産毛が逆立つ。
幼いとも、老いているともつかない声だった。
確かに、自分の名を呼んでいる。
『久世征司』
今度は、すぐ耳元で囁かれた。
久世は動かなかった。
返事もしない。
代わりに手を伸ばし、隣にいる瀬尾の腕へ触れた。
身体が強張っている。
久世はその肩を二度叩いた。
撤退の合図。
瀬尾も一度だけ久世の腕を叩き返した。
二人は同時に、入口へ向かって歩き始めた。
走らない。
振り向かない。
声に反応しない。
都市伝説を信じているわけではない。
相手の性質が分からない以上、既知の情報から外れた行動を避けているだけだ。
『征司』
呼ぶ声が、後ろからついてくる。
『どうして置いていったの』
知らない声だった。
少なくとも、久世の記憶にはない。
『迎えに来てくれたのでしょう』
返事をしない。
歩みも止めない。
隣の瀬尾が短く息を呑んだ。
久世は視線だけを横へ向けた。
暗闇の中で顔は見えない。
しかし足取りが僅かに乱れている。
瀬尾の靴底が地面を擦った。
足が止まりかける。
「瀬尾」
久世は前を向いたまま呼びかけた。
「耳を貸すな」
「……分かっています」
返事はあった。
だが、その声には明らかな動揺が滲んでいる。
瀬尾の右肩が、僅かに後ろへ引かれた。
久世は即座に腕を掴んだ。
「前を向け」
「分かってるって、言ってるでしょう!」
瀬尾の足が止まった。
同時に、後方で測定器の警告音が鳴り響く。
甲高い電子音が、暗闇を切り裂いた。
「数値は!」
「生体反応が――」
「見るな!」
背後で、何かが地面を這った。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
急速に近づいてくる。
その瞬間、久世の視界が歪んだ。
闇の中に、見えるはずのないものが浮かび上がる。
瀬尾の足元から、トンネルの奥へ伸びる黒い糸。
いや、糸ではない。
瀬尾の影だけが、光もないのに地面へ張りつき、何者かに引かれるように長く伸びていた。
「瀬尾、前へ跳べ!」
「は?」
「いいから跳べ!」
久世は瀬尾の背を押した。
瀬尾の身体が前へよろめく。
直後、彼が立っていた場所で何かが空を切った。
鋭い風音。
見えない爪が、スーツの裾を引き裂いた。
「走れ!」
「都市伝説では――」
「もう捕まってる! 条件が変わった!」
瀬尾が床に置いた測定器へ手を伸ばす。
久世はその手を叩き落とした。
「捨てろ!」
「本当に高いんですよ!」
「死んだら始末書もクソもねえだろ!」
二人は入口へ向かって走り出した。
背後から足音が増える。
二人分ではない。
三人。
四人。
五人。
裸足の足音が、トンネル全体を満たしていく。
久世は懐中電灯を点けた。
白い光が、遠くに小さく見える入口を照らす。
走りながら、久世は横目で瀬尾の位置を確認した。
後ろから足音はついてきている。
だが、途中で乱れた。
「っ……!」
瀬尾の呻き声。
振り向くと、彼の身体が後ろへ引かれていた。
片足は前へ踏み出しているのに、上半身が不自然に仰け反っている。
黒い影が、首へ絡みついていた。
「先輩、行ってください!」
「馬鹿言ってんじゃねえ!」
久世は方向を変え、瀬尾の手首を掴んだ。
強く引く。
しかし、身体がついてこない。
以前なら、この程度の男一人、力任せに引きずれた。
今は体重が足りない。
足が滑り、自分まで奥へ引かれかける。
「ちっ……!」
力で引けないなら、引き合わなければいい。
久世は瀬尾の腕を放した。
「え?」
抵抗が消え、瀬尾の身体が一気に後方へ傾く。
その瞬間、久世は低く身を沈め、瀬尾の足元へ滑り込んだ。
肩を膝裏へ叩きつける。
下から跳ね上げるようにして重心を崩し、瀬尾の身体を横へ倒した。
瀬尾が地面へ転がる。
怪異の引く方向から外れたことで、首に絡んでいた影が緩んだ。
