↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
盲目の君は何をみゆ  作者: 巫篠 美都瑠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/15

12

 体育祭本番。

 秋晴れの空の下、グラウンドには生徒たちの熱気が巨大な渦となって巻いていた。スピーカーからはけたたましい行進曲が絶え間なく流れ、クラスごとの応援団が打ち鳴らす太鼓の音が腹の底に響く。

 視界がぼやけ、音の洪水に飲まれそうになる愛理にとって、この空間は本来なら方向感覚を失うほどの恐怖の対象でしかないはずだった。だが、トラックのスタートラインに立つ彼女の横顔に、怯えの色は少しもなかった。隣には、自分を導く絶対的な熱源がある。

「愛理。紐、きつくないか? 痛かったら言えよ」

 優生は石灰の真っ白な線の手前でしゃがみ込み、自分と愛理の足に赤い布紐を巻きつけながら見上げた。

「うん、大丈夫。……優生くん、ほどけないように、しっかり結んで」

 優生は布の結び目をギュッと固く締め、立ち上がって愛理の肩に腕を回した。愛理もまた、優生の腰にしっかりと腕を回し、自分の体を彼に預ける。

 周囲には、他の五組のペアが並んでいた。陸上部同士のペアや、体格のいい男子ペアが、闘志剥き出しで屈伸をしている。その中で、白杖をテントに置き、優生としっかりと肩を組んで立つ愛理の姿は、ひときわ観客の目を引いていた。

 本部席のすぐ横では、仕事を休んで駆けつけた愛理の母親が、ビデオカメラを構えながら祈るように見つめているのが分かった。

「愛理。緊張してるのか?」

 周囲の喧騒を遮るように、優生が耳元で静かに名前を呼んだ。

 愛理は結ばれた足に一度視線を落とし、それから赤いメガネの奥の瞳で、優生を真っ直ぐに見上げて小さく微笑んだ。

「少しだけ。でも、優生くんが隣にいるから……全然、怖くないよ」

「よし。まぁ、順位のことよりもまずは楽しもうか」

「うん!」

 スターターの教師が、ピストルを天に向けた。

「位置について」

 グラウンドの喧騒が、一瞬だけ波を打ったように静まり返る。

 張り詰めた空気。優生は、愛理の腰に回した手に少しだけ力を込めた。愛理もまた、優生のTシャツの布地をぎゅっと握りしめる。

 パーン!

 火薬の匂いと共に、乾いた号砲が秋空に響き渡った。

「いっち、に!いっち、に!」

 優生の大声に合わせて、二人は同時に足を蹴り出した。

 ザッ、ザッ、とグラウンドの砂を蹴る音が響く。他のペアが、土埃を上げて猛スピードで飛び出していく。それに比べれば、優生と愛理のペースは決して速くはなかった。

 しかし、二人の足取りは一度も乱れることなく、規則正しく前へと進んでいく。

 右、左、右、左。

 愛理の足が、優生の足と完璧にシンクロする。

 レンズ越しのぼやけた世界で、愛理の目には白線の輪郭も、周りのランナーの姿も、色とりどりの滲んだ塊にしか見えていない。だが、彼女の耳には優生の「いっち、に」という力強い声が真っ直ぐに届き、腰には優生の確かな腕の引き上げを感じていた。

 彼女は、完全に優生を信じ切っていた。

 目が見えなくても、優生の声さえあれば、どこまででも走っていける。誰の助けを待つだけの腫れ物ではなく、自分の足で大地を蹴り、風を切り、光の中を疾走している。風を受けてなびく黒髪と、汗で輝く彼女の横顔は、秋の太陽を受けて美しく、誇り高く輝いていた。

