136話「……あの、アクセルにどんな用があったんですか?」
吹き付ける冷風。アクセルはその冷たさで目を覚ました。
頬に土の感触。頭上には気配――顔を上げれば余裕の笑み。つまりはアゾリアに見下ろされていた。
周囲には誰もいない。彼女の部下たちは瓦礫の山で待機しているのだろう。女性が挑んだ1対1。完全になめられている。
「女風情ガ……! ウ、ググググ……!」
アクセルは怒りに任せて立ち上がろうとしたが、土を引っかくのが関の山のようだった。
そんなざまを晒す彼に対してアゾリアが余裕の笑みのまま、ふっと鼻を鳴らした。睥睨。そんな仕草と表情で――
「這いつくばって非礼を詫びるとは、大したものだな。将軍殿」
「ンンンギギギギギ! 女の分際で神の子である我を侮辱するとは――絶対に許さぬ! 我が父による報いが訪れるであろう! 心しておけ、オンナァアアア!」
あくまで不適切ではあったが、その気迫は衝撃波じみた突風すら巻き起こした。
必ず報いが訪れるとの確信。魂の底からコーロストンを信仰しているのだろう――アゾリアが頬をにやり歪めた。次いで顔の高さに上げた右手をぱちりと鳴らす。
どどどどどどん!
豪快に立ち昇る複数の雪柱。アゾリアの後方――斜面の中腹辺りで結構な量の爆薬が使われたようだった。
そして彼女の笑みが闇を増す。さきほどの爆発は勝利の号砲ではなかったと確信させるどす黒さ。
と。
ごごごごご……!
白い大地が不穏な音を発し始めた。次いで伝わってくる小刻みな振動。
山全体が震えているような規模である――それは怒れる在らざる神の降臨ではなかった。
実在する現象。雪崩。その前兆。原因は致命的な不運ではなく、先ほどの爆破である。爆薬を仕掛けたのはもちろん――
「私たちが設置したものだ。昨晩の内にな?」
「昨晩!? まさか……」
ぎょっとしたように引きつるアクセルの頬。
そしてアゾリアの笑みが悪意に染まる。唇からは酷薄な笑声が漏れ出し、次いで雪よりも氷よりも冷たく無慈悲な声がアクセルに突き刺さる。
「貴様がのうのうとスープを飲んでいる間にだ」
「――!?」
「ククク……! 間抜けヅラで慢心している姿は実に滑稽だったぞ。喜劇の台本にでも使ってやろう」
「ウウウググググッググググググゥ……!」
「ははははは!」
苦悶にも似た呻きをぐしゃり! と踏みつぶす笑声――それがスイッチだったとでもいうように、大地の揺れが激しさを増していく。アクセルの敗北が確定しつつあるということであり、それは“死”へのカウントダウン。
彼に残されているのは、死という下り坂のみである。が、アクセルは這いつくばったままアゾリアに手を伸ばした。
「ま、待つのだアアアアア!」
せめて足の1本でも貰っていく。敗北の将の最期の一矢――ではなかった。
「我を助けろ! さすればコーロストン神の赦しが得られるであろうウウウウウウウウ!」
それは冷や汗まみれの哀願。悲痛なまでの助命の声――返されたのは雪とは真逆の声だった。
地獄の悪魔が団扇で涼を取り始めるような獄炎。赫怒にして憤怒。怨嗟がどす黒く滲んだ感情――アゾリアの双眸に憎悪の焔が燃え上がる。
「彼女の名前はミスティだ」
「……?」
「あの施設の護衛部隊――貴様が皆殺しにした護衛部隊! その指揮官の名だ」
「そ、それは……!」
「私が知らないとでも思っていたのか? 気付かないとでも思っていたのか?」
いかに民間、そして戦闘と無縁の施設であっても人の生活圏から隔離された場所にあるのなら、必ず護衛が配置される。それは降雪量を観測するためだけの施設も例外ではなく、20名ほどの兵士が配置されていた。が、今はいない――代わりに、ある。
からからから……
アクセルの周囲に昏倒している蛮族戦士たち。彼らの装飾品が、冷風に煽られて乾いた音を立てた。
原料は骨。だが中型の獣のものではない――アゾリアは両の拳を強く握り締めた。めき! と音を立てて爪が肉を突き破り、白い手袋に血が滲む。全身をわなわなと震わせているのは、寒さによるものではない――
「貴様たちは……! 施設員の前で彼女たちをそうしたのだろう?」
ラミンはそれをやめさせようとして全身を刻まれ、数日も地獄を味わった。
施設員たちが負った精神的なダメージも相当なものに違いない。なにより遺体を弄ぶなど、人の所業ではない――怨敵。アクセルの立ち位置はそれである。交渉の余地はなく、逃げることもできない。一面だけの四面楚歌。
そしてアゾリアが押し殺してきた感情が堰を切ったように溢れ出した。
癒希に凄惨な現実を悟られまいと、心の奥底に軍人という重りで封じ込めていた激情が――
「クククク!」
「ひいっ!?」
刹那、アゾリアが凄惨極まりない笑みを浮かべた。
残忍で、凶悪で、酷薄で、無慈悲――ゲスい大地の創造主が大喜びしそうな表情であり、およそ人間と呼ばれる生命が表現し得る表情とは思えない。
アゾリア・バーンズ。彼女は15歳の時に同僚の遺体の山の中で一夜を過ごした。
共に働いた仲間たちの死に顔に囲まれての地獄。守られなかった少女。その心を染めた闇は、凍土も凍てつく絶対零度。寒さ無効の肉体を持つ超人すら怯えさせるほどの――邪悪。そのすべてがアクセルへと収束する。
こおおおおお……!