久世には、それが見えた。
黒く濁った細い線。
反射的に手を伸ばし、影を掴む。
冷たい。
氷よりも、死体よりも冷たい何かが、掌へ食い込んだ。
『みつけた』
頭の中で声がした。
歓喜。
懐かしさ。
飢え。
人間の言葉では表現しきれない感情が、一度に流れ込んでくる。
久世は歯を食いしばり、黒い線を力任せに引きちぎった。
耳元で、甲高い悲鳴が弾ける。
懐中電灯が激しく明滅した。
「立て!」
久世は瀬尾の襟を掴んだ。
引き起こすことはできない。
代わりに頬を叩く。
「瀬尾!」
「……聞こえています」
「なら走れ!」
二人は再び入口へ向かった。
背後から、声が追いすがる。
『征司』
『置いていかないで』
『ここにいる』
出口まで、十メートル。
五メートル。
三メートル。
久世が先に外へ飛び出す。
続いて瀬尾が、転がるように境界を越えた。
その瞬間。
すべての声が止んだ。
足音も。
息遣いも。
追いかけてきていた何かの気配も、トンネルの入口で綺麗に途切れた。
二人はそのまま、湿った地面へ倒れ込んだ。
静かな山中に、荒い呼吸だけが響いていた。
◇
「……生きています?」
しばらくして、瀬尾が仰向けになったまま尋ねた。
「自分で確認しろ」
「先輩に聞いてるんですよ」
「口が動いてるなら生きてるだろ」
「相変わらず雑ですね」
瀬尾はゆっくりと上体を起こした。
額には汗が浮かび、いつもの余裕ある表情は消えている。
久世も立ち上がり、トンネルの入口を振り返った。
向こうには、ただ暗闇が広がっている。
外へ出てくる気配はない。
久世は無線機を取り出した。
「管制、こちら久世。記録を保全。トンネル内部に異常存在を確認した。活動範囲は、現時点では坑内に限定されている可能性が高い。追加調査は中止する」
『了解。時刻を記録しました』
「本部へ緊急報告。両側の入口を封鎖する準備を始めさせろ」
『対象の追跡はありませんか』
「今のところはな。三十分は周辺を観測してから撤収する」
『了解しました』
久世は無線を切り、車へ向かった。
瀬尾は車体へ背を預け、首元へ手を触れている。
細い縄を巻きつけたような赤黒い痣が残っていた。
「痛むか」
「少し。医療班に見せるほどではないと思いますけど」
「お前の判断は聞いてねえよ。戻ったら検査を受けろ」
「先輩もですよ。あれに触れたでしょう」
「俺はいい」
「よくありません」
「うるせえな」
久世はスーツの内ポケットを探り、潰れかけた煙草の箱を取り出した。
一本を唇へ挟む。
金属製のライターで火をつけ、深く吸い込む。
肺へ落ちていく苦味に、ようやく肩から力が抜けた。
「……相変わらずですね」
「何がだ」
「怪異から生還した直後の一服」
「これが一番うまいんだよ」
「その姿で言われても、まったく渋く見えませんけどね」
久世は眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ、小夜ちゃん」
「その呼び方はやめろ」
煙を吐きながら、助手席の窓へ目を向ける。
黒いガラスに、こちらを睨み返す人影があった。
最初に目に入ったのは、肩の下まで流れた黒髪だった。
次に、白い頬。
大きな黒い瞳と、小さな鼻。煙草を挟んでいることが、場違いにしか見えない幼い唇。
黒いスーツを着た、十四歳ほどの少女が映っていた。
整いすぎているほど整った顔立ち。
小柄で、細く、どう見ても成人には見えない。
ましてや、五十二歳の男になど見えるはずもなかった。
久世は、その顔を知っている。
ここ数か月、鏡を見るたびに目にしてきた顔だ。
それでも、五十年以上付き合ってきた自分の顔だと思えたことは、一度もない。
「……くそったれ」
窓の中の少女も、同じように唇を歪めた。
「せめて車内では吸わないでくださいよ。匂いがつくので」
「今の流れで最初に言うことがそれか」
