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第4話 迎えの男

 体操服姿のまま教室へ戻ると、久世へ一斉に視線が集まった。

 先ほどの体力測定で十分すぎるほど注目されたばかりだというのに、今度は制服を着ずに戻ってきたのだ。

 教室のあちこちから、小さな囁き声が聞こえてくる。


「何で体操服のままなの?」


「制服、どうしたんだろ」


「着替えなかったのかな」


 久世はそれらを無視し、自分の席へ向かった。

 次の授業を担当する教師はまだ来ていない。教室内では、体育を終えた生徒たちがそれぞれの席へ戻り、教科書やノートを準備しているところだった。


 久世は通学鞄を机の横へ掛けると、教室の中央へ目を向けた。

 華やかな雰囲気をまとった少女が、二人の女子生徒と机を囲んでいる。

 三人とも、久世の体操服姿を見ていた。


 取り巻きの一人が、何かを堪えるように口元へ手を当てる。もう一人は久世と目が合うなり、わざとらしく顔を背けた。

 中心にいる少女だけは、堂々と久世を見返している。

 先ほど更衣室の前で見せたものと同じ、満足そうな目だった。


 久世は小さく息を吐き、三人のもとへ歩いていった。

 周囲の生徒たちが、それとなくこちらへ注意を向ける。


 三人の机の前まで来ると、久世は中心の少女を見下ろした。


「俺の制服、どこへやった」


 教室内のざわめきが、わずかに小さくなった。

 少女は一度目を瞬かせたあと、何を言われているのか分からないという顔を作った。


「何の話?」


「更衣室に置いてた制服だ。お前らが持っていったんだろ」


「勝手に決めつけないでくれる?」


 少女は眉をひそめ、心外だと言わんばかりに首を傾げた。


「私たち、何も知らないけど」


「そうそう。証拠もないのに、人を泥棒みたいに言うのやめなよ」


「自分でどこかに置き忘れたんじゃない?」


 取り巻きの二人が、口々に同調する。

 久世は黙ったまま、三人の顔を順番に見た。

 視線の動き。

 口元に浮かぶ笑い。

 わずかに上ずった声。


 長年、現場で容疑者や関係者の話を聞いてきた。これほど分かりやすく嘘をつく人間も珍しい。

 三人が関わっているのは、ほぼ間違いなかった。


「知らないって言ってるでしょ」


 中心の少女が、挑発するように久世を見上げた。


「それとも、私たちの鞄でも勝手に調べるつもり?」


 久世は三人の後ろに並ぶ鞄へ目を向けた。

 その中に制服が入っているとは限らない。既に別の場所へ隠している可能性の方が高い。

 強引に吐かせるだけなら簡単だった。

 一人ずつ人目のない場所へ連れていき、逃げられないよう壁際へ追い込む。少し脅せば、すぐに誰かが口を割るだろう。


 いっそのこと、一発ずつ殴った方が早い。

 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。

 だが、相手は中学生だ。

 久世が手を出せば、教師が呼ばれる。保護者代理の高城にも連絡が入り、対策室へ報告される。

 下手をすれば警察まで関わり、久世小夜という偽装経歴を詳しく調べられかねない。

 制服一着のために起こす騒ぎとしては、あまりにも割に合わない。


「……もういい」


 久世が言うと、三人の表情がわずかに変わった。


「は?」


「知らねえなら、それでいい」


 久世は踵を返した。

 中心の少女が、慌てたように声を上げる。


「ちょっと待ちなさいよ」


 久世は足を止め、顔だけを振り返らせた。


「何だ」


「何、その態度。人を疑っておいて、謝りもしないの?」


「お前らがやったと思ってるのは変わってねえよ」


「だから、やってないって言ってるでしょ!」


「なら話は終わりだ」


 久世は面倒そうに答えた。


「制服なら、また用意させれば済む」


「……用意させる?」


「ああ」


 家には、対策室が用意した予備の制服がまだ何着かある。

 一着なくなったところで、久世が困ることはない。

 仮にすべて駄目になったとしても、榊原へ言えば新しいものを用意するだろう。多少の小言は言われるかもしれないが、偽装生活に必要な経費なのだから仕方がない。


「お前らに構ってる時間がもったいねえ」


 それだけ告げ、久世は自分の席へ戻った。

 後ろから何か言われるかと思ったが、三人は黙っている。


 久世が振り返らなかったため、その顔を見ることはなかった。

