01.淑女は淹れたての紅茶を投げ捨てる
——淑女たるもの、いかなる時も冷静であるべし。
物心がつく前から叩き込まれてきたその教えを、セライナ・エングルベルト侯爵令嬢はたった今、淹れたての紅茶と共に投げ捨てた。
「あっつ!?」
暖かな日差しの降り注ぐ王立学院のカフェテリアに、上等な茶葉の香りと共に、悲鳴じみた声が響き渡る。
淹れたての一杯を顔面に浴びたセライナの婚約者——エミリオ・ホフマン公爵令息は、濡れた前髪の下から、信じられないものを見る目で彼女を見上げていた。
事の起こりは、ほんの五分ほど前に遡る。
◇◇◇
その日の昼下がりも、いつも通りに過ごしていた。
美しい庭園が見渡せる日当たりのいい窓際の席は、学院の女王様であるセライナの特等席である。
だからいつも通りそこに座り、取り巻きの令嬢たちに囲まれながら、他愛のない噂話とともに紅茶を楽しんでいた。
そんな集まりの末席に座っていたのは、エリサ・ミュラー。
ブルネットの髪に控えめながら美しい髪飾りをつけた、小柄でいつも自信なさげな表情を浮かべている、男爵令嬢。
入学当初周囲から浮いていた彼女に声をかけたのが、他でもないセライナだった。
何も親切心からそうしたのではない。セライナはただ単純に、エリサがつけている髪飾りをあつらえた職人について知りたかっただけなのだが。
その時の会話をきっかけに、エリサはセライナのあとを追いかけ始め、気がつけばグループの一員となっていた。
もちろん、身分違いだと陰口を叩く者もいた。しかし、セライナが彼女を受け入れている以上、表立って文句を言える者などいない。
そのエリサが、先ほどから一言も言葉を発していなかった。
新しいドレスやジュエリーなどのファッションの話にも、来月のパーティーのエスコート役に関する話にも加わらず、どこか青い顔をして俯いている。
「エリサ」
セライナが声をかけると、エリサの薄い肩が大げさなほど跳ねた。
「どうしたの、先ほどからそんな青い顔で黙りこくって。具合が悪いのなら、さっさと医務室に行きなさい」
「ちがっ……、あの、その……私……」
恐る恐る、といった様子でエリサが顔を上げる。
小動物を思わせる大きな瞳が、いつも以上に潤んでいる。
所在なさげに組まれた指先が、小さく震えていた。
それまで楽しげに会話をしていた令嬢たちも異変に気づき、一斉にエリサに視線を向ける。
数秒の間。
そのなんとも言えない空気に、セライナは嫌な予感がした。
そういった予感というのは、残念ながら彼女の場合、大抵よく当たってしまう。
「私……もう、黙っていられません……!」
エリサは勢いよく立ち上がると、今にも泣き出しそうな顔で、それでもはっきりと言った。
「私、エミリオ様と……一夜の過ちを、犯しました」
先ほどまで賑やかだったカフェテリアが、しんと静まり返った。
「黙っていればバレないと、言われたけど……でも、罪悪感に耐えられなくて……セライナ様に、これ以上嘘をつき続けるなんて、私にはできないっ……!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、エリサは雨に打たれた子犬のように震えている。
それは庇護欲を掻き立てる、完璧な震え方だった。
……少なくとも、セライナはそう思った。
周囲の視線が、一斉にセライナとエリサに突き刺さる。
哀れみ、軽蔑。しかし大部分は、好奇だ。なにしろ、醜聞は貴族の大好物なのだから。
そしてその視線は、二つ隣のテーブルにも注がれていた。
学友たちと談笑していたはずのエミリオが、そんな視線を受け、石のように固まっている。
そのエミリオの表情は、エリサの言葉が真実であることの何よりの証拠であった。
セライナは一見落ち着き払った様子で、静かに立ち上がった。
——その手に、先ほど注がせたばかりの、湯気の立つ紅茶を持って。
何事かと周囲の視線が二人に集まる中。
セライナはエミリオの前までゆっくりと歩み寄ると、優雅な笑みを浮かべたまま、凍りついている婚約者の整った顔に、勢いよく紅茶を浴びせた。
かくして、冒頭の無様な悲鳴が、カフェテリアに響き渡った。
「はぁっ!? 熱っ……な、何を——」
「あら、熱かった? それなら良かった。冷めていたら紅茶をかけた意味がないもの」
赤くなった顔をハンカチで拭くエミリオは、火傷の痛みからか、やや涙目になっている。
そんな男に冷ややかな視線を向けながら、セライナは空になったティーカップをテーブルに置いた。
内心で、カップごと投げつけるのとどちらが良かったかしら? なんて思いながら。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……私が、私が悪かったんです……!」
「そうね。この男も悪いけど、貴女も悪いわ」
バッサリと切り捨てるセライナに、エリサが泣き崩れる。
その幼い子どものように泣きじゃくる姿に、セライナは眉をしかめてから、おろおろと成り行きを見守っていた取り巻きたちに向かってにっこりと微笑んだ。
「誰か、熱い紅茶をもう一杯くださる? 煮えたぎるほど熱いのが良いわ」
「セ、セライナ様っ!? おやめください!」
「落ち着いてください、お気持ちは分かりますが!」
取り巻きの令嬢たちが、慌ててセライナの腕にすがりつく。
分かってたまるものですか——と、セライナは胸の内で吐き捨てた。
「わたくしは落ち着いているわよ。平等に、まず不貞を働いた男に一杯、次に恩知らずの泥棒女にもう一杯。ほら、とっても落ち着いているでしょう?」
「セライナ、やめないか。みんなが見て——」
「見せているのよ!」
この期に及んで仲裁者を気取ろうとするエミリオに、セライナの怒りが爆発した。
「よろしくて、皆様。この男は、幼い頃から連れ添った婚約者を裏切りました。ホフマン公爵家の嫡男ともあろう方が、婚約者との神聖な誓いより、一夜の火遊びを選んだのです。どうぞ皆様、この裏切り者の間抜けな姿を目に焼き付けて、末代までの語り草になさってちょうだい!」
セライナはそう言い切ると、肩で息をしながらスカートの裾を翻し——ふと、足を止めた。
先ほどまで彼女がいたテーブルの上、取り巻きの一人が口をつけていた、飲みかけのカップ。
セライナはそれを何気ない仕草で持ち上げると、泣き崩れているエリサの頭上で、ゆっくりと傾けた。
「ひっ……!?」
琥珀色の液体が、ブルネットの髪を伝って床を濡らしていく。
それが冷めていることを残念に思いながら、セライナは今度こそ振り返らずにその場を立ち去った。