「見慣れましたから」
「俺は慣れてねえんだよ」
「でも腰痛は治ったんでしょう?」
「それとこれは別だ」
「階段を上っても息切れしない。老眼もない。昔の傷も消えた。いいことばかりじゃないですか」
「身長が三十センチ以上縮んで、体重が半分近くになったことを忘れるな。さっきもお前を引っ張れなかった」
「でも、僕の足元へ潜り込んだ動きは速かったですよ。以前より身体は動いてる」
「感覚が合ってねえんだ。思った場所に手が届かない。体重を乗せても威力が出ない。使いづらくて仕方ねえ」
「慣れれば、前より強くなるんじゃないですか?」
「簡単に言いやがって」
瀬尾は小さく笑った。
その視線が、久世の煙草と窓に映った姿を行き来する。
「でも、本当に似合いませんね」
「何がだ」
「美少女と煙草」
「ぶっ殺すぞ」
少女の高い声で吐き出された脅しに、瀬尾はとうとう吹き出した。
久世は煙草を携帯灰皿へ押し込み、瀬尾の脛を蹴った。
「痛っ」
「次に笑ったらトンネルへ戻す」
「命を助けた直後に、また殺そうとしないでくださいよ」
「……なぁ、誰の声だった」
久世が尋ねると、瀬尾の笑みが消えた。
首元へ触れていた手が止まる。
しばらく黙った後、瀬尾は苦笑した。
「報告書に必要ですか?」
久世は煙を吐いた。
「いや。俺に聞こえていたものと同じかどうか、それだけだ」
「……先輩には?」
「知らねえ女の声だった」
「本当に?」
「詮索するな」
「分かりました」
瀬尾はそれ以上、聞かなかった。
久世は自分の右手へ目を落とした。
小さな掌に、黒い痣が残っている。
痛みはない。
だが、皮膚の奥に冷たさが染みついていた。
「あれは、先輩に反応していたように見えました」
瀬尾が言った。
「俺だけじゃない。お前にも絡みついただろ」
「そういう意味ではありません。先輩が影を掴んだ瞬間、向こうの反応が変わった。まるで――」
「俺を知っていたみたいだった、か」
瀬尾は答えなかった。
「分かってる」
久世は右手を握り込んだ。
「本部へ戻ったら、検査を受けてください」
「命令するな」
「忠告です。無視するなら僕から報告します」
「抜け目のねえ野郎だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「帰るぞ」
「了解です、小夜ちゃん」
久世はもう一度、瀬尾の脛を蹴った。
◇
午前四時十二分。
特異事象対策室の庁舎は、夜明け前にもかかわらず明かりが点いていた。
表向きには、内閣府所管の災害調査関連施設。
建物の案内板にも、怪異や呪いといった文字は一つもない。
久世は検査室で採血や身体検査を受けた後、最上階の一室へ呼び出された。
厚い木製の扉を二度叩く。
「入りたまえ」
「失礼します」
部屋へ入ると、白髪の老人が机の向こうに座っていた。
榊原宗一郎。
特異事象対策室の室長であり、久世の直属の上司でもある。
六十代後半。
整えられた白髪と穏やかな目元。柔和な笑みを浮かべており、事情を知らなければ、人のよい大学教授にでも見えただろう。
実際には、複数の省庁と折衝し、機密予算を引き出し、失敗すれば組織ごと消されかねない部署を長年維持してきた男である。
温和な外見を、そのまま信じる者は室内にはいなかった。
「遅い時間までご苦労だったね」
「仕事ですので」
「座りたまえ」
「このままで結構です」
「そうかね」
榊原は机上の報告書へ目を落とした。
「旧鷺森隧道における異常存在は確認。発現条件は、都市伝説にある手順と概ね一致した」
「はい。ただし、声に反応せずとも干渉を受けました。既存の噂を安全手順として扱うべきではありません」
「対象の姿は?」
「確認できませんでした。音声と影による干渉のみです」
「瀬尾君の首には痕跡が残っていたそうだね」
