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秋の深まりとともに、学校の敷地内に植えられた銀杏の並木が、葉の縁から鮮やかな黄金色に染まり始めていた。
登下校を共にするようになってから、優生と愛理の関係はクラスメイトたちの間でも「公認のペア」として完全に定着していた。以前のように腫れ物扱いされることも、冷やかしの標的にされることもない。朝、愛理の家の前で待ち合わせ、彼女の歩調に合わせて自転車を押しながら並んで歩く。放課後になれば夕暮れの長い影を二つ並べて、他愛もない話をしながら帰る。その当たり前の光景が、優生にとっても愛理にとっても、何物にも代えがたい大切な日課になっていた。
十月の中旬。学校全体が、秋の最大のイベントである『体育祭』に向けて浮き足立つ時期がやってきた。
放課後のグラウンドからは応援団の太鼓の練習の音が響き、教室内はクラスカラーのハチマキや応援グッズ作りに精を出す生徒たちの熱気に包まれていた。
しかし、その熱気の中で、愛理の立ち位置はひどく微妙なものだった。
視力が少し回復し、大きな物の輪郭や色がぼんやりと認識できるようになったとはいえ、まだ彼女は白杖を手放せない。激しく動き回る競技や、球技、徒競走などに参加するのは、怪我のリスクが高すぎる。体育教師も担任の鈴木も、愛理については「全種目見学」が妥当であると判断していたし、クラスの誰もがそれに異論を唱えることはなかった。
体育祭の出場種目を決める、ロングホームルームの時間。
黒板にはリレーや綱引き、玉入れなどの種目が書き出され、生徒たちが次々と希望の枠に自分の名前を書き込んでいく。
優生は適当な人数の足りない障害物競争に名前を書き、席に戻って窓の外を眺めていた。隣の席の愛理は、膝の上で両手を組み、クラスメイトたちが楽しそうに歓声を上げるのを、少しだけ寂しそうにレンズ越しの瞳で見つめている。
「……星街、退屈か?」
優生が小声で話しかけると、愛理はハッとして首を横に振った。
「ううん、退屈じゃないよ。みんなが楽しそうな声を聞いてるだけで、私も体育祭に参加してるみたいだなって」
そう言って笑う彼女の横顔に、優生はチクリと胸が痛んだ。
彼女は自分に言い聞かせているのだ。「見学で十分だ」「みんなの邪魔をしてはいけない」と。
黒板の枠が次々と埋まっていく中、男女ペアで行う『二人三脚』の枠だけが、最後に一つだけぽつんと空いていた。照れくささからか、誰もペアを組もうとしないのだ。
担任の鈴木が「誰か二人三脚出ないかー? くじ引きにするぞー」と声を上げた時だった。
「あのっ……」
静かな、けれどはっきりとした声が、教室に響いた。
愛理が、小さな右手を挙げて立ち上がっていた。
クラス中が一瞬にして静まり返り、全員の視線が彼女に集中する。鈴木が困惑したように眼鏡の位置を直した。
「……星街? どうした?」
「私……二人三脚に出てみたいです」
その言葉に、教室の空気がピーンと張り詰めた。
誰もが「危ない」「無理だ」と思ったはずだ。足元がおぼつかない彼女が、二人三脚というバランス感覚を要求される競技に出れば、転倒して怪我をするのは目に見えている。
「星街、気持ちはすごく嬉しいが……」
鈴木が言葉を濁しながら諭そうとする。
「足元が見えにくい状態で走るのは、やっぱり危ない。もし転んで怪我でもしたら大変だ。今回は応援に回ってくれないか」
正論だった。愛理もそれは分かっているのだろう。挙げた手が微かに震え、彼女はうつむいて唇を噛んだ。
「先生」
気がつけば、優生は席を立ち上がり、愛理の隣に並んで立っていた。
事なかれ主義で、教師に反抗することなど一度もなかった蒼井優生が、まっすぐに担任の目を見据えている。
「蒼井? お前もか」
「俺が星街さんのペースに合わせて走ります。だから……二人三脚、俺と星街さんで組ませてください」
教室の後方から、「おぉっ……!」とどよめきが上がり、佐藤たちがニヤニヤしながら「蒼井かっこいー!」と囃し立てた。
優生はもう顔色一つ変えなかった。隣で愛理が、赤いメガネの奥から驚きと喜びに満ちた瞳で自分を見上げている。それだけで、世界中の誰に何を言われようと構わなかった。
鈴木はため息をつき、頭を掻いた。
「……分かった。ただし、絶対に無理はしないこと。練習の時から気をつけるんだぞ」
「はい!」
愛理の弾むような声が、教室に響いた。
*
それからの放課後は、校庭の隅での二人三脚の特訓が日課となった。
他の生徒たちが部活や応援練習でグラウンドを使う中、二人は邪魔にならない体育倉庫の裏側のスペースで。
「い、いいか。結ぶぞ」
「うん。ゆるすぎない?」
「大丈夫だ。……じゃあ、肩組むから」
二人の内側の足を、一本の太い赤色の布紐で縛る。
互いの内側の肩に腕を回し、腰を密着させる。愛理の体温と、ふわりと香るいつもの甘いシャンプーの匂いが至近距離から漂ってきて、最初の数日間、優生は心臓が口から飛び出るほど緊張した。
愛理の細い腕が優生の腰にしっかりと回され、彼女の体重が少しだけ優生に預けられる。
「いくぞ。せーの、イチ、ニ、イチ、ニ……」
優生の掛け声に合わせて、右足、左足と踏み出す。