 中心の少女は、唇を引き結んだまま久世の背中を睨んでいた。

 困らせるつもりだった。


 恥ずかしがらせ、泣かせるか、怒らせるつもりだった。

 しかし久世は、制服を隠されたことを大した問題だとすら考えていない。

 自分たちのしたことが、まるで何の意味もなかったように扱われた。

 そのことが、少女には何より面白くなかった。


 ◇


 ほどなくして教師が教室へ入ってきた。

 教壇へ向かいかけた教師は、体操服姿で座っている久世に気づき、足を止めた。


「久世。どうして着替えていないんだ?」


「制服がなくなった」


「なくなった?」


「更衣室に置いておいたら、消えてた」


 教室内がざわつく。

 教師は困惑した様子で、久世と周囲の生徒たちを見比べた。


「誰かが間違えて持っていったのか?」


「さあな」


「更衣室は確認したのか?」


「ああ。どこにもなかった」


「誰か、心当たりのある者はいないか?」


 教師が教室全体へ問いかけた。

 返事をする者はいない。

 久世は机へ頬杖をつき、窓の外へ目を向けた。

 教室の中央にいる三人も、何も知らないという顔で座っている。


「分かった。先生の方でも確認しておく。久世は今日のところ、その格好で授業を受けなさい」


「ああ」


「それと、後で詳しい状況を聞かせてもらうからな」


「面倒だな」


「なくなったままにはできないだろう」


「予備があるから問題ねえよ」


「そういう問題じゃないだろう」


 教師が額へ手を当てる。


「とにかく、授業を始める。教科書を開きなさい」


 生徒たちが一斉に机へ向き直った。

 久世も教科書を取り出したが、授業へ集中する気にはなれなかった。

 制服を誰が持ち出したかは分かっている。

 だが、証拠はない。


 教師へ三人の名前を告げれば、事情聴取や持ち物の確認が始まるのだろう。

 その間、久世まで呼び出され、何度も同じ説明をさせられる。

 考えただけでうんざりした。


 怪異であれば、発現条件を調べればよい。

 触れてはいけない。

 返事をしてはいけない。

 特定の場所へ入ってはいけない。

 ルールが分かれば、取るべき行動も決まる。

 しかし、人間はそうではない。


 くだらない感情で動き、何の意味もない行動を繰り返す。

 久世にとっては、怪異よりもよほど理解し難い相手だった。


 ◇


 授業が終わり、休み時間になった。

 教師が教室を出ていくと、生徒たちは席を立ち、それぞれ友人のもとへ集まっていく。

 久世は机へ突っ伏し、目を閉じた。


 体力測定で多少身体を動かした程度では疲れていない。単に、授業を受け続けることが面倒だった。

 眠ってしまおうかと考えた時、短パンのポケットに入れていた端末が震えた。

 久世は顔を上げ、端末を取り出した。

 画面には、瀬尾の名前が表示されている。


「……何だ」


 通話へ出ると、すぐに瀬尾の声が返ってきた。


『お取り込み中でした?』


「見りゃ分かるだろ」


『電話越しでは見えませんよ』


「なら余計なことを聞くな」


 近くにいた生徒が、久世の声に反応してこちらを見る。


 学校では端末の持ち込みが原則禁止されている。久世だけは家庭の事情を理由に特例を認められているが、詳しい事情を知る生徒はいない。


『相変わらず機嫌が悪そうですね』


「用件を言え」


『仕事が入りました』


 その一言で、久世の表情がわずかに変わった。


 先ほどまでの気怠さが消える。


「場所は?」


『車で説明します。これから迎えに行きますので、同行してもらえますか?』


「分かった」


『ずいぶん素直ですね』


「お前の軽口に付き合うために出るんじゃねえ」


『では、二十分ほどで学校へ着きます。こちらからも学校へ連絡しておきますよ』


「ああ」


『それでは、小夜ちゃん』


 瀬尾が、わざとらしく名前を呼んだ。

 学校にいる以上、久世さんと呼べないことは理解しているが、「ちゃん」まで付ける必要はない。

 余計に腹が立つ。


「次にそう呼んだら殴る」


『学校ではその名前なんですから、慣れてください』


 久世が言い返す前に、通話が切れた。


「クソ野郎が」


 小さく吐き捨て、端末をポケットへ戻す。

 近くの席にいた眼鏡の少女が、遠慮がちに久世へ声をかけた。


「今の、家の人?」


「仕事仲間だ」


「仕事?」


 少女が不思議そうに首を傾げる。

 久世は、自分が十四歳の中学生という設定だったことを思い出した。


