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八月中旬。
お盆を過ぎても一向に衰えを見せない猛暑が、アスファルトに深い陽炎を揺らめかせていた。
日が落ち始め、空が燃えるような茜色から深い藍色へと沈んでいく逢魔が時。駅前のロータリーには、近所の大きな神社で開催される夏祭りに向かう人々が、光に群がる羽虫のように吸い寄せられていた。
遠くから風に乗ってお囃子の笛の音と、腹の底に響く太鼓のリズムが聞こえてくる。夕立がアスファルトを冷やした後の湿った土の匂いに、甘い香りや焦げたソースの匂いが混ざり合い、街全体が浮き足立った非日常の熱気を帯びていた。
駅前の時計台の下で、蒼井優生は落ち着かない様子で何度も足踏みを繰り返していた。スマートフォンを取り出して時間を確認し、すぐにポケットにしまう。それをもう十回は繰り返している。
「……やっぱ、浮いてるよな」
優生は、自分の服装を見下ろして小さくため息をついた。無地の白いTシャツに、履き慣れた色落ちしたジーンズ。いつも通りの、無難で目立たない格好だ。
今日、星街愛理は「浴衣を着ていく」と言っていた。彼女がお祭りのために特別な装いをしてくるというのに、自分がこんな気の抜けた普段着でいいはずがないのではないか。甚平くらい買っておくべきだったか。いや、自分はあくまで視覚を持たない彼女を安全に案内するための「エスコート役」であり「杖の代わり」なのだから、動きやすさを最優先したのだ、と頭の中で言い訳を反芻する。
待ち合わせの十分前。
ロータリーの向こう側に、見覚えのある白い乗用車がハザードランプを点滅させて停車した。
助手席のドアが開き、小柄な人影が降り立つ。
愛理だった。
「……っ」
優生は無意識のうちに息を呑み、足の裏が地面に縫い付けられたように動けなくなった。周囲の喧騒が、一瞬にして遠のいていく感覚があった。
愛理は、夜空のように深い紺色を基調とし、大ぶりの朝顔が白く抜かれた美しい浴衣に身を包んでいた。普段は下ろしている肩口までの黒髪は、綺麗なうなじを見せるようにふんわりとまとめられ、一輪の赤い花の髪飾りが挿されている。帯も鮮やかな真紅で、彼女の抜けるように白い肌をより一層際立たせていた。
ほんのりと薄紅色の口紅が引かれた唇。
そして、その手に握られた真っ白な杖。
見えない彼女が、この日のために母親と一緒に浴衣を選び、髪を結ってもらい、少しだけ背伸びをしてここに立っている。
鏡で自分の姿を確認できない彼女が、優生と歩く夏祭りのために、どれほどの時間をかけて準備をしてくれたのか。それを想像しただけで、優生の胸の奥がきゅうっと締め付けられるように痛んだ。
愛理の母親が運転席から降りてきて、愛理の肩にそっと手を添えながら、ゆっくりと時計台の方へ歩いてくる。
優生は慌てて我に返り、二人の元へ小走りで駆け寄った。
「星街さん、お母さん、こんばんは」
優生の声に、愛理の肩がビクッと跳ね、すぐにパッと大輪の花が咲いたような笑顔が広がった。
「蒼井くん。こんばんは……待たせちゃいましたか?」
「いや、俺も今来たとこ。……その」
優生は、愛理の浴衣姿を上から下まで見つめ、大きく喉仏を上下させた。気の利いた比喩など探している余裕はなかった。
ただ、思った通りの言葉が勝手に口から滑り出ていた。
「すごく似合ってる。綺麗だ」
愛理の頬が、夕焼けよりも鮮やかな赤に染まる。彼女は照れ隠しのように、左手に持っていたちりめんの巾着袋を両手でギュッと握りしめ、少しだけうつむいた。
「……本当、ですか? お母さんが、蒼井くんが好きそうな色にしなさいって言って、一緒に選んでくれて」
「ちょっと愛理、それ内緒って言ったじゃない!」
隣で母親が苦笑いしながら娘の肩を軽く叩いた。
「蒼井くん、今日は本当にありがとう。この子、お祭りなんて事故に遭ってから一度も行ってないから……人混みで迷惑をかけるかもしれないけど、どうかよろしくお願いします」
「迷惑だなんて思ってないです。絶対、はぐれないようにちゃんと見てますから」
優生が力強く頷くと、母親は安心したように微笑み、「じゃあ、帰りはまた迎えに来るから連絡してね」と言い残して車へと戻っていった。
残された二人は、少しだけぎこちない沈黙の後、連れ立って神社へと続く参道に向かって歩き出した。
神社の境内へと続く道は、すでに想像以上の人でごった返していた。
