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七月二十日。
一学期の終業式を迎え、学校中が明日から始まる約四十日間の夏休みへの解放感に沸き立っていた。
容赦なく照りつける真夏の太陽が、校庭の土を白く焼き焦がしている。開け放たれた窓からは、ミンミンゼミとアブラゼミの鳴き声が、まるでシャワーのように教室内へと降り注いでいた。
ホームルームが終わり、生徒たちが「海に行こうぜ」「バイト探さなきゃ」と口々に騒ぎながら足早に下校していく中、優生と愛理はいつも通り、図書室の奥のスペースへと向かっていた。
しかし、今日の二人の間には、いつものような穏やかな空気は流れていなかった。
一学期最後の『音読の会』。
今読んでいるファンタジー小説の第二巻が、ちょうど昨日の昼休みで終わってしまっていた。優生がカバンから取り出した新しい文庫本を机の上に置いても、愛理は両手を膝の上で固く組んだまま、どこか上の空だった。
「……星街さん?」
優生が声をかけると、愛理はビクッと肩を揺らし、すりガラスのような瞳を伏せた。
「あっ……ごめんなさい。なんだか、少しぼーっとしてしまって」
「具合でも悪いの? 今日はやめとく?」
「違います、具合が悪いわけじゃなくて……その」
愛理は言い淀み、キュッと唇を噛んだ。彼女の細い指先が、スカートの裾を無意識に握りしめている。その仕草は、優生が初めて彼女の涙を見た、あの雨の日の放課後を思い起こさせた。
「明日から、夏休みですね」
ぽつりと、愛理が呟いた。
「……うん。そうだな」
「夏休みになったら……もう、図書室には来られないから。蒼井くんの朗読、しばらく聞けなくなっちゃうなって、思って」
それは、ひどく心細げな声だった。
彼女にとって、優生の声で紡がれる物語は、暗闇に閉ざされた世界に差し込む唯一の光の糸だったのだ。夏休みという長期休暇は、普通の学生にとっては天国でも、彼女にとっては再びあの「音のない孤独な部屋」へと引き戻される、残酷な断絶を意味していた。
一ヶ月以上、物語の世界から切り離されてしまう恐怖。そして何より、優生との繋がりが切れてしまうことへの不安が、彼女の顔に暗い影を落としていた。
優生は、机の上に置いた文庫本の表紙を指先で軽く叩いた。
ここ数日、優生も同じことを考えていた。学校という「偶然を装える接点」がなくなれば、自分が彼女に会う口実はなくなってしまう。
だが、優生の覚悟は、すでに夕暮れの廊下で決まっていたはずだ。
言い訳など、いくらでも作ればいい。
「……星街さんのお母さんって、夏休みも仕事?」
「え? あ、はい。お盆に数日お休みがあるくらいで、基本的には平日もお仕事ですけど……」
「そっか。じゃあ、昼間は星街さん家に一人なんだね」
優生は、大きく深呼吸をして、心臓の鼓動を落ち着かせた。
「あのさ。もし星街さんが嫌じゃなければ……俺が星街さんの家に本、読みに行こうか?」
図書室の空気が、ピタリと止まった。
愛理は、目を丸くして、信じられないものを見るかのように優生の声がした方向を見つめた。
「え……? 私の、家に?」
「うん。学校の図書室が使えないなら、星街さんの家で読めばいいかなって。周りの目も気にしなくていいし。それに、俺も新しい本が読みたいし」
自分でも驚くほど、スラスラと言葉が出てきた。押し付けがましくならないよう、あくまで「自分が読みたいから」という体を装って。
「でも……蒼井くんの夏休みの時間を、私なんかのために奪うわけには……」
「奪われるなんて思ってないよ。俺が、行きたいんだ」
優生は、少しだけ語気を強めて言った。
「夏休み中ずっと、星街さんに会えないのは……俺も、なんか調子狂うっていうか、嫌だからさ」
その言葉の直球な響きに、優生自身も後から顔が熱くなるのを感じた。
愛理はポカンと口を開けたまま数秒間フリーズし、やがて、頬をポンと赤く染めて、両手で自分の顔を覆った。
「あ、蒼井くんって……時々、すごく反則みたいなこと言いますね」
「へ!? なんだよ反則って」
「ふふっ。……嬉しいです。すごく、すごく嬉しい」
指の隙間から漏れる彼女の声は、弾むような喜びに満ちていた。
「お母さんに言ったら、絶対泣いて喜んじゃうと思います。……夏休みも、蒼井くんの声が聞けるんですね」
「ああ。覚悟しといてね。ノルマ厳しいから」
「はいっ!楽しみにしてます」
こうして、二人の関係は「学校の図書室」という枠組みを飛び越え、少し特別な夏休みへと突入していった。
八月の声を聞く頃には、猛暑はさらに牙を剥き、アスファルトの上には陽炎が揺らめいていた。
優生は自転車のペダルを立ち漕ぎしながら、額に浮かぶ汗をタオルで拭った。カゴの中には、図書館で借りてきた分厚いハードカバーの小説が二冊入っている。
愛理の家は、学校から自転車で十五分ほどの閑静な住宅街にあった。
夏休みに入ってから、優生は週に三日のペースで彼女の家に通っていた。最初は愛理の母親がいる週末に挨拶に行き、恐縮する母親から「どうか愛理をお願いね」と合鍵の隠し場所まで教えられそうになるのを丁重に断った。今ではすっかり、平日の昼下がりに訪問するのが二人のルーティンとなっていた。