「いけーっ!蒼井くん!星街ちゃん!」

「そのまま!ペース崩すなーっ!!」

 トラックの周りから、クラスメイトたちの割れんばかりの声援が飛ぶ。

 中盤。グラウンドの僅かな窪みに、愛理の足が取られそうになった。

「あっ——」

 バランスが崩れかける。これまでの練習なら、間違いなく転倒していた場面だ。見えない足元への恐怖がフラッシュバックし、愛理の体がこわばる。

 だが、優生はとっさに腰に回した腕を強く引き寄せ、強引に愛理の体を支え上げた。

「大丈夫!!」

 優生の太い声と、腰を抱き寄せる強い力。愛理はパニックになることなく、優生の腕の力に身を委ね、空いた片足で強く地面を蹴り直した。

 体勢が、見事に持ち直す。

「イチ、ニ!イチ、ニ!」

 立ち止まることなく、再び二人のリズムが重なり合う。

 焦ってペースを乱した他のペアが途中でバランスを崩して転倒していく中、二人は一度の転倒も許さず着実に順位を上げ、最後の直線に入った。

「愛理、あと少し!このままいくぞ!」

「うんっ!!」

 周囲の歓声が、まるで遠い波の音のように後退していく。

 優生にはもう、ゴールテープの白い線と、隣で必死に息を吸い込む愛理の熱しか感じられなかった。

 二人はそのままの勢いで、歓声の渦の中、ゴールテープへと飛び込んだ。

 結果は、六組中三位。

 優勝でもなければ、クラスの得点に大きく貢献するわけでもない、ごく平凡な順位だった。

 しかし、ゴールを駆け抜け、勢いを殺しきれずに立ち止まった瞬間。

 愛理は結ばれた足の紐もそのままに、優生の首に両腕を回し、しがみつくようにして飛びついた。

「走れた……!優生くん、私最後まで走れたよっ!」

「おう!すごいよ愛理、一回も転ばなかったな!」

 勢い余ってグラウンドに倒れ込みそうになる愛理を、優生はしっかりと抱きとめた。

 優生の腕の中に収まる彼女の小さな体が、全力疾走の後の激しい呼吸で脈打ち、熱を放っている。首元からは汗の匂いと、土埃の匂い、そしていつものシャンプーの匂いが混ざり合って昇ってくる。

 クラスの応援席から「お疲れー!」「ナイスラン!」と大きな拍手が湧き起こり、遠くで愛理の母親がハンカチで涙を拭ってるのが見えた。

 愛理は優生の胸元に顔を埋めたまま、メガネのレンズをくもらせて、泣き笑いのような最高の表情を浮かべていた。

「ありがとう、優生くん……!私、すごく、すごく嬉しい!」

 優生は、砂だらけになった彼女の背中を、愛おしさを込めて優しく叩いた。

 見上げれば、吸い込まれそうなほど高く、青い秋の空が広がっていた。

 彼女の不自由な視界を補って余りあるほどの熱と信頼が、二人の間には確かに存在していた。彼女と一緒に走るこの足跡が、どこまでも続いていくような、そんな確かな予感が優生の胸を満たしていた。

     *

 体育祭の興奮が冷めやり、秋がさらに深まった十一月。

 朝夕の冷え込みが厳しくなり、通学路の木々が赤や黄色に美しく色づく季節になっていた。

 この時期、優生と愛理は週末になると、連れ立って少し遠出をするようになっていた。愛理の「色んな景色を見てみたい」という願いを叶えるため、優生が電車で数駅離れた場所にある大きな植物園や、紅葉が綺麗な公園などをリサーチして案内するのだ。

 この日も二人は、県内でも有数の紅葉スポットとして知られる、湖畔の大きな自然公園を訪れていた。

 愛理は、クリーム色のダッフルコートに、赤いタータンチェックのマフラーをふんわりと巻き、いつもよりも少しだけ大人びた装いで来ていた。足元は歩きやすいスニーカーだが、髪の毛は毛先が少しだけ内巻きにカールされており、明らかに朝の準備に時間をかけていることが窺えた。

「うわぁ……すごい、すごく綺麗」

 落ち葉が絨毯のように敷き詰められた遊歩道を歩きながら、愛理は何度も空を見上げて感嘆の声を漏らした。

 まだ細かい葉の形や遠くの景色はぼやけているはずだが、視界いっぱいに広がる強烈な「色彩のコントラスト」は、彼女の目にも鮮やかに飛び込んでいるようだった。

「今年は寒暖差が激しかったから、特に色が濃いらしいぞ」

 優生は、愛理が木の根や石につまずかないよう、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら、周囲の景色を言葉で補足していく。

