06.世界一幸せに
セライナの言葉を皮切りに、教室の片隅に着衣を乱され組み敷かれた公爵令息を放置したまま、女達の対決が始まった。
「単刀直入に伺うわ」
口火を切ったのは、セライナだった。
「貴女達は先日まで、わたくしと仲良くしてくださっていた。それが今では、揃いも揃ってそちらに転がっている殿方の……なんと言ったかしら? ああ、そう。“特別”、ですって?」
セライナの言葉に、ぴくり、と床の上のエミリオの肩が跳ねる。
「あんなに慕ってくださっていたわたくしを見限った理由くらい、直接聞かせていただいてもバチは当たらないでしょう。——さあ、どうぞ?」
令嬢達は互いに顔を見合わせ、それから、まずメアリーが口を開いた。
「……エミリオ様が、おっしゃったのです。私だけが、特別だと」
「私にも、特別だと」
「私にだって、特別だとおっしゃいましたわ」
一人、また一人と、声が重なっていく。
そして令嬢達は、まるで示し合わせたかのように——実際、示し合わせていたのだが——声を揃えていった。
“宝石のようにきらめく瞳に、生まれて初めてこんなにも恋焦がれた”、と。
しん、と教室が静まり返った。
床の上のエミリオの顔色が、白から土気色へと、見事なまでに塗り変わっていく。
「ち、違……これは、その……」
「あら、素敵な口説き文句。……ちなみにそれ、ハンス・オイラーの詩集の十ページの一節ね」
セライナはにっこりと微笑んだ。
「何故ページ数まで分かるのか、不思議かしら? 当然よ。その詩集をエミリオに贈ったのは、他ならぬわたくしなんですもの」
「っ……!」
「わたくしが十三の誕生日に贈った詩集で、片っ端からご令嬢を口説いていらしたのね。そんなに愛用していただけてたなんて嬉しくて、涙が出そうだわ」
そして、とどめとばかりに、令嬢たちの後ろから、小柄な人影が進み出た。
「……エミリオ様。少々手違いがあったようですが、お手紙のお返事、確かに頂戴いたしました」
エリサ・ミュラーは震える声で、しかしその場にいる全員にしっかりと聞こえるように、一通の手紙を読み上げた。
“愛しいエリサ。僕も君との夜を忘れたことは、一日たりともなかった”——
「エ、エリサ、君まで……」
「ちなみにその結びに添えられていた詩は、最終ページの一節よ。恋の成就を詠った、わたくしが一番好きだった詩」
セライナの声が、一段低くなった。
「——よりにもよって」
その時である。
それまでエミリオを押さえつけていた大男が、のそりと身を起こした。
そしてエミリオに触れたことで付着した汚れを落とすかのように、ぱっぱっと体を払うと、未だ床の上に転がっている男を心底軽蔑しきった目で見下ろした。
「……お前、最低だな」
皮肉なことに、この夜の大男のセリフの中で、それだけが唯一棒読みではなかった。
大男は興が削がれたと言わんばかりに踵を返すと、窓枠に手をかけ、その巨体に見合わぬ身軽さで夜の闇へと消えていった。
「あっ……」
エミリオは自由になった体を起こしもせず、とっくに見えなくなった背中を、呆然と見送った。
助かった。助かった、はずである。
それなのに、襲ってきた不審者にすら軽蔑の目を向けられ、見放されたという事実が、なんとも言えない痛みを胸に残した。
「さて」
セライナの声が、エミリオを現実へと引き戻す。
見上げれば、セライナと六人の令嬢が、いつの間にか自分を取り囲んでいた。
「は、謀ったのか……最初から、全部……! あの男も、エリサの手紙も、彼女たちも、セライナが……!」
「あら、人聞きの悪い」
セライナは目だけは凍りついたまま、口元だけでそれはそれは優雅に微笑んでみせた。
「わたくしは今夜、彼女たちと話し合いの約束をしていて、たまたま部屋が被っただけよ。そもそもこの話し合いは、あなたが原因であることを、お忘れなく」
「じゃ、じゃあ……あの大男は!? あれは君の差し金だろう!!」
「存じ上げないわ、あんな殿方。……それに、考えてもごらんなさい」
セライナは開いたままの窓に、ちらりと視線を向けた。
「わたくしに雇われたのだとしたら、雇い主の目の前で、未遂のままあなたに愛想を尽かして帰るかしら?」
「うっ……」
反論できなかった。
なにしろ、あの軽蔑の眼差しと捨て台詞は、どこからどう見ても本物であったからだ。
「さて、エミリオ・ホフマン。取引をいたしましょう」
「と、取引……?」
「跪いて、ここにいる全員に誠心誠意謝罪なさい。使い回しの嘘で乙女の純情を踏みにじったことを。そうすれば、今夜あなたが少女のように襲われたことは誰にも言わないし、あなたの悪行も表沙汰にはしないわ」
「……じ、次期ホフマン公爵である僕が、そんなこと、できるわけ——」
「あら、次期公爵ともあろうものが、婚約者のいる複数のご令嬢に手を出していたとなったら、流石のおじさまも黙ってないと思うけど?」