「現在、医療班が検査しています。生命に別状はありません」
「君の手にも痕跡がある」
榊原の視線が、久世の右手へ向く。
「何が見えたのかね」
「瀬尾の影から、トンネルの奥へ伸びる黒い糸のようなものです」
「それに触れた?」
「触れなければ引き離せませんでした」
「相手から、何か感じたかね」
久世は僅かに眉を寄せた。
「感情のようなものを」
「具体的には?」
「喜んでいました。俺を――失礼。私を見つけたことを」
榊原の表情は変わらなかった。
ただ、机上で組まれていた指が微かに動く。
「君を、かね」
「そう感じただけです。断定はできません」
「変異後、君の感覚は以前よりも明らかに鋭くなっている。異常存在を視認し、時にはその感情まで読み取る。興味深い変化だ」
「便利だとお考えですか」
「便利であり、危険でもあると考えているよ」
「私は、まだ私です」
「そう判断しているからこそ、現場への復帰を認めている」
穏やかな口調だった。
しかし、許可という言葉には明確な意味がある。
久世は職員であると同時に、現在は調査対象でもある。
人格に異常が認められた場合。
身体に新たな変化が生じた場合。
あるいは、自分をこの姿へ変えた異常存在が、内側から現れた場合。
久世は再び隔離される。
「トンネルについては、両側の入口を封鎖するべきです」
久世は話を戻した。
「対象が坑外へ出ないのであれば、無理に捕獲する必要はありません。周辺道路は老朽化と落石の危険を理由に通行禁止。入口は物理的に塞ぎます。ただし、観測設備は残してください」
「封鎖後も継続観測を?」
「都市伝説が忘れられた場合、活動を停止するのか。それとも別の噂へ移るのか。確認が必要です」
「よろしい。自治体と県警には、こちらから話を通そう。明朝より封鎖作業を開始する」
「ありがとうございます」
榊原が報告書へ短く書き込み、ペンを置いた。
「ほかに報告は?」
「……一つ、質問があります」
「聞こう」
「私の身体について、何か分かったことはありませんか」
榊原はすぐには答えなかった。
報告書へ落としていた視線を、ゆっくりと久世へ戻す。
「残念ながら、目立った進展はない」
「数か月も調べているのに?」
「君が思っている以上に、調査は進めているよ。血液、骨格、内臓、遺伝情報、脳波、異常事象に対する反応。確認できるものは、一通り確認した」
「結果は」
「少なくとも、見た目だけが変わったわけではない」
分かりきった答えだった。
久世は舌打ちしそうになり、どうにか堪えた。
「骨格も内臓も、現在は十四歳前後の少女のものだ。血液や遺伝情報には、変異前の君との一致が認められる。しかし、完全に同一とも言い切れない」
「では、この身体は何なんです」
「それが分からないから調べている」
榊原は穏やかに答えた。
「人間の外見や、周囲からの認識を変化させる異常事例なら、過去にも記録がある。しかし、成人男性の肉体を骨格や内臓、生殖機能まで含めて少女のものへ作り替え、なおかつ元の人格と記憶を維持した例はない」
「私が初めてですか」
「少なくとも、我々の記録上ではね」
「私をこの姿にしたものについては?」
「所在不明。現場から消失したままだ」
「痕跡も?」
「採取されたものは、君の身体に残された反応だけだ。それも既存の分類とは一致していない」
久世は右手へ目を落とした。
細い指。
小さな掌。
数か月前までは、自分のものではなかった手。
「今日のあれは、私を知っているように感じました」
「その可能性は、報告書に記載しておこう」
「私を変えたものと、何か関係があると?」
「現段階では何とも言えない」
「いつもそれですね」
「分からないものを、分かったふりはできないのでね」
榊原は僅かに目を細めた。
「ただし、君を変えた存在が、今もどこかにいる可能性は高い。そして、君の現在の身体が何の目的で作られたのかも、まだ分かっていない」
