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愛理が泣き疲れて深い眠りに落ちた後も、優生はしばらくの間、床に膝をついたままその小さな手を両手で包み込むように握り続けていた。
荒かった呼吸が次第に規則正しい寝息へと変わり、火のように熱かった彼女の体温が、少しずつ平熱の穏やかさを取り戻していく。それを見届けてから、優生はそっと指を解き、彼女を抱き上げるようにしてベッドへと寝かせた。
乱れたタオルケットを首元まで掛け直す。暗い部屋の中で眠る彼女の顔は、先ほどまでの狂乱が嘘のように幼く、穏やかだった。目尻には涙の跡がこびりつき、呼吸をするたびに微かに胸が上下している。
優生は立ち上がり、音を立てないように気をつけて、部屋の片付け始めた。
床に散らばった鉛筆を拾い集めてペン立てに戻し、倒れたゴミ箱を起こす。そして、壁際に投げつけられていた『砂の海の星拾い』の文庫本を拾い上げた。表紙の端が少しだけ折れ曲がっていた。それを丁寧に指で伸ばし、机の上にそっと置く。
もう一度だけ彼女の寝顔を振り返り、優生は静かに部屋のドアを閉めた。
階段を降りて一階のリビングに向かうと、愛理の母親がダイニングテーブルの椅子に座り、祈るように両手を組んで待っていた。
「蒼井くん……愛理は?」
「……泣き疲れて、眠りました。熱も、だいぶ下がってきたみたいです」
優生が静かに答えると、母親は「よかった……」と深く息を吐き、糸が切れたようにへなへなと椅子の背もたれに体を預けた。
「愛理さんのお母さん」
優生は、リビングの入り口に立ったまま、真っ直ぐに母親の目を見た。
「俺、さっき愛理さんがパニックになっている時に……彼女の本音を聞きました。ご家族のことを俺みたいな他人が口出ししていいのか分からないけど……でも、お母さんには絶対に知っておいてほしいんです」
優生のただならぬ気配に、母親の顔に微かな緊張が走る。
優生は、拳を固く握りしめ、先ほど愛理が泣き叫びながら吐き出した、真っ黒で、痛ましいほどの呪詛の言葉を、一つ一つ包み隠さず伝えた。
自分がお出かけに行きたいと言ったせいで、事故が起きたこと。
自分が父親を殺したのだと、この一年半、絶え間なく責め続けていること。
そして——母親も本当は自分のことを憎んでおり、同情と義務感だけで世話をしていると思い込んでいること。
そんな自分を許せなくて、嫌いなことを。
話を聞き終えた母親の顔からは、完全に血の気が引いていた。
彼女はわなわなと震える両手で口元を覆い、ポロポロと大粒の涙を零し始めた。
「あの子……そんなこと、ずっと一人で抱え込んで……っ」
母親の悲痛な嗚咽が、静かなリビングに響く。
「違うの、違うのよ蒼井くん……。あの事故は、完全に相手のトラックの信号無視で、あの子のせいなんかじゃない。私たちがあの交差点を通らなくても、お父さんは……!」
「はい。でも、愛理さんの心の中では、そんな正論が通じないくらい、深い傷になっているんだと思います」
優生は、自分の声が微かに震えているのを感じた。
「愛理さんは、お母さんに嫌われるのが怖いんです。目が見えず、何もできない自分は、生きてる価値がないって、ずっと怯えてる。……どうか、お母さんの口から、直接言ってあげてください。彼女のせいじゃないって。彼女が生きているだけでいいって。......すみません、部外者が知った事のように言って」
母親は、ボロボロと涙を流しながら、何度も何度も力強く頷いた。
「……ありがとう、蒼井くん。あの子の心の奥底の声を聞いてくれて、私に教えてくれて、本当にありがとう。母親の私が、もっと早く気づいてあげなきゃいけなかったのに……」
「俺は、何もできてません。ただ、手を握ってただけです。……失礼します」
優生は深く頭を下げ、星街家を後にした。
玄関のドアを閉めて外に出ると、すっかり日の落ちた雨上がりの夜の冷たい風が、火照った頬を撫でた。
自転車に跨り、ペダルを漕ぎ出す。見上げれば、雲の隙間から星がいくつか瞬いていた。あの花火の夜のような、圧倒的で暴力的な光ではない。静かで、遠くて、厳かな微かな光。
優生は、ペダルを踏み込みながら、ただひたすらに祈った。
彼女の視界を塞ぐ、あの分厚いすりガラスが完全に割れる日が来ることを。