セライナの一言に、エミリオは直ちに全面降伏をした。
「——します! 謝罪させていただきますっ!」
かくしてエミリオ・ホフマンは、ランプの薄明かりの中教室の床に膝をつき、セライナと六人の令嬢に向かって、一人ずつ頭を下げた。
途中途中でセライナたちが「あら、大きな人影が……」と言うたびにひどく怯え、最後の方は涙と鼻水で言葉になっていなかったが。
「……行きましょうか、皆様」
すべてが終わると、セライナは何事もなかったかのように踵を返した。
かつて愛した純粋で不器用だった男は、もうどこにもいない。
しかし、それを惜しむ気持ちは、もうどこを探しても見つからなかった。
「それにしても、あんな男のどこが良かったのかしら」
「本当に。目を覚させていただいて、感謝しますわ」
「そういえば、先ほどの殿方とは、どういうご関係でしたのかしら?」
「あら、詮索は野暮よ。……それにしても、逢瀬の際にあげた声が廊下まで聞こえていましてよ」
「まあ、はしたない!」
思い思いにエミリオに追い討ちをかけながら退出していく令嬢達。
その最後尾で、エリサが一人、もじもじとしながら立ち止まっていた。
輪に入っていいものなのか、決めかねているらしい。
セライナは振り返り、腰に手を当てた。
「何をしているの、エリサ。早くいらっしゃい」
「え……で、でも、私は……」
「デボラにとっておきのシャンパンを用意させているのよ。ぐずぐずしていると、先に飲んでしまうわよ」
当然のように自分を迎え入れてくれるセライナに、エリサの顔がぱあっと輝いた。
「は、はいっ!」
子犬のように駆け寄ってくるエリサを横目に、セライナは薄く笑って教室を後にした。
背後の床では、プライドをへし折られた元婚約者がまだ、ぐずぐずと啜り泣いていたけれど、知ったことではない。
百年の恋を冷ましてしまったのは、他ならぬこの男なのだから。
◇◇◇
その夜、セライナの部屋では、ささやかな祝勝会が開かれた。
デボラが手際よく開けたシャンパンが、七つのグラスに注がれていく。
グラスの底から絶え間なく立ち上る繊細な泡を、皆でエミリオの醜態を肴にして上機嫌に楽しんでいた時。
セライナの隣にやってきたエリサが、もじもじと口を開いた。
「あの……セライナ様」
「何かしら」
「その……許してくださって、本当に、ありがとうございました。私、一生かけても償えないと思っていたから……今夜、皆様と一緒に乾杯までさせていただけて、その……」
ついに涙が堪えられなくなり、言葉に詰まるエリサを、セライナはきょとんと見つめ——それから、シャンパンを一口飲んでから嫣然と微笑んだ。
「あら、誰が許すなんて言ったかしら?」
「……え?」
「勘違いしないでちょうだい。貴女への試験が終わっただけで、償いはこれからよ。貴女にはこの先も、わたくしの手駒としてきっちり働いてもらうわ。——それこそ、一生をかけて、ね」
女王様然と言い放つセライナを、エリサはしばらくの間ぽかんと見つめていた。
それから、泣き笑いのような顔で、深々と頭を下げた。
「はいっ……! 喜んで!」
◇◇◇
最後に、後日談を少しだけ。
エミリオの悪い遊びについては、約束通り表沙汰にはならなかった。
ただし、“表沙汰にしない”と、“泣き寝入りする”は、まったくの別ものである。
後日、被害に遭った令嬢とその親達は、揃ってホフマン公爵家の門を叩いた。
社交界に醜聞を流すのではなく、当主に直接、すべてを暴露したのだ。
一件や二件ならもみ消すことも可能だったが、数が数だけに、ホフマン公爵は厳正に対処すると約束せざるを得なかった。
かくしてエミリオ・ホフマンは廃嫡。
学院からも、いつの間にか姿を消していた。
なお、時を同じくして、エングルベルト侯爵家のとある料理人に、破格の臨時手当が支払われたそうだが——それはまた、別のお話である。
「お嬢様、旦那様からお手紙でございます」
デボラが差し出した封筒には、見慣れた父の字が綴られていた。
いわく——件の、誠実さに定評のある王太子殿下との茶会の約束が、正式に整った。
時期は、殿下が視察にいらっしゃる今冬。心して備えなさい、我が自慢の娘よ。
セライナは手紙を胸に抱くと、机の上に積まれたヴィンターハルト語の教本の山と、三冊目に突入したノートを見やった。
そして窓の外に目を向けると、そこには抜けるような青空が広がっている。
あの男の瞳よりも、ずっと澄んだ青だった。
「見ていらっしゃい」
誰にともなく、セライナは宣言した。
「わたくしは、わたくしに相応しい本物の王子様と、世界一幸せになってみせるわ!」
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