70話「激辛チップスの方がよかったですか?」
ドタバタ回の第1話です。
よろしくお願いします。
パステリアが初めて負けたのは3歳の時である。ふと油断した隙に兄に菓子を食べられてしまった。
次は5歳の時。いたずらっ子に足をかけられて坂から転げ落ちてしまった――などなど、憂鬱な気分がそうさせるのか、パステリアの頭の中には負けの記憶が次から次へと映し出されていた。
そして直近のものがこれである――重騎士ゴンザロス。彼とその部下たちを前に、パステリアは主を守ることができなかった。護衛としてこの上ない負けである。そういうわけで。
「はあ……」
パステリアは心の底からため息をつき、その吐息が清潔な空気の中を漂う。ここはアゾリアの病院である。
彼女はその調理室で煮立った鍋と向かい合っていた。気だるげな表情は正面の壁に向けられており、その瞳もどこか虚ろである。調理が嫌いというわけではなく、フレアが毒舌料理評論家というわけでもない。
(改めて考えてみると、私の人生って負けばっかだよなぁ)
再び嘆息した後、パステリアは俯いた。視線の先では、ぼこぼこと煮立つスープが澄んだ色から急速に青紫色へと変わっていく。一般的な家庭では目にしないであろう光景である。が、やはり見えていないらしく、パステリアは欠片も反応せずにひとりごちた。
「前世の悪行かなにかのせいで、上手くいかねぇようにできてんのかな……」
それから奈落の底に落とされたかのような表情で玉杓子を手に取ると、料理ではありえない色に変じたスープをかき混ぜ始める――
おおおおお……!
その直後、鍋の底から死霊を連想させる、おぞましい声が聞こえてきた。やはりそれにも気付かず、パステリアは強く目を閉じた。瞼の裏に過去の勝利を見つけ出そうとするかのように――と。
ごおおおおおおおお!
『パステリア! なにが起きてるの!?』
「え?」
調理室のドアが勢いよく開け放たれ、護衛の1人――要は同僚である――が大慌てで駆け込んできた。
記憶という過去に全意識を集中させていたパステリアだったが、その理由はすぐにわかった。つまりは鍋から赤黒い火柱がたちのぼっているということが。
「炎の色がえぐい!? ていうか、この間も魔女の釜を錬成してたわよね!? どうやってるの!」
「それは私が訊きたいよ!」
狼狽する少女たちに気でも良くしたのか、炎は天井まで届かんばかりに丈を増し、さらに邪悪な気配まで発し始めた。冷たく、暗い。調理室がそんな空気で満たされていく。
『ワレハ……ワレハ……ヨミガエッタ……!』
「なんか頭の中に変な声が聞こえるんだけど!? 魔女釜の次は地獄の扉とか、もう召喚術士にでも転職しなさいよ!」
「うるさい――とか言い返せる立場じゃないけど、うるさい!」
『フハハハ! マズハ喧シイ小娘ドモヲ我ガ復活ノ贄トシテクレヨウ!』
「いやああああああああああ!」
そして調理室に意味不明な地獄が溢れる――直前。
かちりっ!
いつの間にか調理室に入って来ていたらしい少女がコンロの元栓を閉めた。
炎は急速に勢いを失い、邪悪な気配も小さくなっていく――恐怖に凍り付いていた2人の前で、フレアは濡れた布巾を鍋に被せ、地獄釜の火を完全に消した。
『微妙ニ嫌ナ臭イガスルウウウウ……!』
消えゆく断末魔になど取り合わず、パステリアたちに微笑む。
「火を扱っている時は冷静さを失ってはいけませんよ」
『……』
2人が何度もうなずきを返すと、フレアは微笑んだまま調理室から出ていった。
彼女の振る舞いには気品と可憐さだけでなく、ある種の威厳が感じられる。それは最近までなかったものだった。具体的に言うのなら、奇蹟の子と口づけを交わした昨晩までは――
「そういう経験は人を成長させるのかしら。民を率いる才能が開花を始めたということだし、喜ばしいわね」
「……」
感心したように言う少女。彼女の脇で、パステリアは法衣を着た少年の顔を思い出して不満そうな顔をした。
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休憩中も憂鬱さは変わらないらしく、パステリアは小石など蹴りながら大通りを歩いていた。さきほどの失敗を思い出したのか、深々と嘆息し、さらに心の中でこぼす。
(料理もできないとは泣けてくるよ。ていうか、私がフレア様の護衛部隊にいる意味なくないか?)
