05.ホフマン公爵家嫡男の受難
その夜、エミリオ・ホフマンは、すこぶる機嫌が良かった。
今夜は新月。
人目を忍ぶには絶好の夜である。
消灯後の校舎に忍び込む足取りは軽く、鼻歌まで飛び出す始末だった。
なにしろ、今夜の相手はあのエリサ・ミュラーだ。
未来の公爵夫人探しという名の遊びは楽しいが、やはり初めての相手というのは、男にとっても特別なものらしい。
あの夜のことが忘れられない、と言われて悪い気はしなかった。
指定された空き教室の扉に、鍵はかかっていなかった。
物置として使用されているらしく、中には雑然と荷物が置かれている。
なるほど、これなら入り口からの死角でことに及べば、万が一誰かが来ても問題ないというわけか。
エミリオは一人納得すると、薄暗い教室に向かって呼びかけた。
「エリサ? ……いるんだろう、僕だよ」
すると、教室の奥の、まさに死角から小さな物音が返ってきた。
それを返事と受け取ったエミリオは、はやる気持ちを抑えられずに、足早に向かっていく。
「見つけた!」
結論から言うと、物陰には、確かに人がいた。
しかしそれは可憐な男爵令嬢——ではなく、荷物の間に窮屈そうに収まった、二メートル近い山のような大男であった。
「……は?」
エミリオの間の抜けた声が、静かな教室に響く。
「え、あの、すみません……人違い、をしたみたいで……僕は、その、ここで人と待ち合わせを」
「なんだ、男か」
大男はのっそりと立ち上がり、首をゴキリと鳴らして言った。
「……まあ、いいか」
「いいか!? 何がいいんだ!?」
じり、と大男が距離を詰め、エミリオがジリジリと後ずさる。
その背中はあっけなく教室の壁にぶつかって、止まった。
「ま、待て、待ってくれ! 僕を誰だと思っている!? ホフマン公爵家の嫡男だぞ!」
「お前、なかなか、か、可愛い……顔を、してるナ」
「カタコト!? というか近い近い近い——」
丸太のような腕が、エミリオの頭のすぐ横の壁に、ドン! と突き立てられた。
抑えきれない怒りが腕にこもっていたからか、これほど生命の危機を感じる壁ドンもなかなかない。
もう片方の手が上等な上着の襟を掴み、勢いよくボタンが宙を舞う。
「ひっ……ひぃっ!? た、助け——」
「騒ぐな。すぐ済む」
「済まされてたまるか!!」
情けない悲鳴をあげ、床に押し倒され、上着を半分剥ぎ取られながら、公爵家の嫡男は必死にジタバタともがいた。
日頃令嬢たちに向けている余裕たっぷりの微笑みは、もはや見る影もない。
残念ながら大男の演技は絶望的に下手くそであったが、その全身から醸し出される迫力がすべてを解決していた。
そのため、エミリオは自分が貞操の危機にあることを信じて疑わず、心の底から怯え切っている。
「だ、誰か! 誰かいないのか! 助けてくれっ!」
その時、必死の願いが通じたかのように、教室の扉がゆっくりと開いた。
ランプの明かりに浮かび上がったのは、見慣れた侯爵令嬢の姿。
「セ……セライナ! た、助けてくれ!!」
床に組み敷かれたまま、エミリオの顔にパッと安堵が広がる。
一方セライナは、教室の手前で立ち止まったまま、室内に広がる光景——大男に押さえ込まれた、着衣に乱れのある元婚約者——を、頭のてっぺんからつま先まで、たっぷり時間をかけて眺めた。
「……あら」
そして、心底気まずそうに目を逸らした。
「ごめんなさい。お楽しみのところを、お邪魔してしまったみたいで」
「楽しんでない! どこをどう見たらそう見えるんだ!?」
「あら、だって」
セライナは冷たい眼差しで、エミリオの乱れた上半身に向けた。
「人目を忍ぶ夜の教室で、殿方が二人。片方は上着を脱いで、片方はそれを組み敷いて……情熱的な逢瀬以外に、普通、こんなことあり得ないでしょう?」
「脱がされたんだ! 不同意だってことくらい、見れば分かるだろう!? いいから助けて——」
「お断りするわ」
にっこりと、セライナは微笑んだ。
「か弱い乙女に、一体何を期待しているのかしら? ——それに、不同意ならちょうど良いじゃない。あなたも少しは、乙女の痛みを知るべきよ」
「ちょうど良いわけあるか!」
「ああ、心配しなくても大丈夫よ。なんなら、誰にも見られないように廊下を見張っていて差し上げましょうか? 殿方同士の逢瀬なんて、外聞が悪いでしょうし」
「エリサとのことを怒ってるなら、ちゃんと謝るから——」
すると突然、ぎゃあぎゃあと喚くエミリオの頭を、大男の分厚い手のひらが床に押さえつけた。
「騒ぐナ」
「ひぃっ!」
エミリオは涙目になりながら、それでも必死に視線だけをセライナの方へ向ける。
「た、頼む、セライナ……! なんでもする、なんでもするから助けてくれ……! ぼ、僕たちは幼馴染だろう!? 君は昔言ってくれたじゃないか。僕がどんな失敗をしても、君だけは味方だって!」
必死の形相で訴えるエミリオを前に、セライナは小首を傾げてしまった。
「? そうだったかしら……?」
「い、言った! 十歳の夏、湖のほとりで! 指切りまでしたじゃないか!」
「……覚えてないわ」
嘘ではなかった。
本当に、綺麗さっぱり、思い出せなかった。
一日も欠かさずに勉強を続けているヴィンターハルト語のノートは、早くも二冊目に入っている。
必死になって覚えた単語の数だけ、本当にこの男との思い出は上書きされて、消えてしまったらしい。
セライナは、我ながらなんと合理的な頭なのだろうかと感心してしまった。
そして、セライナが本気で忘れていることを、そして己への未練や情などがすっかりなくなっていることを悟ったのだろう。
組み敷かれたエミリオの顔から、今度こそ本当に、血の気が引いた。
「そんな……嘘だろう、セライナ……」
「それに、ごめんなさいね。わたくし、これから大事な用事があるの」
「大事な用事……? 僕の貞操の危機以上に大事な用事ってなんだよっ!」
エミリオの言葉を聞いた大男の手にうっかり力が入り、エミリオは情けない呻き声をあげる。
そんなエミリオに冷めた眼差しを向けながら、セライナは平坦な口調で告げた。
「あなたが失墜させたわたくしの名誉の回復は、あなたの貞操以上に大事に決まっているでしょう」
その言葉を待っていたかのように、複数の足音がセライナたちの元へと近づいてきた。
「……ご機嫌よう、セライナ様。こんな時間に一体なんの用かしら?」
ランプを手に入室してきたのは、伯爵家のメアリーであった。
その後ろから、ローズやキャロルなど、かつてセライナを見限った令嬢たちが、一人、また一人と、静かに教室に入ってくる。
令嬢たちは床の上の惨状に目をとめると、一様に口元を手で覆い、すっと視線を外した。
「……お取り込み中、でしたのね」
「違うっ!!」
「詮索は野暮というものよ、皆様。——さあ、わたくし達はわたくし達で、始めましょう」




