10
愛理が熱を出して学校を休んでから、三日が経過していた。
あの嵐のような夜から、優生はどこか夢見心地のような、それでいて足元がフワフワと浮き上がっているような、落ち着かない日々を過ごしていた。
あの日、自分は彼女の手首を掴み、泣き叫ぶ彼女を抱きしめた。そして、「ずっと隣にいる」と宣言してしまったのだ。事なかれ主義で、誰の人生の波風にも巻き込まれまいとしていた蒼井優生の面影は、もう自分の中には一ミリも残っていなかった。
後悔はしていない。だが、次に彼女と顔を合わせた時、どんな顔をして、どんな声で話しかければいいのか。それが分からず、優生は毎晩ベッドの中で一人悶々とシミュレーションを繰り返していた。
朝のホームルームが始まる五分前、優生が教室の後ろのドアから入ると、そこには目を疑うような異様な光景が広がっていた。
教室の一番後ろ、優生の隣の席。
数日ぶりに登校してきた愛理が座っているのだが、その机を囲むようにして、クラス中の生徒たちが幾重にも人垣を作っていたのだ。転校初日のような、遠巻きにしてヒソヒソと囁き合う「腫れ物」に対する空気ではない。純粋な驚きと、歓喜に満ちた騒ぎだった。
「えっ、マジで見えるようになったの!? すっげえ!」
「これ何本に見える!?」
「ちょっと男子、急に手出したら危ないでしょ!……星街さん、なんか雰囲気変わったね! そのメガネ、すっごく似合ってる!」
その輪の中心で、愛理は困ったように、けれど嬉しそうに笑っていた。
彼女の顔には、転校してきてから一度も見たことのない『赤いフレームのメガネ』がかけられていた。
優生が呆然と立ち尽くしていると、人垣の隙間からこちらを見た愛理が、「あ」と小さく声を上げた。
「蒼井くん……おはよう」
その声に、クラスメイトたちが一斉にモーセの十戒のごとく道を空け、優生の方を振り向く。
「おっ、蒼井じゃん! お前、星街さんのお見舞い行ったんだって?」
「愛理ちゃんから聞いたよー。蒼井くんと愛理ちゃんのお母さんがずっと傍にいてくれたおかげで、少し目が見えるようになったって!」
クラスのお調子者である佐藤をはじめとする男子たちが、冷やかし半分、賞賛半分で優生の背中をバンバンと叩いてくる。
「い、いや、俺は別に何も……」
優生が状況を飲み込めず、しどろもどろになっていると、予鈴のチャイムが鳴り響き、生徒たちは渋々ながら自分の席へと戻っていった。
優生はようやく自分の席に腰を下ろす。
そして、隣に座る愛理を、まじまじと見つめた。
赤いフレームのメガネ。それは少し度の入った乱視用のものらしく、レンズの奥の彼女の瞳は、以前のようなどこを見ているか分からない『すりガラス』ではなかった。まだぼんやりとしているのだろうが、必死に焦点を合わせようとする「意志の光」を確かに宿している。
「……見えるように、なったのか?」
優生が小声で尋ねると、愛理は頬をほんのりと赤く染めて、小さく頷いた。
「まだ、ぼんやりとですけど。強い光とか、色の違いとか、大きい文字の輪郭なら、少しだけ分かるようになりました。メガネは、少しでもピントが合うようにってお医者さんが……変、ですか?」
「変じゃない。すごく、似合ってる」
優生が即答すると、愛理は嬉しそうにメガネのブリッジを指で押し上げた。
「蒼井くん」
愛理は、優生の方に体を向け、レンズ越しの瞳でじっと彼を見つめた。
はっきりと見えているわけではないのだろう。それでも、彼女の視線は宙を泳ぐことなく、確かに『蒼井優生』という人間の輪郭と存在を捉えていた。
「あの日……手を握っててくれて、ありがとう。蒼井くんが怒ってくれなかったら、私、ずっと暗闇の中で自分を責め続けてたと思います。本当に、ありがとう」
真っ直ぐな感謝の言葉。あの日、自分の不器用な思いが、確かに彼女の分厚いすりガラスにヒビを入れたのだ。
優生は耳まで真っ赤になるのを感じ、わざとらしく視線を窓の外に逸らした。
「俺は、別に……大したことしてない。お母さんが一番頑張ったんだろ」
「ううん。蒼井くんがいなかったら、ダメでした。……あの時の言葉、忘れないから」
『俺はお前から離れない』。
自分の放ったクサい台詞を思い出して、優生は机に突っ伏したくなった。
昼休みの図書室。
いつもの奥のコーナーに二人で向かい合って座ると、優生はカバンから文庫本を取り出し、少しだけ寂しさを胸に秘めながら、わざと明るい声で言った。
「……文字の輪郭が見えるようになったってことは、『音読の会』は今日で終了だな。これからは、少しずつ自分で本が読めるようになるんだし」
あの図書室での二人きりの時間。それがなくなってしまうのは、身を裂かれるほど惜しかった。しかし、彼女の世界が広がり、自立への一歩を踏み出すのなら、自分の「声」という松葉杖は喜んで手放すべきだ。そう自分に言い聞かせていた。