「……親の知り合いだ」


「そうなんだ」


 少女はまだ何か聞きたそうだったが、久世は席を立った。

 これ以上話していれば、余計なことを口にしかねない。

 通学鞄へ教科書を押し込み、そのまま職員室へ向かった。


 ◇


 担任は職員室の自席にいた。


「久世です」


 声をかけると、担任が書類から顔を上げる。


「どうした?」


「迎えが来る。今日は早退する」


「迎え?」


「瀬尾って奴だ」


 担任は机の上に置かれた内線電話へ目を向けた。


「先ほど学校へ連絡があった。事前に登録されている方で間違いないな?」


「ああ」


「事情については、家庭の都合で詳しく説明できないと聞いている。ただし、学校としても、誰が迎えに来たか確認する必要がある」


「好きにしてくれ」


「久世」


「……お願いします」


 担任は苦笑した。


「それから、制服の件だ。更衣室と周辺は確認しておく。何か分かれば連絡する」


「見つからなくてもいい。予備がある」


「君がよくても、学校としては放置できないんだ」


「面倒だな」


「そういう問題を起こした者がいるなら、見過ごすわけにはいかない」


 担任は厳しい表情で答えた。

 少なくとも、制服がなくなったことを久世の自己責任として片づけるつもりはないらしい。

 久世はわずかに眉を上げた。


「分かった。好きにしてくれ」


「そうさせてもらう。それと、その格好で帰るのか?」


 担任が久世の体操服へ視線を落とした。


「ほかに着る物がねえ」


「学校指定のジャージを貸そうか?」


「いらねえ。この方が動きやすい」


「しかしな……」


「迎えの車に乗るだけだ。問題ねえだろ」


 担任は何か言いたそうだったが、結局諦めたように息を吐いた。


「分かった。迎えの方が到着したら、職員室へ連絡するように伝えてある。それまではここで待ちなさい」


「校門まで行く」


「一人で勝手に帰すわけにはいかない」


「逃げねえよ」


「そういう意味ではない」


 担任が頭を抱えそうな顔をする。

 久世は仕方なく、職員室の隅に置かれた来客用の椅子へ腰を下ろした。

 子供扱いされるたびに腹が立つ。


 しかし、現在の自分が学校側から十四歳の少女として扱われている以上、教師の対応が間違っていないことも理解していた。

 理解できることと、納得できることは別だった。


 数分後、職員室の電話が鳴った。

 担任が応対し、短く言葉を交わす。


「瀬尾さんが到着したそうだ。校門で待っているらしい」


「なら行くぞ」


「先生も途中まで一緒に行く」


「必要ねえ」


「必要がある」


 久世は舌打ちし、通学鞄を肩へ掛けた。


 ◇


 校舎を出ると、校庭では体育の授業を受けている別の学年の生徒たちが走っていた。

 校舎の窓から外を眺めている生徒もいる。


 久世が体操服姿で担任と一緒に歩いているのを見つけ、何人かがこちらを指差した。

 転校初日に体操服姿で早退する生徒など、珍しいのだろう。


「目立つな……」


「何か言ったか?」


「何でもねえ」


 校門へ近づくにつれ、さらに多くの視線が集まっていることに気づいた。

 原因は、久世だけではなかった。

 校門の外に、黒い車が停まっている。

 その横に、濃い色のスーツを着た男が立っていた。

 瀬尾だった。


 長身で、整った顔立ちをしている。表情も柔らかく、初対面の人間へ警戒心を抱かせない雰囲気がある。


 本人はいつもどおり立っているだけだが、中学生たちの中では明らかに目立っていた。

 校庭にいた女子生徒たちが、小声で騒いでいる。


「誰、あの人?」


「めちゃくちゃ格好よくない?」


「誰かのお兄さんかな」


「芸能人とかじゃないよね?」


 校舎の窓からも、何人もの生徒がこちらを見下ろしている。

 久世は顔をしかめた。

 瀬尾は久世を見つけると、軽く片手を上げた。


「お疲れさまです。迎えに来ましたよ」


「目立つところに立つな」


 久世は開口一番そう言った。


「車の中で待っていたら、学校の方に失礼でしょう」


「余計な気を使うな」


「迎えに来た人間が、車から出もしない方が問題ですよ」


 瀬尾は微笑んだまま、久世の横に立つ担任へ向き直った。


「初めまして。瀬尾と申します」


「担任の吉村です。学校へも連絡をいただいております」


 瀬尾は身分を示すために、学校へ事前登録されている偽装用の証明書を差し出した。

