第2話 - 本当の仕事
ノクスは首に巻いた布をなびかせ、ひらりと屋根から舞い降りる。街灯もない夜では、全身を黒で覆ったノクスの姿は闇に溶けて見えなくなる。
足音を立てず、ノクスはそこそこ立派な民家の前に立つ。店舗を兼ねているのに人通りの少ないところにあるのは、真っ当ではない客のためだろうか。もしくは違法薬物をばれずに作るためだろうか。
腰からナイフを抜き、扉の隙間から鍵を断つ。ほんの一瞬の閃きは、軒下に住む虫すら気づかない。
ノクスは玄関から堂々と室内に侵入する。誰もが寝静まった深い夜――しかし家の主は、薬棚の前で瓶を鞄に詰めていた。
家の主ははっとしたように振り返る。ノクスは月明かりに照らされたその顔と、ラウルが描いた似顔絵を脳内で重ねる。
(細長い顔、髪のない丸い頭、白ひげ、長い鼻に細い目……大きな耳とほくろの位置も一致)
ノクスはそれが対象の薬売りだと確信する。薬売りはわたわたと薬瓶を取り、額に汗を浮かべながらノクスに向ける。
「もう来たか……クソッ、国家の犬め!」
薬売りが瓶の蓋を開く。その途端、中から黄色い煙が勢いよく飛び出した。
ノクスの姿が煙に覆われる。薬売りはその瓶を床に置き、踵を返して裏口へと急ぐ。
(合法ぎりぎりの催涙煙! 奴といえど、すぐには追ってこられないはず……!)
薬売りは荷物を手に取り、年齢を感じさせない走りを見せる。そこそこ広い家を縦断し、裏口の扉に手をかけ――
ヒュッ
風を切る音がわずかに耳に響く。薬売りがその音に気づいたとき……彼の手首から先は、既に失われていた。
「……!?」
(まさか、あの催涙煙を突破したのか!?)
あまりにも鮮やかな切り口に、まだ痛みが追いついていない。血を流さない傷口も、まだ手首の先があるつもりなのかもしれない。
ふと、薬売りは隣に人がいることに気づく。恐る恐る目を向けると、深海よりも深い青色が長い前髪の隙間から薬売りを見つめている。
「くっ……!」
薬売りは次の一手を放とうと、無事な方の手を懐に入れようとする。しかしその手も同じように、気づいたときには体から離れていた。
(いつだ……いつナイフを振った!? ワシはこいつから、一度も目を離していないのに!!)
薬売りは目を見開く。彼はたしかに目を逸らさなかった。まばたきもしなかった。ノクスは動く素振りなど、一切なかったはずなのに。
しかし答えは単純だ。ただ速すぎて、薬売りの目には止まって見えていただけだ。
(なぜだ……そもそもワシは、あの方に頼まれたから薬を作ったのだ。こやつらに始末される理由などなかったはずなのに……!)
「おのれ、『エクセクトレス』――!」
薬売りが大きく口を開く。逃げ切れないと悟ったとき、刺し違えるために仕込んだ猛毒――しかしそれが放たれることはなく、薬売りの上顎と下顎が離れた。
上顎から上を失った薬売りの体が、バランスを崩して床に近づく。それが音を立てて倒れる様子を、ノクスは静かに見届けた。
ノクスは腰のポーチから布の切れ端を取り出し、わずかに汚れたナイフを拭う。ナイフを鞘に納め、布を広げて床に転がった薬売りの頭に被せた。
ノクスは薬売りに向かって手を合わせ、そっと目を閉じる。
(あなたの犠牲がこの国の平和を守る……どうか、安らかに眠ってほしい)
ノクスはゆっくり目を開ける。動かない薬売りの体からは、思い出したように血が流れ始めていた。
国家直属の特殊部隊『エクセクトレス』。国の平和を保つため、あらゆる汚れ仕事を担う。その任務の一つである“害獣駆除”が、ノクスの本当の仕事だ。
人を殺してはいけない。当たり前のことだ。ノクスもそう思っている。しかし、綺麗事だけで平和な世界は保てない。だからエクセクトレスが、ノクスが、必要な悪を全て請け負うのだ。
ノクスは踵を返す。薬売りのことは、この後到着する仲間たちが片付けてくれるだろう。
『クソッ、国家の犬め!』
薬売りの言葉がノクスの脳内を回る。傍からはそう見えていると、ノクスもよくわかっている。
(それでもこれが……大切な人からもらった、俺の生きる意味だから)
ノクスは鍵を壊した玄関を出る。月明かりが、彼を照らすのを拒むように雲に隠れる。その様子に目を伏せ、ノクスは闇夜に向かって歩き出した。




