第三章③
もしかしたらミヤビはボーイズ・ラブ・マニアなのかもしれない。しかし、そんなこと、どうだっていいじゃないか。そんなミヤビに乾杯、と思える余裕が丈旗には備わっていた。
美術室の幅の広い机に向かい、今日の放課後はキャンバスに絵ではなく、ノートに文字を走らせているミヤビが言う。「なんだか、ケン、余裕そうだね」
「何だ、急に?」丈旗はミヤビの前の椅子に座り、窓の外を眺めていた。夕日が凄く紅く、その輪郭は鮮明。「余裕そうって、なんだよ」
「いや、」ミヤビはノートに目を落とす。「なんか言われるかなって、思ってたから、その、二人は何か言いたげな目をしていたでしょ?」
「なんか、って何?」
「脚本のことだよ、」ミヤビは下を向いたまま言う。「変な話だったでしょ?」
「別に、」丈旗にして、言わばボーイズ・ラブは乗り越えられたもの、だったから本心として言えた。「別に何も、とても楽しい脚本だったと思うけど、そうだったな、まだ脚本の感想を言ってなかった、うん、とても楽しい物語だと思った」
「本当?」ミヤビは疑う目をする。「嘘言ってない?」
「嘘なんて言わないさ、俺の正確を知っているだろう? 嘘は言えないんだ」
「私の出番も少ないよ」
「あ、確かにそれは、思った、でも、占い師はスクリーンで圧倒的な存在感を示すと思う」
「たった四行で?」
「ああ、四行で十分だ」
「まあさ、」ミヤビはシャーペンを机の上に置いて、頬杖付く。「仕方がないことだものね」
「何が?」
「とにかくさ、」ミヤビはクスっと笑う。「いいキネマにしようね」
「ああ、もちろんだ、」丈旗は頷き、そして三十分前から気になっていた疑問を口にする。「・……ところでミヤビ、さっきから何を書いているんだ?」
「最後の台詞を考えていたんだ、最後のイオの台詞」
「台詞?」丈旗はミヤビのノートを覗き込む。ミヤビはさっと手で隠したが、文字の多さは分かった。「長いな」
「最後はイオはタモツを選ぶ」
「あ、やっぱり、そうか」
「それで最後に二人はキスをするの」
「二人は嫌がるだろうな、」丈旗には顔を近づけて嫌がる安賀多と斑鳩の顔が見えた。「ミヤビの脚本を二人はすっごく誉めていたけれど、今頃きっと、必死に脚本を覚えているころだと思う、でも、キスはさすがに嫌がるだろうな」
「絶対にキスはさせるわ、」ミヤビはボーイズ・ラブ・マニアのように、瞳を輝かせ言う。「絶対に、あの二人にはキスしてもらう」
「そうだな、大事なクライマックスだ、俺が無理矢理にでも、二人にキスさせるさ、力づくってやつで」
「へぇ、乗ってくれるんだ、」ミヤビは首を竦めて、意外という感じで、微笑み言う。「もしかして丈旗、アブだったりして」
「そうだな、素敵な男子が俺の前に現れて、優しくされたりしたら、アブになるかもしれないな、」これもすでにボーイズ・ラブを乗り越えた丈旗の本心だった。「でも、今は、好きな娘がいるから、そういうことはならないよ、絶対」
「へぇ、好きな娘、いるんだぁ、」ミヤビの瞳は僅かに狼狽えているように見えた。無理に笑顔を作って、そしてそこに僅かの期待を含めて、そう、まるで丈旗のことが好きみたいな分かりやすい表情を見せてミヤビは小さな声で言う。「ねぇ、その娘って、誰なの、教えなよ」
「知りたい?」
「うん、」ミヤビは目を煌めかせる「すっごく」
丈旗は一瞬の逡巡を経て、覚悟を決めた。決意した。丈旗はミヤビの目を見つめて言う。「俺が好きな娘っていうのは、」
そのときだった。
まるでこのタイミングを狙ったように、藍染ニシキが美術室に現れた。
「こんにちは、」ミヤビはそっと最後の台詞が書かれたノートを鞄の中に仕舞う。「先輩」
ニシキは生徒会の仕事のため、三十分遅れての登場だった。「ああ、もう、なんなんだよぉ、もぉ!」
言葉汚め、ヒステリック向き出しのニシキは二人の方に近づくなり、丈旗の足を上履きの爪先で蹴飛ばした。
「ちょ、ちょっとぉ、何するんですか?」
丈旗が逃げるように立ち上がると、ニシキはその椅子に座って、頬を膨らまして、ミヤビの頬を抓った。「ぐぬぬぬぬぬぬ」