赤や黄色の提灯が頭上を覆い尽くすように連なり、道の両脇には無数の屋台がひしめき合っている。行き交う人々の笑い声、屋台の発電機が発する低周波の唸り、店主たちの威勢のいい呼び込み、鉄板で肉が焼けるジュージューという音、そして四方八方から迫り来る無数の足音。
普通の高校生にとっては胸が躍るこの喧騒も、視覚を持たない愛理にとっては、暴力的なまでの『ノイズの濁流』だった。
愛理の白杖を突くリズムが、明らかに乱れ始めていた。
すれ違った中学生の集団の一人が愛理の肩にぶつかりそうになり、優生はとっさに彼女の肩を抱き寄せて庇った。
「あっ……ご、ごめんなさい」
愛理は怯えた小動物のように身を縮ませ、すりガラスの瞳をあてもなく泳がせた。彼女の呼吸が少し浅く、早くなっているのが分かる。足元がどうなっているかも分からない暗闇の中で、全方位から自分に向かって人が押し寄せてくる恐怖は、優生の想像を絶するものだろう。
これでは、お祭りを楽しむどころではない。
優生は道の端に寄り、愛理の方へ向き直った。
「星街さん。白杖、しまおう」
「え……?」
「この人混みじゃ、杖を突くスペースもないし、逆に誰かに蹴飛ばされたりして危ない。だから、今日は俺が杖の代わりになる。俺の腕、しっかり掴んでて」
優生はそう言って、自分の右腕を彼女の前に差し出した。
愛理は一瞬戸惑ったように顔を上げたが、やがて白杖を折りたたんで巾着袋にしまい、そっと手を伸ばした。
彼女の細い両手が、優生の二の腕をしっかりと掴む。彼女の指先は微かに震えていたが、Tシャツ越しに伝わってくるその体温はひどく熱を帯びていた。
「俺の歩幅に合わせれば、絶対に転ばない。ぶつからないように俺が盾になるから、周りの音も気にしなくていい。俺の声だけ聞いてて」
「……はい」
愛理の震えが、少しだけ収まった。
優生は彼女の手の温もりを右腕に感じながら、再びゆっくりと歩き出した。彼女が歩きやすいように、普段の半分の歩幅で、すり足気味に進む。
「今、焼きそばの屋台の前を通ってる。ソースのいい匂いするでしょ?」
「はい……すごく、お腹が空く良い匂いです。鉄板とヘラがカチャカチャ鳴ってる」
「その隣がヨーヨー釣り。水に浮かんだ色とりどりの風船を釣るやつだ。星街さんの浴衣みたいな、綺麗な紺色とか、赤、それに黄色がある。水が跳ねてキラキラしてる。……その次が、りんご飴」
優生は、目に入るすべての景色を、隣を歩く彼女のために言葉に変換していった。ただの事務的な情景描写ではない。彼女の脳内に、この熱気と色彩を送り届けるための『リアルタイムの朗読』だった。
図書室でファンタジー小説を読んでいた時のように、優生は声のトーンを弾ませ、目の前の光景を鮮やかに、そして丁寧に語った。
次第に、愛理の強張っていた表情がほぐれ、あの花のような笑顔が戻ってきた。
「あっ、蒼井くん。今、左側からすごく甘い匂いがしました。ベビーカステラですか?」
「大正解。すごいな、よく分かったな」
「匂いと、あとは鉄板に生地を流し込む音が聞こえたから。……ふふっ、なんだかすごく楽しいです。蒼井くんの声が、景色を見せてくれますから」
腕に掴まる彼女の力が、安心したように少しだけ強くなった。頼られている。自分の声が、彼女の暗闇を鮮やかに彩っている。その事実が、優生をヒーローになったような気分にさせた。
二人はりんご飴を一つ買って分け合い、飴のパリッとした食感と甘酸っぱさを笑い合いながら堪能した。 射的の屋台では、優生が身を乗り出してコルク銃を構えた。
「右から三番目の、うさぎのぬいぐるみ狙うから」
「頑張って、蒼井くん!」
パン、という乾いた音と共に、見事に景品が後ろに倒れた。
「はい、取れたよ」
「わぁ……! すごい! これ、うさぎですか?ふわふわしてる」
優生が手渡した小さなうさぎのぬいぐるみを、愛理は愛おしそうに両手で包み込み、自分の頬にすりすりと押し当てた。
音と、匂いと、触覚。視覚がなくても、優生が隣で言葉を添えれば、彼女はこの世界を十分に楽しむことができる。自分がいれば、彼女を恐怖から連れ出してやれる。
優生はこの時間が永遠に続けばいいと、心から願っていた。しかし、無情にもその時は訪れた。
夜の帳が完全に下り、提灯の明かりだけが境内を妖しく照らし出す午後八時。
ドーン、という腹の底を揺らすような重低音が、突如として夜空に響き渡った。
「あっ……」
愛理が、空を見上げた。
夏祭りのクライマックスである、打ち上げ花火が始まったのだ。
周囲の人々が一斉に足を止め、歓声を上げて夜空を見上げる。優生もまた、夜空に咲いた大輪の赤い花火に目を奪われた。
ヒュルルル、ドーン!
