02.紅茶一杯では、釣り合わない
初恋にして長年の婚約者であったエミリオとの関係は、あっけなく終わった。
両家の話し合いの結果、婚約は“痛み分け”ということで、表向き円満に解消したのだ。
公爵家側の言い分はこうである。
——不貞は確かに嫡男の非だが、そちらも紅茶をかけて顔に火傷を負わせた。よって、謝罪も慰謝料の支払いも行わないこととする。
知らせを聞いたセライナは、しばし絶句した。
慰謝料など、裕福なエングルベルト家にとっては端金だ。
しかし、彼女が欲しかったのは金銭ではなく、踏みにじられた誇りに対する落とし前だった。
自分の好意を踏みにじった罪が、紅茶一杯なんぞで釣り合うというのか。
あの程度、数日もすれば跡も残らない程度の火傷だというのに。
その夜。
寮の自室のベッドで、セライナは静かに泣いた。
傍らに控えるのは、実家から連れてきた専属侍女のデボラただ一人。
元々はセライナの乳母をしていた、恰幅のいい年配の侍女だ。
彼女の前でだけは、気位の高いセライナも、ただの十代の少女に戻ることができた。
「私ね……エミリオのこと、本当に好きだったの」
「ええ、よく存じておりますとも」
「八つの時から、ずっとよ。初めて会った時に、彼の瞳の色と同じ青い花をくれて……」
「あの時のお嬢様は大層喜ばれて、栞にすると張り切っておられましたね」
「そう。……でも失敗して、茶色くなってしまった花を見て大泣きしたわね」
当時のことを思い出し、セライナは悲しげに笑った。
「だからね、私決めていたの。結婚式では、絶対に青い花のブーケを持とうって。ずっと……婚約が決まってから、ずっとよ……」
「お嬢様……」
「それなのに、エミリオってば……プレッシャーだったんですって。私との結婚が、プレッシャーだったって……! あんなに愛してると言ってくれていたのにっ」
再び泣き出したセライナを、デボラは何も言わずに抱きしめた。
そして、幼い頃にそうしたように、優しい手つきで背中を撫でた。
そのぬくもりに後押しされるように、セライナはしばらくデボラの胸の中で声を殺して泣いたのだった。
そして、翌朝。
「デボラ、学院の書庫から世界王族名鑑を持ってきてちょうだい。全部よ」
「……世界王族名鑑、でございますか」
腫れた目元を化粧できっちりと覆い隠し、すっかりいつも通りに振る舞うセライナの姿に、デボラは面食らったような顔をした。
「わたくし、気付いたのよ。わたくしに相応しいのはあんな偽物なんかじゃなくて、本物の王子様だってことに」
「本物の、王子様……」
「そうよ。だからわたくしは、わたくしだけを愛してくれる、本物の王子様を探してみせますわ!」
かくして、セライナの机の上に大陸中の王族名鑑が積み上げられた。
第一候補、西のヴェルネシア王国第二王子・十九歳。
文武両道の人格者だが——婚約者あり。
「却下」
第二候補、東のロゼリウス公国公子・二十一歳。
多数の芸術家のパトロンをしている。
「悪くないわね。きっと芸術を愛する繊細な方は、自分の妻も一途に愛してくれるわ」
「……」
第三候補、北のヴィンターハルト国王太子・十八歳。
少々寡黙で無骨な性格だが、誠実さに定評あり。
「誠実さ……ねえ、デボラ。誠実さというのは、結婚する上で最も大切なものだと思わない?」
「……左様でございますね」
デボラの相槌はどこまでも平坦だったが、セライナは気にすることもなく、力強い手つきで候補者の情報を書き留めていった。
その次におこなったことは、最有力候補であるヴィンターハルト国の言語の教本を取り寄せることだった。
いわく、「正確に言葉を理解できるようにならなければ、相手からの愛の言葉を正しく受け取ることができないじゃない」ということで、それはそれは鬼気迫る様子で勉強に打ち込んだ。
……新しい単語を一つ覚えるたびに、エミリオと交わした会話を一つ、忘れられた気がしたのだ。
もちろん、同時進行で、父親にお相手と繋いでくれる方を見つけて欲しいという、盛大な無茶振りをすることも忘れなかった。
娘を溺愛している父親は、傷心中の娘が前に進もうとしているのだから! と、あらゆる手段を用いて奮闘中だ。
◇◇◇
そんな忙しない日々を過ごすようになって、ひと月。
風向きが変わり始めていることにセライナが気付いたきっかけは、いつものカフェテリアだ。
セライナの特等席の周りにある席が一つ、空いた。
最初は、体調でも崩したのかと考えていた。
けれど翌週には二つ空き、空いた席の主たちが、エミリオを囲むようにして庭園でおしゃべりしている姿が見られるようになった。
そして今や、彼女の取り巻きは一人もいない。
種を明かせば、単純な話である。
あの男が、大っぴらに「未来の公爵夫人を探している」と言い出したのだ。
長年埋まっていた婚約者の席が空席になった、公爵家嫡男。
その整った顔立ちもあり、彼が少し微笑みかけるだけで、令嬢たちは面白いように群がった。
そして、陰で令嬢たちを手当たり次第につまみ食いしているという噂も、まことしやかに囁かれている。
どうやら節操というものが、セライナが浴びせた紅茶でうっかり洗い流されてしまったらしい。
こうなれば、損得勘定が得意な貴族というのは薄情なものだ。
もし自分が公爵夫人になれば、侯爵令嬢のセライナよりも格上になる。
——ならば、あの気位の高い元婚約者に媚びへつらう必要など、ないのではないか?
そんな計算をした令嬢たちは、セライナを遠巻きに眺めながら、ひそひそと囁いた。
「ご覧になって、婚約者に捨てられた方のご登場よ」
「まあ、怖い。紅茶をおかけになったのでしょう? 私にはとても真似できないわ」
「お可哀想に。あんな性格では、もうまともな縁談は……」
言い返すことは、簡単だった。
けれども、セライナはそうしなかった。
令嬢たちには目もくれず、背筋を伸ばし、堂々と胸を張って歩き続ける。
人前で傷ついた顔を晒すくらいなら、死んだ方がマシだと思いながら。
しかし、晒さないだけで、傷つかないわけではない。
このまま傷つけられ続けたくないのならば、行動をしなければ。
泣き寝入りだなんて、性に合わない。
——よし、決めた。復讐をしましょう。