ミヤビは笑顔を困らせて、ニシキの手首を掴む。「……痛いです」
「聞いて、ねえ、聞いてよ、ミャアちゃん!」ニシキは机を手の平で叩きながら言う。
「ミャアちゃん?」丈旗はニシキがミヤビのことをそう呼ぶことに引っかかった。「ミャアちゃんって、なんですか?」
「私のこと」
「それは分かってる、いや、凄く可愛い呼び方だと思って」
「は、文句あるの?」ミヤビは丈旗を睨む。
「違う、ピッタリだと思って」
「はあ!?」さらにミヤビは丈旗を睨む。
「いつから?」
「ちょっと、私の話を聞いてよ、ミャアちゃん!」
「どうしたんですか?」ミヤビは正面のニシキを見る。「今日は一段と、機嫌が悪いみたいですけど」
「まるでいつも機嫌が悪いみたいに言うなぁ」ニシキは口を尖らせる。
「いや、いっつも機嫌悪いじゃないですか」ミヤビが言う。
「いや、いつも優しい生徒会長様じゃないか?」丈旗は言う。
「あんたは先輩の何も分かってないのね、」ミヤビは丈旗に言う。「ケンは鈍感だもんね」
「え?」そんなことをミヤビに言われて狼狽えた。あらゆることに対して敏感だと丈旗は自分のことを思っていた。流行の音楽やファッションはもちろん、直近の国際情勢の判断の難しいことにも、誹謗中傷に溢れた芸能界のことにも、一年三組の人間関係のことにも、そしてミヤビのことにも敏感なつもりだった。丈旗の笑顔は少し引きつる。「お、俺が鈍感だって?」
「そうね」ニシキが髪を払って言う。
「そうでしょ?」ミヤビは思わせぶりに言う。
その微細な表情の変化に、丈旗はある意味を掬う。
ああ、そうか、なるほど。
早く、私があなたのことを愛しているという事実に気づけ、というサインか。
きっと、そうだな。
間違いないな。
明日には、言おう。
丈旗は愉快な気分で決意する。
初恋の成功は間違いないと、確信して。
「鈍感な丈旗は黙っていなさい、」ニシキは丈旗をあしらうように言って、ミヤビの手を触る。「美術室から消えてもいい、窓から飛び降りようとしても止めないわ」
「それはちょっと、」丈旗はクールに笑って窓の外を見る。「酷いなぁ」
「黙ってろって言ったのよ、」藍染は「それで、ね、聞いてよ、ミャアちゃん!」
「はい、」ミヤビは慈愛に満ちた、女神の表情で頷く。「聞きますよ」
「テラスのことなんだけどね」
「テラスのこと?」ミヤビは首を傾げる。
「私、日々、テラスが会長を勤めるボランティア同好会エコロジーを潰そうと企んでいたんだけれど」
「ちょっと待ってください、そのテラスって、誰のことですか?」
「私の双子の姉、言ってなかった?」ニシキは早口で言う。「で、テラスのことなんだけど」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」ミヤビは声のボリュームを上げた。
丈旗も盛大に突っ込みたいところだったが、黙っていろと言われたので黙っていた。
「何よ、ミャアちゃん、しゃべらせてくれないの?」
「そうじゃなくて、先輩、」ミヤビは前のめりになって聞く。「双子だったんですか!?」
「そうなの、私たち、双子なの」
声は美術室の黒板に近い廊下への扉の方から聞こえた。扉はいつの間にか開いてて、ニシキに似ている女子がいた。なんとなく違いがあるがしかし、ほとんど一緒だ。しかし美術室での時間を藍染と一緒に過ごさなければ、ニシキとテラスの区別は丈旗にはつかないと思う。
「テラス!?」ニシキはそっちの方を睨んで言う。「私の大事な場所に来るなって言っただろっ!」
「もぉ、そんな顔するんじゃないの、」その人の声はニシキのボイスよりも高く、濁りがある。それも微細な違いだ。テラスは窓際の三人のところまで来て、そして犬みたいに唸るニシキを後ろからギュッと抱き締めた。「双子なんだから、仲良くしようぜぇ」
「キモいんだよ、死ねよ、あっちいけ、変態!」
こんな風に取り乱すニシキを見るのは初めてだった。
ミヤビも目を丸くして驚き、そして何か企む目をした。