「右側には大きな湖があって、水面が太陽を反射してキラキラしてる。水鳥が何羽か泳いでて……で、俺たちの頭の上は、全部モミジの真っ赤なアーチだ」

「モミジのアーチ……」

 愛理は足を止め、両手でメガネのブリッジを少し押し上げて、眩しそうに目を細めた。

 赤いレンズの奥の瞳に、燃えるようなモミジの赤が反射している。その横顔があまりにも絵画のように美しくて、優生は思わず言葉を失って見とれてしまった。

「……優生くん?」

「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。寒くないか?手、冷たくなってるぞ」

 優生が誤魔化すように言うと、愛理は少しだけ首をすくめて笑った。

「うん、少しだけ風が冷たいかも」

「ちょっと待ってろ、あそこの売店で何か温かいもの買ってくるから。そこのベンチに座ってて」

 優生は愛理を湖畔のベンチに座らせると、小走りで売店へと向かった。

 戻ってくると、両手には湯気を立てるホットココアの紙コップが握られていた。

「はい、これ。気をつけて、熱いから」

「わぁ、ありがとう。あったかい」

 愛理は両手で紙コップを包み込むように持ち、ふーふーと息を吹きかけてから一口飲んだ。「あまーい」と顔を綻ばせる姿は、年相応の無邪気な女の子そのものだった。

 優生も隣に腰を下ろし、自分のココアを一口飲む。

 カサカサと風に吹かれた落ち葉が鳴る音と、遠くで水鳥が羽ばたく音。

 静かで、穏やかな時間が流れていた。

「……ねえ、優生くん」

 愛理が、紙コップを見つめたままぽつりと呟いた。

「私ね、事故に遭ってから……世界は、もう真っ暗で、冷たくて、怖いだけの場所だと思ってた」

 彼女の声は、落ち葉が舞うように静かだった。

「でも、優生くんが私の隣で本を読んでくれて、色んな景色を声で教えてくれて。……少しだけ目が見えるようになってからは、こうやって、色んな場所に連れ出してくれた。優生くんと一緒にいると、世界はすごく暖かくて、綺麗な場所なんだなって思えるの」

 愛理は顔を上げ、赤いメガネの奥の瞳で、優生を真っ直ぐに見つめた。

「私を、外の世界に連れ出してくれて……本当に、ありがとう」

 その瞳の奥にある、痛いほどの純粋な好意と信頼。

 優生は、心臓が早鐘のように鳴り始めるのを感じた。

 ベンチに並んで座る二人の距離は、ほんの数十センチ。愛理のダッフルコートの袖が、優生の腕に微かに触れている。彼女の吐く白い息が、優生の顔に届きそうなほど近い。

 視線を逸らすことができなかった。愛理もまた、優生から目を離さない。

 あと少し顔を近づければ、唇が触れてしまうのではないか。

 そんな錯覚に陥るほどの、甘く、張り詰めた沈黙。

「あ……えっと……」

 優生は、耐えきれなくなって慌てて視線を湖の方へと逸らし、手元のココアを無意味に揺らした。

「お礼を言うのは俺もだよ。俺の方こそこんな良い景色を見せてくれてありがとう」

 顔から火が出るほど熱かった。

 愛理はふふっと小さく笑い、それ以上距離を詰めることはしなかったが、彼女の肩が優生の肩に、ほんの少しだけ体重を預けるように触れた。

「優生くんって、本当に優しいね」

 秋の木漏れ日の下、二人は並んでココアを飲みながら、言葉以上の確かな温もりを分かち合っていた。

     *

 十一月の穏やかな日々が過ぎ、木枯らしが最後の枯れ葉を吹き飛ばす頃。

 季節は足早に冬へと滑り込んでいった。

 十二月。街中の街灯にはクリスマスのイルミネーションが灯り、吐く息が白く濁る季節。

 高校生たちにとっても冬休みとクリスマスの浮ついた空気が漂う中、優生はクリスマスイブの夜、星街家のリビングに招かれていた。

「さあさあ優生くん、遠慮しないで食べてね! 今日は奮発してケーキも二つ買っちゃったんだから!」

 愛理の母親は、テーブルの上に並んだローストチキンやピザを前に、上機嫌で缶ビールを開けていた。すっかり優生とも打ち解け、今では彼を下の名前で呼ぶようになっている。

 リビングには小さなクリスマスツリーが飾られ、チカチカと赤や緑の豆電球が瞬いている。愛理は白いタートルネックのニットを着て、ツリーの明かりをぼんやりと眺めながら、穏やかに微笑んでいた。