しかし、愛理はムッと唇を尖らせて、首を横に振った。
「……やだ」
「えっ」
「まだ、小さい文字は全然読めないし……目を凝らすと、すぐに頭が痛くなっちゃうんです。それに」
愛理は、机の下で自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、上目遣いで優生を見つめた。
「私……まだ、不安だから。蒼井くんの声がないと、怖いから……。これからも本、読んでくれませんか?」
そんな顔で、そんな声で頼まれて、断れる男がこの世にいるだろうか。
「……そういうことなら。俺も、あの本の続き気になってたし」
優生がわざとらしいため息を吐き承諾すると、愛理は「やった!」と小さくガッツポーズをした。
しかし、再開された音読の会は、これまでとは決定的に空気が違っていた。
優生が本を読んでいる間、愛理はじっと、食い入るように優生の顔を見つめているのだ。
視力が少し戻ったことで、彼女は『音』だけでなく、『声を発している優生の表情』をぼんやりと認識できるようになった。つまり、これまでは見えないことをいいことに、優生が大げさな表情を作ったり、身振り手振りを交えたりして感情を込めていたその様が、今は筒抜けになっているのである。
「『……青年は、砂漠の夜風に吹かれながら、彼女の髪にそっと触れ、静かにこう言った。君を、一人にはしない』」
チラリと愛理を見ると、彼女は真剣な眼差しで優生の口元を見つめている。
(ちくしょう、めっちゃ見られてる……!)
『見られている』という強烈な自意識が、優生を激しく動揺させた。少しでもロマンチックな台詞や、照れくさい描写を読むたびに、顔が熱くなるのが自分でも分かる。
「……蒼井くん、どうしたの? なんだか、顔が赤いみたいだけど?」
愛理が小首を傾げて指摘する。
「な、なんでもない! 図書室、ちょっと暑いだけだ!」
「ふーん? 見えなくても、声が裏返ってるから分かってましたけど、見えるようになると、もっと面白いですね」
「お前なぁ……!」
見えない彼女の隣で平穏だった優生の日常は、彼女の視力が少し回復したことによって、ひどく甘酸っぱく、そして心臓に悪い日々へと変貌を遂げていた。
その日の放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、ロータリーに愛理の母親が車で迎えに来る姿が見えた。
「あ、お母さん」
愛理が手を振ると、母親は嬉しそうに小走りで駆け寄ってきた。
「愛理、お疲れ様。久しぶりの学校、疲れたでしょう。さ、帰ろうか」
「その、お母さん。私……今日から、歩いて帰りたい」
愛理の思いがけない言葉に、母親はハッとして顔を曇らせた。
「歩いてって……愛理、まだ白杖は手放せないし、完全に視界が戻ったわけじゃないのよ? 車がたくさん通る道は危ないわ」
母親の心配はもっともだった。見え始めたとはいえ、まだ彼女の世界はすりガラスから「度の合っていないカメラのレンズ」に変わった程度だ。一人で歩かせるには危険すぎる。
愛理が反論できずにうつむいた時、横からスッと、優生が前に出た。
「俺が、送り迎えします」
「蒼井くん……?」
「家、自転車ならすぐ近くですし。俺が自転車を押しながら、愛理さんの隣を歩いて帰ります。朝も、愛理さんの家の前で待ち合わせして、一緒に学校に来ますから。だから……一緒に歩かせてください。お願いします」
優生の真っ直ぐな言葉に、愛理はパッと顔を輝かせた。
母親は、目の前で決意に満ちた表情をしている優生と、期待に満ちた顔の娘を交互に見比べた。
かつて、この街に引っ越してきた日、娘は「どこに行っても同じだ」と絶望の底にいた。それが今、自分の足でこの街を歩きたいと願っている。その隣には、彼女を光へと導いてくれた不器用な少年がいる。
母親は、ふっと、心配と安心が入り混じったような、柔らかい笑みをこぼした。
「蒼井くん。あなたは本当に......。分かりました、愛理のことよろしくお願いします」
「はい!」
その日から、優生と愛理の、毎日の『登下校』が始まった。
秋の涼しい風が吹き抜ける通学路。
白杖のコツ、コツという音の隣には、いつも自転車を押しながら歩く優生の足音が寄り添っていた。
道端に咲く彼岸花の赤。高い秋の空の青。
レンズ越しのぼやけた世界でも、愛理にとってその道のりは、これまで生きてきたどんな景色よりも、眩しく、愛おしい色彩に満ちていた。
「蒼井くん、あそこの家の屋根、オレンジ色だね」
優生は何も言わない。ただ、隣を歩きクスっと笑う。
二人の影が、夕日を受けてアスファルトの上に長く、長く伸びていた。
それは、ただの同級生でもなく、まだ恋人でもない、二人だけの「新たな距離感」の始まりだった。