見覚えのある表札を見つけ、優生は自転車を停めた。
インターホンを鳴らすと、すぐに「はーい」とパタパタというスリッパの音が聞こえ、玄関のドアが開いた。
「……蒼井くん、いらっしゃい」
ドアの向こうに立っていた愛理の姿を見て、優生は思わず息を呑んだ。
学校では見慣れた制服姿ではない。今日の彼女は、いつもと違うノースリーブの白いサマードレスを着ていた。肩口で切り揃えられた黒髪は涼しげにハーフアップにまとめられており、華奢な首筋が露わになっている。
見えないからといって身だしなみに無頓着になるのではなく、むしろ彼女は優生が来る日に合わせて一生懸命に「見られる自分」を整えているようだった。
「おじゃまします。……なんか、その服似合ってる」
優生が素直に感想を口にすると、愛理は嬉しそうに胸元のリボンを触った。
「本当ですか? お母さんと一緒に選んだんです。蒼井くんが来るから、ちょっとお洒落してみようって」
「そ、そっか」
自分のために服を選んでくれたという事実が、優生の胸の奥を甘くくすぐる。
クーラーの効いた涼しいリビングに通されると、ふわりと柔軟剤と、微かに線香の匂いが混ざったような、他人の家の独特の匂いがした。
愛理は慣れた手つきでキッチンへと向かい、冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出す。優生が「俺がやるよ」と手伝おうとするのを制し、彼女はグラスの縁に指を添えながら、慎重に、音を頼りに氷と麦茶を注いでみせた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
ローテーブルを挟んで、ふかふかのソファに向かい合って座る。
カラン、とグラスの中で氷が崩れる音が、静かなリビングに響いた。
学校の図書室とは違う、プライベートな空間。互いの息遣いが聞こえるほどの距離感。
優生はカバンから本を取り出しながら、未だ慣れない環境に少しだけ緊張で喉が渇くのを感じ、冷たい麦茶を一気に流し込んだ。
その日の朗読は、いつも以上に白熱した。
読み進めているのは少し切ない青春小説で、登場人物たちのすれ違う感情を表現するために、優生は声のトーンを繊細にコントロールした。愛理もまた、クッションを抱きしめながら身を乗り出し、瞳を優生の方へ真っ直ぐに向けて、一言一句を聞き逃すまいと集中していた。
一時間ほど読み進め、キリの良いところで優生が本を閉じると、愛理は深い感嘆の息を吐いた。
「……すごい。蒼井くん、本当に読むの上手になりましたよね。最初の頃の、カチカチの朗読も好きでしたけど、今はもう、プロの人みたい」
「プロは言い過ぎだよ。でも、星街さんがリアクションしてくれるから、なんか調子に乗っちゃうっていうか」
「ふふ、じゃあ、もっと大げさに驚いてみせようかな」
クスクスと笑い合う。窓の外でけたたましく鳴くセミの声すら、今は心地よいBGMに感じられた。
少し長い沈黙が続いた。
嫌な沈黙ではなかった。クーラーの微かな駆動音と、麦茶のグラスにある氷がカラン音を立てる穏やかな凪の時間。
愛理は、抱きしめていたクッションの端を指でなぞりながら、少しだけ躊躇うように口を開いた。
「あのね、蒼井くん」
「ん?」
「来週の土曜日……駅前の神社で、大きなお祭りがあるの、知ってますか?」
「あー、毎年やってるやつね。花火も上がるし、結構人が集まるんだよな。それがどうかした?」
優生が首を傾げると、愛理は顔を真っ赤にして、ギュッと目を閉じた。
「わ、私……お祭り、行きたいです。浴衣、着て」
「お祭り……」
「はい。……蒼井くんと、一緒に」
消え入りそうな、けれどはっきりとした声だった。
優生はハッとした。
目が見えなくなってから、彼女はおそらく人混みを極端に避けて生きてきたはずだ。周囲の音が暴力的に襲いかかってくる恐怖、誰かにぶつかられるかもしれない恐怖。ましてや、お祭りのような喧騒と無秩序の渦巻く空間は、彼女にとって最もハードルが高い場所のはずだ。
それなのに、彼女は「行きたい」と言った。
優生と一緒なら、怖い場所にも行けるかもしれないと、そう言ってくれているのだ。
「……人が多いし、道もデコボコしてるけど、大丈夫か?」
優生が優しく尋ねると、愛理は閉じていた目を開け、少しだけ不安そうに、けれど力強く頷いた。
「蒼井くんが、私の手、引いててくれますか?」
「当たり前だろ。……絶対、はぐれないようにする」
「……約束、ですよ」
愛理は、満開の花のような笑顔を見せた。
夏祭りの約束。
それは、ただの遊びの予定ではない。彼女の世界を広げるための、そして二人の距離を決定的に変えるための、大きな一歩だった。
優生は帰り道の自転車の上で、空高くそびえ立つ入道雲を見上げながら、どうやって彼女を安全にお祭りでエスコートするか、その計画を必死に練り始めていた。
二人にとっての特別な夏が、始まろうとしていた。