 担任は記載内容を確認し、瀬尾へ返す。


「本日は家庭の事情による早退と伺っています。詳しい事情については、家庭の都合で説明できないとも聞いております」


「ご配慮いただき、ありがとうございます」


 瀬尾の受け答えは丁寧だった。

 久世に対する軽い態度とはまるで違う。

 担任も、礼儀正しく落ち着いた瀬尾を見て、ひとまず安心したようだった。


「制服が見当たらなくなったようで、現在確認をしています」


 担任が言うと、瀬尾が久世へ目を向けた。

 体操服姿を上から下まで眺め、わずかに口元を緩める。


「なるほど。それで、そういう格好だったんですね」


「笑ったら殺すぞ」


「笑ってませんよ」


「顔が笑ってる」


「気のせいです」


 担任が困ったように二人を見る。


「ずいぶん親しいんですね」


「父親の仕事仲間でしたので」


 瀬尾が滑らかに答えた。


「小夜さんとは以前から何度か顔を合わせています」


「そうでしたか」


「小夜さんは口が悪いですが、悪い子ではありませんので」


「誰が悪い子だ」


「ほら、そういうところですよ」


 瀬尾が笑う。

 久世は本気で脛を蹴ってやろうかと考えたが、担任と大勢の生徒が見ているため思いとどまった。


「それでは、久世さんをお預かりします」


「よろしくお願いします。久世、次に登校した時に制服の件を確認するからな」


「ああ」


「返事は、はい」


「……はい」


 久世が嫌々答えると、担任はようやく頷いた。

 瀬尾が助手席の扉を開ける。


「どうぞ」


「自分で開けられる」


「知っていますよ。迎えに来た者としての礼儀です」


「余計に目立つだろうが」


 周囲から、さらに小さな歓声が上がった。

 久世は振り返らなかった。

 だが、校舎の二階にある教室の窓から、制服を隠した三人がこちらを見ていることには気づいていた。

 取り巻きの一人が、窓へ身を寄せて目を輝かせている。


「何あの人。すごく格好よくない?」


「久世の知り合いなの?」


「お兄さん……ではないよね」


 中心の少女は何も言わなかった。

 瀬尾と親しそうに言葉を交わし、当然のように黒い車へ乗り込む久世を、黙って見つめている。

 久世は学校で孤立している。


 誰からも好かれず、家庭にも問題を抱え、頼れる相手などいない。

 少女は、勝手にそう思い込んでいた。

 ところが実際には、あれほど目立つ大人の男が迎えに来る。

 しかも久世は、相手へ遠慮する様子もない。むしろ不機嫌そうに命令し、それを男も当然のように受け入れている。


 自分たちが制服を隠し、恥をかかせたつもりでいた。

 だが、久世は何事もなかったように学校を出て、あの男と共に去っていく。

 自分たちだけが久世を意識し、久世の方は自分たちなど眼中にもない。

 その事実が、少女にはたまらなく不愉快だった。


「……何なの、あの子」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 ◇


 車が学校を離れる。

 校舎が後方へ遠ざかったところで、久世は深く座席へ身体を沈めた。


「何で校門の前に立ってやがった」


「迎えに来たからですよ」


「車の中で待ってろ」


「先ほども言いましたが、学校側への印象というものがあります」


「お前のせいで余計に目立っただろうが」


「僕のせいですか?」


「ほかに誰がいる」


 瀬尾はルームミラー越しに、久世の体操服姿を見た。


「それより、その格好はどうしたんです?」


「制服を盗まれた」


「転校初日からですか?」


「ああ」


「人気者ですねえ」


「次に言ったら殴る」


「学校では問題を起こさないでくださいよ。今の久世さんには、警察を黙らせる権限もありませんから」


「分かってる」


「制服は予備がありますよね」


「ある」


「なら、ひとまず問題ありませんか」


「俺はそう言ったんだが、教師は問題だと言ってた」


「学校としては当然でしょう」


「面倒くせえ」


「転校初日から、何をやったら制服を盗まれるんですか?」


「用もなく話しかけるなと言っただけだ」


「それを喧嘩を売ったと言うんですよ」


 久世は窓の外へ顔を向けた。

 反論するのも面倒だった。

 車は住宅街を抜け、大通りへ入っていく。

 しばらく走ったところで、瀬尾から軽い調子が消えた。


「それでは、仕事の話をします」


「ああ」