「わ、我を見るなアアアアアアアアアアア!」
悪鬼と悪魔と悪霊を掛け算したような悪意が形容しがたい寒気となって、アクセルの肝をかちかちに凍り付かせた。悪夢に怯える子供のように顔を伏せ、さらに両手で頭を抱える蛮族の将。
それでも“闇”からは逃げられない――アクセルは凍えるように、がたがたと震え始めた。が、アゾリアに慈悲は欠片もない。冷徹な声音で無慈悲な現実を紡ぎあげていく。
「彼女とは旧知の仲でなァ……よって貴様はとことん残虐に殺そうと決めていた」
「――!?」
貴様はそれでも軍人かアアアアア!? アクセルは胸中でそう叫んでいたが、口に出す度胸はないようだった。
仮に大地の果てまで届く声量で叫び倒したとしても、処刑が中止されはしなかっただろう。そういうわけで、極めて円滑に進められていく。残虐に――
「貴様を山に殺させようと思う」
「なんだとオオオオオオオオオオオオオ!?」
この山はアクセルにとって父にして神。愛し、敬う存在。
その手に掛けさせようというのである――アクセルは顔を上げて叫び倒した。が、どうにも楽しそうな声だけが返される。
「山に愛されているというのなら、この雪崩を止めてみろ」
「き、き、き……貴様あぁあああああ…………!」
アクセルは眼前の白い闇を睨みつけながら胸中で祈ったようだが、そんな奇蹟が起きる気配はない。
ティアラ神国の憲兵がアゾリアを制止するために雪の大地からモグラのように飛び出してくることも――そして。
ごごごごご!
振動は収まるどころか致命的に激しさを増し、アクセルの顔面が蒼白に染まった。
彼を見下ろすアゾリアの笑みは、もはや軍法会議ものである。が、それを諫めることができる者は斜面の上で温かなスープを飲んでいるので“闇”はやりたい放題である。どこか無邪気な声で。
「どうした? パパはご機嫌斜めなのか? それとも不倫に忙しいのかな?」
「か、神よ! コーロストン神よおおお! どうかこの悪魔に鉄槌をおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
振り絞られた信仰心。それでも祈りは届かない。送り先不明の懇願の声は白い山に響くことすらなく消えた。
そしてとどめの一撃は、この大地でもっとも不適切な笑みと共に振り下ろされる――
「山は貴様を愛してなどいない! 岩と氷の塊だ!」
「チガウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!」
アクセルは頭を抱え、発狂したように身もだえた――刹那。
どっ!
凄まじい雪崩が2人に向かって襲い掛かった。時速200kmで迫ってくる数十トンの氷雪。
それは急斜面を全速力で駆け下りてくるロードローラーに直撃されるようなものであり、威力は異世界転生数回分。真正面から呑み込まれようものなら――アゾリアが中指だけを立てた左手をアクセルに向けた。
「潰されてしまえ!」
「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”!」
直後、高く跳躍する――と。
ぱし!
斜面の上方から伸びた白銀の閃きが彼女を捉え、そのまま斜面上方まで引っ張っていく――アゾリアは宙で銀鋼糸の鞭を振り払うと、軽やかに着地した。すかさず斜面を見下ろせば、大量の雪がアクセルや蛮族たちをまとめて呑み込んでいくところだった。
血も肉も、何もかもが穢れない白に消えていき、そして宙を漂う大量の雪飛沫――アゾリアは目を瞑った。
(山は人を愛してなどいない。だが……)
お前はここに眠っている――誰にも聞こえない声でそう囁いた後、彼女はいつもの顔で仲間たちの方に振り返った。凛とした視線の先にはスープカップを両手で持った奇蹟の子。癒希。心が闇に染まっていない少年。どこか心配そうな表情である。
「……あの、アクセルにどんな用があったんですか?」
「いやなに、ちょっとしたにらめっこをな」
「…………勝ちました?」
「ああ。だから清々しい気分でここにいる」
アゾリアは穏やかな微笑みで癒希の頭を優しく撫でた。
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