フレアを護衛する少女たちは、戦闘技能以外にもそれぞれ特技をもっているのだが、パステリアには胸を張ってそうと言えるものがない。そもそも癒希より小柄なパステリアである。戦闘技能自体が大した水準にない――と。
「……ん?」
パステリアは視界の先に赤い法衣を捉えた。視線を法衣から上に向ければ、見覚えのある後ろ姿だった。比良坂癒希。フレア姫の唇を奪った――わけではないが、パステリアにとっては同義である――小憎らしい少年。彼は片手に小さな紙袋を持っており、その中から湯気の立つ何かを取り出しては口に放り込んでいる。もちろん周囲を警戒している様子はない。
(自分がどんだけ重要な存在か自覚してないのかよ。しかも食べ歩きとか……フレア様はあいつのどこがお気に召したんだ?)
パステリアはそんなことを考えながら気配を絶つと、癒希の背後から静かに距離を詰め始めた。戦闘には向かない体格だが、隠密行動には向いているだろう。
悲鳴でも上げさせてやる。パステリアは胸中でほくそ笑みながら、ゆっくりと近づいていった。そして癒希の肩を強めに叩こうと右手を伸ばす――
「どうしました?」
「げっ!?」
その寸前、癒希が素早く振り向き、パステリアが悲鳴を上げた。ショックなど受けて硬直している間に癒希は全身で彼女へと向き直り、それから紙袋を差しだした。
「お芋の少し辛いチップスです。どうぞ」
「いらないよ!」
「そうですか? ずーっと紙袋を見ていたから」
「え?」
ずーっとというのは、癒希を視界に捉えた時からという意味だろう。つまりパステリアはその前から気配を捉えられていたということである。警戒している様子がなかったのではなく、隠していたということでもあり、パステリアはそれに気づかなかった。
(私よりも隠密が上手いってことかよ!? 信じられねぇ……!)
感情が顔に現れてしまったらしく、癒希は両目を瞬かせた。
「なんか分かりやすくショックを受けてますけど、激辛チップスの方がよかったですか?」
「うるさい!」
なにやら負けた気分になったらしく、パステリアは鼻息も荒く顔を背けた。その先にあったのは大きな飾り窓。徹底的に磨かれており、鏡のようにパステリアの姿を映し出している――そして見えた。彼女の背後に無表情で立っている、赤い法衣を着た白金の女性が。
「オリアナ様!?」
「パステリアさん……でしたね。癒希様の背後から気配を絶って接近した理由を聞かせてもらえますか?」
「げっ!?」
「まさかとは思いますが、癒希様を驚かせようなどと……」
潤った唇を動かしながら、オリアナは気配と表情の圧力を増していく。
ずばりその通りですなどと答えようものなら、冗談抜きで鞭で打たれかねない――が。
「えっと、馬車の準備ができる頃なのでそろそろ行きません?」
「……そうですか」
癒希から予期せぬ助け舟。パステリアにとっては腹立たしいことに。それはさておき、彼女は訊いた。
「どっか行くのか?」
「果実の村っていう村でちょっと問題が起きたらしいんです」
「まじで? そこって……」
私の故郷だよ――その言葉を呑み込みつつ、パステリアは胸中で続ける。
(フレア様は私がいなくても困らないだろうし、いっそ故郷に帰るのもありかな……)
パステリアの脳内に、家族が健在だった頃の温かな生活が思い起こされていく――そして彼女は癒希の耳元に顔を近づけた。刹那。
ばしっ!
銀鋼糸の鞭が地面を叩き、平和な街角に重い音が鳴り響く。が、パステリアは気付かずに囁いた。
「私も連れていけ」
「でもフレアさんの護衛はどうするんですか?」
つられた癒希が囁き返すと、パステリアはにやりと笑う。そして。
「爆速で許可を頂いてくるからちょっと待ってろ!」
「……パステリアさんの振る舞いに関して、フレア姫とお話する必要がありそうですね」
「でも爆速らしいですから、気をつかってくれてるっぽいですよ?」
「癒希様に対して、ぽいでは非常に困るのです」
大通りを爆速とやらで駆け抜けていくパステリア。彼女の背中に向けられたオリアナの視線は超激辛だった。
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