「作られた?」
「自然に変化したのではなく、何らかの目的に適した形へ作り替えられた可能性がある、という意味だよ」
「……器か何かにされたと?」
「否定はできない」
榊原の声は、相変わらず穏やかだった。
「だからこそ、君を以前とまったく同じように扱うことはできない。理解してもらいたいね」
「理解はしています」
久世は低く答えた。
「納得していないだけです」
「君らしい答えだ」
話は終わった。
久世は一礼し、扉へ向かう。
「ああ、久世君」
背後から呼び止められた。
嫌な予感がした。
「何でしょうか」
「君の新しい身分についてだが、必要な手続きがすべて完了した」
数か月にわたり、国の複数部署が進めていた処理である。
任務中に行方不明となった、五十二歳の男性職員、久世征司。
その娘として新たに登録された、十四歳の少女、久世小夜。
存在しなかった母親。
存在しなかった出生記録。
存在しなかった幼少期。
国はそれらを一つずつ作り上げた。
「ご苦労をおかけしました」
「なに、前例がなかったため、多少時間はかかったがね。戸籍、住民票、保険、医療記録。日常生活に必要なものは一通り揃っている」
「それは何よりです」
「学籍も含めて」
久世は黙った。
「……学籍?」
「今日から君は、公的にも十四歳として扱われる」
榊原は机の脇から、分厚い茶封筒を取り出した。
「明日から、市立鷺ノ宮中学校へ通ってもらう」
久世は数秒、言葉の意味を理解できなかった。
「申し訳ありません。もう一度お願いします」
「明日の朝から、中学校へ登校したまえ」
「お断りします」
即答だった。
榊原は眉一つ動かさない。
「理由を聞いても?」
「必要性がありません。身分を用意するために学籍が必要だという話なら理解できます。しかし、実際に通学する必要はないでしょう」
「あるとも」
「ありません」
「戸籍上十四歳の少女が、平日の昼間から学校にも行かず、頻繁に成人男性と行動している。不審に思われない方がおかしい」
「施設で保護されていることにすればよいでしょう」
「児童相談所や学校関係者に踏み込まれる可能性がある。君の経歴は用意したが、実際の生活記録までは存在しない。今後その身分を維持するには、社会の中に久世小夜が実在したという痕跡を作る必要がある」
「現場任務に支障が出ます」
「放課後と休日がある」
「私は五十二歳です」
「久世征司君は五十二歳だった。久世小夜さんは十四歳だ」
「同一人物です」
「君の内面については否定していないよ。しかし、社会が目にするのは、そこに立っている少女の方だ」
榊原の声は、終始穏やかだった。
怒鳴りもしない。
威圧するように身を乗り出すこともない。
ただ一つずつ、久世の逃げ道を塞いでいく。
「私は、中学生として生活するつもりはありません」
「してもらう」
「学籍だけ置いてください」
「毎日通うことに意味がある」
「……誰が決めたんです」
「政府の決定だよ」
「毎日通えと決めたのは」
「私だ」
久世の目が据わった。
「楽しんでいませんか」
「まさか」
榊原は温和に微笑んだ。
「君はこれまで、あまりにも仕事一筋だった。家族も作らず、趣味らしい趣味もなく、休暇を与えても勝手に現場へ出た。せっかく若返ったんだ。第二の青春を楽しむよい機会だと思いたまえ」
「余計なお世話です」
「友人も作るとよい。部活動に励むのも悪くない」
「今ここで、一件ほど事件を起こしてもよろしいでしょうか」
「私を被害者にする相談なら許可しない」
榊原は茶封筒を机の端へ置いた。
「君の経歴、新しい住所、転校理由、家族構成、担任教師、時間割、校則。必要な情報はすべて入っている。登校までに目を通しておきたまえ」
榊原は、机の端に置いた封筒を軽く指で叩いた。