立て続けに打ち上がる極彩色の光。赤、青、緑、そして黄金色の尾を引いて枝垂れ柳のように落ちていく光の粒。音の振動が、空気を震わせ、皮膚を直接叩く。
優生は、「綺麗だぞ」と声をかけようと隣の愛理へと視線を戻し——そして、息を呑んだ。愛理もまた、周囲の人々と同じように空を見上げていた。
しかし、その顔に浮かんでいたのは、屋台を巡っていた時のような無邪気な笑顔ではなかった。
ひどく無表情で、空虚な横顔。
彼女のすりガラスのような瞳には、夜空を彩る眩い光は一切映っていない。彼女の耳に届いているのは、空気を震わせる暴力的な破裂音だけ。鼻腔を突くのは、火薬の焦げたむせ返るような匂いだけだ。
ドーン!と花火が弾けるたびに、その強烈な光が彼女の白い横顔を赤や青に照らし出す。それは残酷なほど美しく、そして、彼女がこの光を永遠に見ることができないという事実を、これ以上ないほど鮮明に浮き彫りにしていた。
周囲の人達が「綺麗だね」「すごいね」と歓喜を分かち合うその空間で、彼女だけが、その理由を共有できずに一人、暗闇の中に取り残されていた。
「あ……えっと、星街さん」
優生は慌てて言葉を探した。屋台の時のように、自分が言葉で景色を伝えてやらなければ。彼女を一人にしてはいけない。
「今のは、えっと、赤い花火だ。大きく丸く広がって、最後は星みたいに下に落ちていって……。次は、青と緑が混ざったようなやつ。すごく明るくて、その......周りの雲まで一瞬だけ青く見えて——」
だが、言葉を紡げば紡ぐほど、優生は絶望的な無力感に苛まれていった。
りんご飴の赤や、ヨーヨーの青なら伝えられる。それらは触れることができ、味や形として彼女の内に実在するからだ。しかし、夜空という広大な空間で、光の残像が描く一瞬の芸術を、視覚を持たない彼女にどうやって「言葉」だけで伝えればいいというのか。
『赤い光』『丸く広がる』『明るい』。
そんな陳腐な言葉を並べ立てても、今目の前で弾けている花火の圧倒的なスケールと美しさの百分の一も伝えられない。自分の声が、ひどく空虚な記号となって夜空に吸い込まれていくのが分かった。
優生が必死に言葉を探して沈黙したその時。
「……すごい音、ですね」
愛理が、ぽつりと呟いた。
優生の声に被せるように放たれたその言葉には、無理に作ったような微かな笑みが張り付いていた。
「空気が、ビリビリって震えてるのが分かります。火薬の匂いも、なんだか、懐かしい……。すごく、綺麗なんだろうな」
彼女は、優生に気を遣っていた。
言葉に詰まる優生の焦りと無力感を察取り、自分が音と匂いだけで楽しんでいるフリをして、優生を安心させようとしているのだ。
そのいじらしい優しさが、今の優生にとっては鋭いナイフのように胸を抉った。
自分がいれば、彼女を暗闇から連れ出してやれると思っていた。自分の声があれば、彼女の世界を色鮮やかに染め上げることができると、思い上がっていた。
だが、現実は違う。
視覚という絶対的な壁の前に、優生の言葉はあまりにも無力だった。
ドーン、ドーンと絶え間なく打ち上がる花火の光に照らされるたび、愛理の顔に濃い影が落ちる。光が強ければ強いほど、彼女の孤独の影は色濃く、深く刻み込まれていくようだった。
「……帰ろうか」
優生は、ひどく掠れた声で言った。
「え……でも、まだ花火、始まったばかり……」
「俺が、ちょっと人混みに酔っちゃったみたい。ごめん。……駅まで、戻ろう」
優生は自分の無力さから逃げるように、嘘をついて彼女の腕を引いた。
愛理は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに「うん」と小さく頷き、再び優生の腕をしっかりと掴んだ。
背後で華やかに弾ける花火の歓声を背に受けながら、二人は来た道を戻っていった。
行きに感じたあの万能感は、もう微塵も残っていなかった。右腕に感じる愛理の体温だけが、唯一の現実だった。
迎えに来た母親の車に乗り込む前、愛理は「今日は本当に楽しかった。ありがとう、蒼井くん」と天使のように微笑んだが、優生にはそれが、分厚いすりガラスの向こう側から必死に送られたSOSのように見えてならなかった。
優生は、自分の無力さを噛み締めながら、遠ざかる車のテールランプが見えなくなるまで、その場に立ち尽くすしか出来なかった。