しかし、言うは易し。身長も歩幅も違う二人が息を合わせるのは普通でも難しいのに、視界がぼやけている愛理にとって、地面との距離感を測るのは至難の業だった。見えない空間に勢いよく足を踏み出すという行為は、本能的な恐怖を伴うはずだ。
「あっ!」
「うわっ!」
バタリと、土の上に二人揃って見事に倒れ込む。
「だ、大丈夫か星街!?」
優生が慌てて起き上がり、愛理のジャージの砂を払う。
「あはは、ごめんなさい! 私の足が出るのが遅かったみたい」
愛理は膝を擦りむいても楽しそうに笑っていた。
彼女は、自分が「体育祭の練習をしている」というその事実そのものが嬉しくてたまらないようだった。転校してきた頃の、暗闇の中で怯えていた少女の姿はない。彼女の瞳は、これまでのどんな時よりも生き生きと輝いていた。
優生は愛理の半歩先を意識し、彼女の足が引っかからないよう、自分の歩幅を極限まで彼女に合わせた。
彼女は優生の「声」と、腰に回された「腕の力加減」だけを頼りに足を前に出している。それは彼女が自分の体を、痛みを、すべて優生に委ねているという完全な信頼の証だった。
だからこそ、優生は絶対に彼女を不安にさせまいと、声を張り上げ続けた。
「イチ、ニ! イチ、ニ!」
転んで、笑って、土を払い、また紐を結び直す。
特訓を始めて一週間が過ぎた、ある日の夕暮れ。
秋の日は釣瓶落としで、西の空にはすでに赤紫色の夕焼けが広がっていた。
何度も転倒を繰り返し、息を切らした二人は、紐を解いて体育倉庫の入り口の小さな階段に並んで腰を下ろしていた。
「ふぅ……だいぶ、歩幅合ってきたな。今日は一回しか転ばなかったぞ」
優生は自動販売機で買ってきたスポーツドリンクのペットボトルのキャップを開け、愛理に手渡した。
「うん、ありがとう。……蒼井くんが、私の足が地面に着くタイミングに合わせて、腰を少し引き上げてくれてるの、分かるよ。すごく走りやすい」
愛理は両手でペットボトルを受け取り、こくこくと喉を鳴らして飲んだ。夕日に照らされた彼女の横顔には、疲労よりも充実感が滲んでいた。
「星街、膝の擦りむいたとこ、痛くないか? 絆創膏、貼り直すか?」
優生が尋ねると、愛理は膝をジャージの裾で隠すように引き寄せながら、少しだけ不満げに唇を尖らせた。
「……痛くないよ。それよりね、蒼井くん」
「ん?」
愛理は、ペットボトルを両手で持ったまま、赤いメガネの奥の瞳で、隣に座る優生をじっと見つめた。
「私、ずっと気になってたんだけど」
「なにが?」
「あの日……私のお家で、私がパニックになって泣いちゃった日。蒼井くん、私のこと『愛理』って呼んでくれたよね」
その言葉に、優生は飲もうとしていたスポーツドリンクを吹き出しそうになった。
「げほっ、ゴホッ! え、あ、いや、それは……!」
頭の奥が一気に沸騰したように熱くなる。あの時は感情が昂ぶっていて、無意識のうちに名前を叫んでいた。だが、翌日教室で会ってからは、照れくささと気恥ずかしさから、わざと元の「星街」呼びに戻して誤魔化していたのだ。
「なんで、また『星街』に戻っちゃったの?」
愛理が小首を傾げて、ずいっと顔を近づけてくる。
「い、いや! 学校だし! 周りの目もあるし、急に名前で呼んだら佐藤たちに絶対いじられるし……!」
「佐藤くんたち、今でも十分私とのこといじってるじゃない」
「いや、それはそうなんだけど……っ。ごめん、やっぱ俺が恥ずかしくて。急に馴れ馴れしいかなって……」
優生が頭を掻きむしりながら言い訳をすると、愛理はふふっと小さく笑い、それから少しだけ真剣な声のトーンになった。
「私は、嬉しかったよ」
「え……」
「暗闇の中で、蒼井くんが私の名前を呼んでくれて、手を強く握ってくれたから、私は戻ってこられたの。だからね……学校でも、私のこと、愛理って呼んでほしいな」
夕風が、二人の間を優しく吹き抜けていった。
愛理の瞳は、優生からの返事をじっと待っている。そこにはもう、他人の目を気にして壁を作っていたかつての彼女はいなかった。
彼女がこれほど真っ直ぐに向き合ってくれているのに、自分が逃げるわけにはいかない。
優生は何度か深呼吸をし、火照る頬を隠すのをやめて、彼女の目を見つめ返した。
「……わかった。……愛理」
その響きは、自分でも驚くほど優しく、そして自然に口からこぼれ落ちた。
愛理は、満開の秋桜のようにパッと顔を輝かせた。
「うんっ! ……ありがとう、優生くん」
「っ!」
不意打ちの「優生くん」呼びに、優生は心臓が肋骨を突き破るかと思うほどの動悸に襲われた。
「ず、ずるいぞお前、急に下の名前で……!」
「あはは、さぁ休憩終わり! もう一回走ろう、優生くん!」
愛理は立ち上がり、赤い布紐を手に持って楽しそうに笑った。
その日を境に、二人の間を隔てていた最後の薄い壁が完全に取り払われた。名前を呼び合うことで、二人の足並みは、まるで一つの生き物のように完璧にシンクロするようになっていった。
夕暮れのグラウンドに、二人の息の合った足音が響き渡る。
右、左、右、左。
もう転ぶことはない。互いの呼吸と、声と、腕の温もりだけを道標にして、愛理は薄暗い視界の中でも一切の迷いなく駆け抜けていく。
秋の高い空に一番星が瞬く頃、二人は泥だらけのジャージのまま、本番に向けての確かな手応えを胸に笑い合っていた。