「それから、念のため言っておくが、学校では自分が久世征司本人だと明かしてはならない」
「言われなくとも、分かっています」
「君はあくまで、行方不明となった久世征司の娘――久世小夜として振る舞うこと」
「誰が好き好んで、中学生相手に自分は五十二歳の男だと話すんです」
「君は腹を立てると、余計なことまで口にするからね」
「そこまで頭に血が上るほど、子供ではありません」
「そう願っているよ」
久世は封筒を睨んだ。
受け取りたくない。
しかし、受け取らなければ話が終わらないことも分かっている。
渋々近づき、封筒を手に取った。
予想以上に重い。
「……承知しました」
「結構」
久世は踵を返した。
「ああ、もう一つ」
足が止まる。
今度こそ、ろくな話ではない。
「何でしょうか」
「今から喫煙は禁止です」
久世はゆっくり振り向いた。
「今、何とおっしゃいました?」
「煙草は禁止だと言ったんだ。酒も同様だよ」
「お断りします」
先ほど以上に速い即答だった。
「学校には通います。正体も明かしません。人前で吸うなという話なら理解できます。しかし、自宅や組織の施設内でまで禁じられる理由はないでしょう」
「あるとも」
「ありません」
「煙草や酒をどこから入手したのか問われれば、君だけでなく、購入に関わった者まで調べられる。正体秘匿上、不要な危険だ」
「誰にも見つからないようにします」
「君は命令違反の常習者だ。信用できない」
「現場での判断と生活上の嗜好を一緒にしないでください」
「それに、現在の君の身体がニコチンやアルコールをどのように処理するのかは、まだ完全には分かっていない」
「既に何度も吸っています。酒も飲みました。問題はありませんでした」
「これまで問題が確認されなかったことは、今後も問題が生じない証明にはならない」
「私は十四歳の少女ではありません」
「君が自分をどう認識しているかについて、否定するつもりはない」
榊原は静かに答えた。
「しかし、戸籍上の年齢も、周囲から見える姿も十四歳だ。君の正体を守るためには、それに即した生活をしてもらう必要がある」
「人目につかない場所で吸う分には、問題ないでしょう」
「いいえ。禁じます」
「それでも、お断りします」
久世は榊原を真正面から見た。
榊原は笑みを消さない。
声も変えない。
ただ、眼鏡の奥の目だけが僅かに細くなった。
「勘違いをしているようだね、久世君」
机の上で組んでいた指を、ゆっくりと解く。
「これはお願いではありません」
室内の空気が重くなった。
「決定事項と、それに伴う命令を伝えているんですよ」
久世は何も答えなかった。
この男が丁寧に話しているうちは、まだいい。
声を荒らげる必要すらないほど、既に話が決まっているということだからだ。
「異議を申し立てることは可能でしょうか」
「もちろんだとも。所定の書類を提出したまえ。審議結果が出るまでは、現行の命令に従ってもらうがね」
最初から、逃げ道などない。
久世は奥歯を噛み締めた。
「……承知しました」
「よい返事だ」
「失礼します」
今度こそ扉を開ける。
音を立てないよう、静かに閉めた。
廊下を三歩進む。
五歩。
十歩。
久世は手にした封筒を握り締め、低く吐き捨てた。
「あのクソ狸……学校だけじゃ飽き足らず、酒と煙草まで取り上げやがって」
「聞こえていますよ」
閉じた扉の向こうから、穏やかな声がした。
久世の足が止まる。
数秒後。
「地獄に落ちろ、クソ野郎!」
そう叫び、久世は廊下を荒々しく歩き去った。
その腕に抱えられた封筒の隙間から、一枚の紙が覗いている。
そこには、丁寧な活字でこう記されていた。
――中学生として自然に振る舞うための注意事項。
第一項。
教師および同級生に対し、暴言や脅迫を行わないこと。
久世がその一文を読むのは、もう少し後のことだった。