 久世も姿勢を起こした。

 先ほどまでの不機嫌な中学生の表情が消え、現場へ向かう調査員の顔へ戻る。

 瀬尾は信号待ちの間に、後部座席へ手を伸ばした。

 薄いファイルを取り、助手席の久世へ差し出す。


「第三種特異事象として管理されていた対象です」


 久世はファイルを受け取り、表紙へ目を落とした。

 記載されているのは、郊外にある古い廃屋の住所。

 その下には、管理対象の種別が記されている。


「樹木型?」


「ええ。木そのものが特異事象と判断されています」


 久世はファイルを開いた。

 最初の頁には、古い屋敷の裏庭に生えた巨大な樹木の写真が載っている。


 太い幹。

 幾重にも広がる枝。

 周囲は高い柵と有刺鉄線で囲われていた。


「百年ほど前から封鎖されている対象です」


「発現条件は?」


「木へ登ること」


 瀬尾は前を向いたまま答える。


「一度登り始めた者は、自分の意思では降りられません。そのまま上へ登り続け、最後には落下します」


「死亡率は」


「百パーセントです」


 久世が頁をめくる。

 過去の被害記録が並んでいた。

 転落による頭部損傷。

 頸椎骨折。

 全身打撲。

 中には、低い枝から落下し、目立った外傷がなかったにもかかわらず死亡した者もいる。


「落ち方は関係ねえのか」


「そのようです。過去に救助された事例もありますが、全員が間もなく死亡しています」


「原因は?」


「不明です」


 久世は資料へ目を落としたまま、次の頁をめくった。


「百年間、問題は起きてなかったんだろ」


「正確には、封鎖後に被害は確認されていませんでした。登らなければ何も起きない。そう判断され、年に一度の定期調査だけが続けられていました」


「それが変わったのか」


 瀬尾は短く頷いた。


「この五日間で、三人が死亡しています」


 久世の指が止まった。


「全員、その木に登ったのか」


「はい」


「柵を越えて?」


「最初の二人については、そう見られています。封鎖設備の一部に、人が通れる程度の破損がありました」


「三人目は?」


 信号が青へ変わる。

 瀬尾は車を発進させ、しばらく黙っていた。


「三人目は、現場へ配置していた監視員です」


 久世が顔を上げる。


「そいつはルールを知ってたんだろ」


「当然です」


「なのに登った」


「監視カメラにも残っています」


 瀬尾の声から、完全に軽さが消えていた。


「監視員は、自分から木へ近づいています。誰かに追われた様子も、強制された様子もありません。ごく普通に歩き、木へ手をかけ、そのまま登り始めました」


「止める奴はいなかったのか」


「当時の監視は一名体制でした。交代要員が到着した時には、既に木のそばで死亡していたそうです」


 久世は再び、資料に掲載された木の写真へ目を落とした。

 登った者を殺す木。

 それだけなら、封鎖しておけばいい。

 百年間、実際にそれで被害を防げていた。

 だが今は、危険性を理解している人間まで、自ら登っている。

 従来のルールでは説明できない。


「第三種のままじゃねえだろ」


「現在は暫定的に第四種へ変更されています」


「原因の見当は?」


「ありません。現場を調べてみなければ何とも」


 瀬尾は前方を見たまま答えた。


「久世さんに同行を頼んだのは、そのためです」


「俺の感覚を当てにしてるのか」


「ええ」


「便利に使いやがって」


「学校の授業よりは楽しいでしょう?」


 久世は資料を閉じた。


「比べるまでもねえ」


 車は市街地を離れ、郊外へ向かって走り続ける。

 ファイルの表紙には、管理対象の仮称が記されていた。


 ――樹木型特異事象、通称『昇り木』。


 百年間、沈黙していたはずの木。

 それが今になって、再び人を殺し始めた。

 久世は窓の外を流れる景色を見つめながら、無意識に目を細めた。


第三種特異事象

第三種特異事象は、死亡、重傷、恒久的な身体機能の喪失又は回復困難な精神的被害を生じさせる可能性があるものの、発現条件又は回避方法が判明しており、適切な管理措置によって被害を防止できるものとする。


第四種特異事象

第四種特異事象は、多数の者に被害を及ぼす可能性があるもの、影響範囲が拡大しているもの又は従来の管理方法による被害防止が困難となったものとする。

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