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夏祭りの夜が過ぎ去り、カレンダーが九月へとめくられても、優生の心の中にはあの日感じた『無力感』が、小さな棘のように深く刺さったまま抜けずにいた。
朝夕の風には微かに秋の涼しさが混じるようになったが、日中はまだ茹だるような残暑が続いている。二学期が始まり、教室は再び日焼けした生徒たちの喧騒で満たされるようになった。
優生と愛理の関係は、表面的には以前と同じように続いていた。
教室では相変わらず隣の席に座り、休み時間になれば他愛のない話をする。図書室の奥のスペースでの『音読の会』も再開した。クラスメイトの二人を見る目も、冷やかしから「あいつら、そういう仲なんだな」という、ある種の公認のようなものに変わりつつあった。
しかし、優生はどうしても、あの花火の光に照らし出された愛理の空虚な横顔を忘れることができなかった。
自分がどれほど言葉を尽くしても、彼女の世界のすべてを彩ることはできない。視覚という絶対的な壁を前にした時、自分の声はあまりにもちっぽけで無力だ。その事実が、優生の喉の奥に鉛のような重いしこりを残していた。
愛理もまた、花火の夜のことは一切口にしなかった。
いつも通りに優生の声に耳を傾け、いつも通りに柔らかく微笑む。しかし、その笑顔が時折、ひどく薄氷のように脆く、薄いベールに閉ざされたように見える瞬間があった。彼女は見えない暗闇の中で、何かを必死に押し殺して耐え続けているのではないか。優生はそう思わずにはいられなかった。
九月の半ば。
空を覆っていた分厚い入道雲が、筋雲へと姿を変えようとしていたある朝のことだった。
愛理の席は、ホームルームが始まる時間になっても空席のままだった。
「えー、星街は今日から数日休みだ。少し体調が悪いらしい」
担任の鈴木が事務的な口調でそう告げた時、優生の胸の奥で、嫌な警鐘がけたたましく鳴り響いた。
ただの風邪かもしれない。季節の変わり目だから、体調を崩すことだってあるだろう。
だが、直感が告げていた。あれはただの体調不良ではない。彼女の中でギリギリの均衡を保っていた何かが、ついに限界を迎えて弾け飛んでしまったのではないか。
その日の放課後、優生は日直でもないのに担任の席へ行き、「星街に今日のプリントと連絡事項、届けにいきます」と半ば強引に束を取った。
自転車のペダルを、立ち漕ぎで猛然と踏み込む。
生ぬるい秋風が耳元で轟音を立てて通り過ぎていく。胸のざわめきを振り払うように、優生は見慣れた住宅街へと急いだ。
星街家の前に到着し、自転車を乱暴に停めてインターホンを鳴らす。
いつもならすぐに聞こえてくるパタパタというスリッパの音が、今日はなかなか聞こえてこない。三度目のチャイムを鳴らそうとした時、ようやく重々しい音を立ててドアが開いた。
出てきたのは、ひどく疲れ切った顔をした愛理の母親だった。
目の下には濃いクマができ、髪も少し乱れている。一目で、尋常ではない疲労を抱え込んでいることが分かった。
「あ……蒼井くん。わざわざ、プリント届けてくれたのね。ありがとう」
「いえ。……愛理さん、大丈夫ですか? 体調不良だって聞いて」
優生が前のめりに尋ねると、母親は深く、震えるようなため息をつき、泣き出しそうな顔で目元を擦った。
「熱はね、今日の昼頃にはだいぶ下がったの。でも……その、精神的に少し不安定になってしまって」
「不安定……?」
「昨日の夜から、ずっと部屋で泣いてるの。私が声をかけても『来ないで』って。ご飯も一口も食べてくれないし……」
母親は、言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。
「私、どうしていいか分からなくて……蒼井くん、本当にごめんなさい。こんなこと、あなたにお願いするべきじゃないって分かってるんだけど……」
母親は、すがるような目で優生を見上げた。
「少しだけ、あの子に声をかけてきてくれないかしら。蒼井くんなら、あの子も落ち着くかもしれないから」
優生は、一瞬の躊躇いもなく力強く頷いていた。
「分かりました。行きます」
案内された二階の一番奥の部屋。
優生と愛理が、夏休みの間に何度も本を読んだリビングとは違う、彼女のプライベートな空間。
「愛理、蒼井くんがお見舞いに来てくれたわよ」
母親がドア越しに声をかけたが、中からは何の返事もない。ただ、ゴトッ、という何かが倒れるようなくぐもった音が聞こえただけだった。
母親は優生に「お願いね」と小さく言い残し、フラフラとした足取りで一階へと降りていった。
優生はドアノブに手をかけ、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと回した。
鍵はかかっていなかった。
ギィ、と小さな音を立ててドアが開く。
部屋の中は、昼間だというのに厚い遮光カーテンが引かれており、真夜中のように薄暗かった。むせ返るような熱気と、汗の匂いがこもっている。
そして、優生はその惨状に息を呑んだ。
足元には、本や小物が散乱している。机の上のペン立てがひっくり返り、ゴミ箱が倒れ、中身が床に散らばっている。それは、まるで泥棒にでも荒らされたかのような、あるいは突風が暴れ回ったかのような惨状だった。
部屋の隅、ベッドの脇の床に膝を抱えてうずくまる小さな影があった。
愛理だった。