*
その日の夜、星街家の二階の部屋では、母と娘だけの静かな時間が流れていた。
夜勤のシフトを急遽代わってもらった母親は、愛理が目を覚ますまでの間、ずっとベッドの傍らに座り、彼女の小さな手を両手で包み込むように握り続けていた。
夜半過ぎ。日付が変わる頃になって、愛理が小さく呻き声を上げて目を覚ました。
「……お母、さん……?」
熱はすっかり下がり、愛理の意識ははっきりとしていた。しかし、自分が優生の前で取り乱し、部屋の物を投げつけ、ひどい言葉を叫んだ記憶が鮮明に蘇り、彼女は怯えたように体を縮こまらせた。
「愛理」
母親の優しく、けれど涙で震える声が響く。
「ごめんなさい……ごめんなさい、私……蒼井くんに、ひどいこと……」
「そうね、でもそれは蒼井くんに直接言いなさい。今はそれよりもね、愛理。お母さんも愛理に謝らないといけないの」
母親は、ベッドに潜り込むようにして、愛理の体をきつく、きつく抱きしめた。
「蒼井くんから、全部聞いたわ。……お父さんのこと、ずっと自分のせいだって責めてたのね。お母さんに憎まれてるって、そんなこと思わせてしまって、本当にごめんなさい」
愛理のすりガラスの瞳から、再び涙が溢れ出した。
「だって……私がいなければ、あんなことにならなかった……っ! 私が、お父さんを……っ!」
「違う!」
母親は、愛理の言葉をこれまでになく強い声で遮った。
「あの日、レストランに行こうって言ったのは愛理かもしれない。でも、あの道を運転しようって決めたのはお父さんよ。それにね、愛理。お父さんは、あなたを私たちを守ってくれたの」
「え……?」
愛理の動きが止まった。
「トラックが右側から突っ込んでくる瞬間、お父さん、咄嗟にハンドルを左に切ったの。自分が盾になるように、運転席側をトラックに向けたのよ。だから、助手席の私も、後ろのあなたも助かった。お父さんはね、最後に自分の一番大切なものを守り抜いたのよ」
それは、愛理がこれまで一度も聞かされていなかった事実だった。
衝撃を和らげるための、父の最後の愛情。
「愛理が生き残ってくれたこと。それが、お父さんの最後の誇りなの。だから、あなたが自分を責めて、自分を罰するように泣き続けることなんて、お父さんは絶対に望んでいないわ」
母親の温かい涙が、愛理の頬に落ちた。
「お母さんも同じよ。お父さんがいなくなって、毎日寂しくて、辛くて……でも、あなたがいてくれたから、今日まで生きてこられた。あなたが笑ってくれるだけで、ご飯を食べてくれるだけで、それだけでいいの。憎むわけないじゃない。私の、世界で一番大切な娘なんだから!」
「おかあさん……っ、おかあさぁん……!」
愛理は、母親の背中に両腕を回し、子供のように声を上げて泣いた。
見えない暗闇の中で、ずっと自分を縛り付けていた真っ黒な鎖。それは他でもない、愛理自身が作り出した『自責』という名の呪いだった。
私が生きていてもいい。
私は愛されている。
その確かな事実が、凍りついていた彼女の心を、内側から激しく溶かしていく。母娘は、これまでの失われた一年半の時間を埋めるように、朝が来るまで何度も互いの愛情を確かめ合い、涙を流し続けた。
*
奇跡は静かに訪れた。
泣き疲れて再び眠りに落ち、翌朝、窓の隙間から差し込む秋の朝日を感じて目を覚ました時だった。
愛理は、ゆっくりと重い瞼を開けた。
これまで彼女の視界を分厚く覆い尽くしていた、あの灰色の靄。
それが、まるで朝靄が太陽の熱に照らされて晴れていくように、ほんの少しだけ、薄くなっていることに気づいた。
「……あれ?」
完全にクリアになったわけではない。ピントは合わず、すべてがひどくぼやけている。
それでも、窓から差し込む『光』の白さが分かった。
自分に掛けられているベッドカバーの『青色』が分かった。
そして、傍らで疲れ果てて眠る母親の輪郭が、かすかな色彩を伴って彼女の目に飛び込んできたのだ。
「みえる……」
愛理は自分の顔の前に両手を持ってきた。
指の形が、ぼんやりとだが、見える。
心因性の視覚障害。自分自身で固く閉ざしていた世界の扉が、母の愛と赦し、そして、決して自分の手を離さなかった少年の熱によって、今、わずかに溶かされたのだった。
愛理の目から、昨日までとは違う、温かくて静かな涙が一粒だけ、頬を伝って落ちた。