「お母さん、もう三本目だよ。飲みすぎじゃない?」

「いいのいいの! 今年は本っ当に、奇跡みたいな一年だったんだから。お父さんも天国で一緒に乾杯してるわよ」

 温かい部屋で、他愛のない冗談を言い合いながら過ごす時間。

 優生にとっても、これほど心温まるクリスマスは生まれて初めてだった。

 やがて食事が一段落し、愛理が「お茶淹れてきますね」と立ち上がってキッチンへ向かった時のことだった。

 すっかり顔を真っ赤にして酔っ払った母親が、テーブルに身を乗り出し、優生の肩をペシペシと叩いてきた。

「ねえ、優生くん……」

「はい、なんでしょう」

「あの子ね、最近すっごく変わったと思わない?」

「そうですね。すごく明るくなったし、学校でも楽しそうにしてます。休みの日に遊びに行く時も、すごく元気に歩き回ってますよ」

「それだけじゃないのよー」

 母親はニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべ、優生の耳元に顔を寄せた。

「最近ね、朝の身支度が長くて長くて。『このリップの色、変じゃない?』とか『髪型、どっちが可愛い?』とか、毎日私に聞いてくるの。前までは鏡の前に立つことすら嫌がってたのに。……ねえ、優生くん。誰のためにそんなにお洒落してると思う?」

「えっ……そ、それは……」

 十一月の紅葉公園で、少しだけ内巻きにカールされていた彼女の髪を思い出し、優生の心臓がドキンと跳ねた。

「あの子、完全に優生くんに恋してるわよ。酔っ払いの勘だけどね、母親の目は誤魔化せないわ。ふふ、青春ねぇ〜」

「お、お母さん!ちょっと、何言ってるんですか!」

 優生は顔から火が出るほど赤くなり、手を激しく横に振った。

 ちょうどその時、愛理がお盆にマグカップを乗せてリビングに戻ってきた。

「お待たせしました。……あれ?優生くん、どうしたの?顔、真っ赤だよ?」

「な、なんでもない!暖房が効きすぎてるだけ!」

 愛理の母親は「あはは!」と大笑いしながらソファに倒れ込み、少ししたらそのまま寝息を立て始めた。

 その夜、星街家を出て自宅へと歩く帰り道。

 冷たい夜風が優生の火照った頬を叩いても、胸の奥の激しい動悸は一向に収まらなかった。

 恋をしている。

 母親のあの酔っ払いの戯言が、呪文のように優生の頭の中を木霊していた。

(まさか……本当に?愛理が、俺を……?)

 自惚れるな、と理性が激しくブレーキをかける。彼女はただ、暗闇から救ってくれた自分に恩義を感じているだけかもしれない。精神的な依存と恋を取り違えているだけかもしれない。

 だが、もし本当に彼女が自分に特別な想いを抱いてくれているとしたら——。

 その日を境に、優生の中で決定的な「狂い」が生じ始めた。

 冬休みに入り、学校が休みになると、優生は愛理とどう接していいのか分からなくなってしまったのだ。

 自分はすでに、彼女を異性として恋していることを自覚している。しかし、これまでは「助ける側と助けられる側」「本を読む人と聞く人」という安全な防壁の中に隠れていられた。

 だが、お互いに好意を持っているかもしれないと意識した瞬間、いつものように彼女の家に遊びに行くことすら、後ろめたく、気恥ずかしく思えてしまったのだ。

 もし告白して、勘違いだったら?

 今の心地よい関係が壊れ、彼女を再び孤独の中に突き落としてしまったら?

 臆病な優生は、冬休みの間、愛理からの「次はいつ読みますか?」というメッセージに「少し年末の用事があって」と言い訳をし、彼女と会うのを意図的に避けてしまったのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。