「星街、さん……?」
優生が、散らばった鉛筆を踏まないように気をつけながら声をかけると、彼女の肩がビクッと大きく跳ねた。
「……こないで」
ひどく掠れた、呻き声のような声だった。優生が知っている、あの風鈴のように透き通った彼女の声ではなかった。
「星街さん、俺だ。蒼井だ。プリント、持ってきた」
「来ないでって言ってるでしょ!!」
バン!と何かが優生の足元に力任せに投げつけられた。見れば、それは優生が貸していた『砂の海の星拾い』の文庫本だった。
「見ないで……! 今の私を、見ないでよ……っ!」
愛理は両手で自分の頭を掻きむしるように抱え込み、わんわんと声を上げて泣き始めた。
それは、学校の教室で声を殺して泣いていた時の彼女とは全く違う、子供のように無防備で、生の感情が剥き出しになった恐ろしいほどの慟哭だった。
優生は、散乱する物を踏み越え、彼女のすぐそばまで歩み寄り、床に膝をついた。
「……どうした。何か......あったの?」
できるだけ穏やかに、彼女を刺激しないように声をかける。
しかし、愛理は首を激しく横に振り、乱れた髪の隙間から、見えない瞳から止めどなく涙を溢れさせて叫んだ。
「嫌い……っ。目が見えない、自分が大っ嫌い!」
その言葉は、優生の心臓を氷の刃で貫いたような衝撃を与えた。
「怖いんだよ……見えないのが怖い! 音が怖い! どこを歩いてるのか分からないのが怖い! 誰も私のことなんて、好きじゃない! 腫れ物みたいに扱って、可哀想だって同情してるだけ!」
熱による譫妄状態なのか、それとも、これまで心の奥底に分厚い蓋をして封じ込めてきた真っ黒な澱が、熱を帯びて一気に決壊してしまったのか。
愛理の口から飛び出すのは、彼女自身をズタズタに切り裂くような呪詛の言葉だった。
「私がお出かけに行きたいなんて言わなければ……あんな事故、起きなかった! お父さんは死ななかった! 私が殺したの! 私がお父さんを殺したんだ!」
喉が裂けそうなほどの悲痛な叫び。
彼女が背負っていた十字架の重さに、優生は愕然とした。
彼女はただの交通事故の被害者ではなかった。父親の死という取り返しのつかない喪失の「原因」を、すべて自分のわがままのせいだと強烈に思い込み、その狂気にも似た自責の念の果てに、自らの視覚を封じ込めていたのだ。彼女の心因性視覚障害は、彼女自身が自分に科した罰だった。
「お母さんだって……本当は私のこと、憎んでるに決まってる! お荷物で、人殺しの娘なんて、愛してるはずがない……っ。蒼井くんだってそうだよ、どうせいつか私から離れていく! 見えない私なんて、生きてる価値がないっ……!」
狂乱状態に陥り、自分の顔を、目を爪で掻き毟ろうとする愛理。
その自傷行為を止めるため、優生は力任せに彼女の細い両手首を掴んだ。
「離して!!」
「離さない!!」
優生は、自分でも驚くほどの怒鳴り声を上げていた。
他人の感情に波風を立てることを何より恐れていた蒼井優生は、喉が千切れるほどの声で叫んでいた。
暴れる愛理の手首をしっかりと掴み、自分の胸の前に強く引き寄せる。彼女の体は熱で火のように熱く、そして小刻みに、ガタガタと激しく震えていた。
「価値がないなんて言わないでよ!俺が、お前と一緒にいたいから一緒にいるんだ!同情なんかじゃない!!」
その瞬間、優生の中で、これまで曖昧なままにしておきたかった全ての感情が、明確な一つの『輪郭』を結んだ。
ただの可哀想な同級生じゃない。
自分がヒーロー気取りで守るべき対象でもない。
俺は、不器用で、傷だらけで、自分を傷つけることしかできなくて、それでもどうしようもなく美しい彼女に——恋をしているのだ。
花火を言葉で伝えられなかった時のあの絶望的な無力感も。
彼女が他のクラスメイトと笑い合うのを見た時に感じる、腹立たしいほどの焦燥感も。
すべては、この瞬間のためにあったのだと感じた。
「星街。……愛理」
初めて、名前で呼んだ。
ピタリと、愛理の暴れる手が止まった。荒い息を吐きながら、彼女のすりガラスの瞳が、声のした優生の方を必死に探して彷徨う。
優生は、掴んでいた手首から手を離し、彼女の震える両手を、自分の両手でそっと、祈るように包み込んだ。
「俺は、愛理から離れない。お前が暗闇の中にいるって言うなら、俺がずっと隣でこうやって手を握ってる。お前が世界を嫌うなら、俺がその分、お前の世界に綺麗なものを持ってくる。愛理がこの世界を好きになるまで何度でも」
静かで、嘘のない、不器用な少年が涙ながらに絞り出した真っ直ぐな言葉。
「だから……もう、これ以上自分を責めないでよ」
愛理の目から、堰を切ったように新たな涙が溢れ出した。
彼女は、優生の温かい手にすがりつくようにして、額を優生の胸に押し当てて泣き崩れた。
「うわぁぁぁん……っ、あおい、くん……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
許しを乞うような、あるいは救済を求めるような嗚咽。
優生は何も言わず、彼女の背中に腕を回し、ただ彼女が泣き疲れて眠りにつくまで、その小さな体を強く、強く抱きしめ続けた。
窓の外では、夏が別れを告げるような冷たい雨が降っている。しかし、薄暗い部屋の中には、確かな熱が通い合っていた。
この日、優生は波風を立てることを恐れる傍観者から、一人の少女の壮絶な人生を共に背負う覚悟を決めた男へと、決定的な変貌を遂げたのだった。




