5
優生と愛理の『音読の会』が始まってから、二週間が経過した。
カレンダーは七月に差し掛かり、長かった梅雨もようやく終わりが見え始めていた。雲の切れ間から覗く夏特有の強烈な日差しが、校庭の水たまりを猛烈な勢いで蒸発させ、教室にはむせ返るような湿気と、今年初めて鳴き始めた気の早いセミの鳴き声が充満していた。
その騒がしい教室の喧騒から逃れるように、二人は毎日、昼休みと放課後の時間を図書室の奥のスペースで過ごしていた。
いつしかそこは、二人だけの聖域になっていた。
優生はすっかり音読にのめり込んでいた。ただ文字を追うだけではない。家に帰れば、翌日読む予定のページをあらかじめ黙読し、登場人物の感情の起伏に合わせてどこで息継ぎをするべきか、どこで声のトーンを落とすべきかを真剣に考えるようになっていた。
何事にも熱中したことのなかった優生が、夜な夜な自室でぶつぶつと文庫本を朗読している姿を見て、母親が「あんた、ついに頭がおかしくなったの?」と本気で心配してきたほどだ。
だが、それだけの労力をかける価値が彼女の反応にはあった。
優生の声に乗せて届けられる物語の世界の中で、愛理は泣き、笑い、怒り、驚いてくれた。
ガラスの向こう側に閉じ込められ、表情筋まで凍りついていたかのような転校初日の姿はもうそこにはない。本を読んでいる時の彼女は、年相応の、感情豊かで好奇心に満ちた普通の女子高生だった。
優生は、ページをめくる指先に微かな汗を滲ませながら、目の前でコロコロと変わる彼女の表情から目が離せなくなっていた。物語のクライマックスで主人公が絶体絶命のピンチに陥ると、愛理は祈るように胸の前で両手を組み、ギュッと目を強くつむる。そして無事に困難を乗り越えたシーンを読み終えると、ふぅっと長く息を吐き、花が綻ぶように笑うのだ。
その笑顔を見るたびに、優生の胸の奥で、甘くて、少し苦い、まだ名前のない感情が静かに積もっていくのを感じていた。
しかし、二人の関係が深まる一方で、教室の空気は少しずつ奇妙な方向へと変化していた。
最初のうちは、「腫れ物」の星街愛理の世話を勝手に焼いてくれる優生に対し、クラスメイトたちは「厄介事を引き受けてくれて助かる」という安堵の視線を向けていた。だが、二人が毎日連れ立って歩き、図書室にこもり、ひそひそと楽しげに会話をしている姿が日常化してくると、今度はそこに「好奇」と「冷やかし」、そして微かな「嫉妬」が入り混じるようになってきたのだ。
ある日の体育の着替え中。
男子更衣室で体操着にシャツの袖を通していた優生は、背中をポンと軽く叩かれた。
振り返ると、クラスの中心グループにいる派手な男子生徒、佐藤がニヤニヤと厄介な笑みを浮かべて立っていた。
「なぁ蒼井。お前、最近星街さんとずっと一緒じゃん。どういう関係なわけ?」
「……どうって、別に。隣の席だし、俺が本を読んでるだけだよ」
「ふーん? 本ねえ。まぁ、星街さんすげー美人だしな。目が見えないのをいいことにお前、上手いこと懐に入り込んで点数稼ぎしてんじゃねーの?」
「は?」
佐藤の心無い言葉に、優生の胸の奥でチリッと火花が散った。
「点数稼ぎってなんだよ。そんなんじゃない」
「冗談だって、マジになんなよ。でもま、気をつけろよー? あんまりベタベタしてると、変な噂立つぜ。『蒼井は目が見えない子を狙ってる変態だ〜』とかな。ま、お前みたいな寡黙な奴が急に目立つと、そういうこと言いたがる奴もいるってこった」
佐藤はそれだけ言うと、仲間たちの元へ戻っていった。
優生は拳をきつく握りしめ、ロッカーの扉を睨みつけた。
これまでなら、こういう時はヘラヘラと笑って受け流し、すぐに愛理と距離を置いて「噂」が消えるのを待っていただろう。波風を立てないことが自分のルールだった。
だが、今は違った。
彼女を「目が見えない子」と記号でしか見ようとしない連中の言葉に無性に腹が立った。彼らは何も知らないのだ。彼女がどれほど真剣に物語の世界を旅しているか。彼女の笑顔がどれほど透き通って綺麗か。彼女の白杖の音が、どれほどの恐怖と戦いながら響いているか。
その日の放課後。
いつものように図書室で一時間ほど本を読んだ後、二人は一緒に下駄箱へと向かっていた。
並んで歩く廊下。愛理の白杖がコツ、コツと床を鳴らす。
すれ違った女子生徒の二人組が、優生と愛理を見て、クスクスと笑い声を上げた。
「見て、またあの子たち一緒だ」
「なんか蒼井くん、星街さんの彼氏か保護者気取りだよね。ウケる」
わざと聞こえるようなボリュームで放たれたその言葉に、優生の足がピタリと止まった。
更衣室での佐藤の言葉がフラッシュバックする。
しまった、と思った。自分はともかく、愛理には今の冷やかしの言葉がナイフのように突き刺さったはずだ。前の学校で陰口に苦しめられ、心を閉ざしてしまった彼女だ。またあの時のように被害に苛まれ、殻に閉じこもってしまうのではないか。
優生は慌てて愛理の顔を覗き込んだ。
「星街さん、今の、その、気にしなくていいから! あいつら、ただ面白半分で言ってるだけで……」
必死に弁解しようとした優生の言葉は、途中で宙に浮いた。
優生が見つめる先で、愛理は泣いてなどいなかった。怯えてもいなかった。
彼女は、少しだけ頬を朱に染め、照れくさそうに、けれどどこか嬉しそうに、口元に手を当てて「ふふっ」と笑っていたのだ。
「……星街さん?」
「ごめんなさい。でも、なんだかおかしくて」
愛理は見えてないはずの瞳を優生の方へ向け、柔らかく微笑んだ。
「私、彼氏みたいだねって、言われちゃった。……私みたいなのが隣にいて、蒼井くんは恥ずかしくないですか?」
「は、恥ずかしいわけないよ! 俺は別に、あいつらが何言おうと……」
「私ね」
愛理は、白杖を持つ手に少しだけ力を込めて、言葉を紡いだ。
「転校してきたばかりの頃は、周りの人の足音や話し声が、全部自分を攻撃する音に聞こえてたんです。『邪魔だ』とか『見えてないふりしてる』とか、そういう悪意の塊みたいに聞こえて、すごく怖かった。……でも、今は違う」
彼女は、まるで宝物を自慢する子供のように、はにかみながら続きを話し始めた。
「さっきの女の子たちの声、ただの『冷やかし』でした。高校生が仲のいい男女を見て、面白がってからかってるだけの……普通の、何気ない日常の音。……私、今、普通の高校生みたいにからかわれちゃったんです。それが、すごく嬉しいんです」
その言葉を聞いた瞬間、優生の胸の奥にあったモヤモヤとした不快感は、跡形もなく消え去っていた。
彼女にとって、優生と一緒にいることで浴びる「冷やかし」や「揶揄い」は、かつて彼女を追い詰めた残酷な陰口とは全く異質なものだったのだ。それは、彼女が「腫れ物の障害者」ではなく、「恋の噂を立てられる一人の女子高生」として、この学校の日常に溶け込めたという証だった。
優生というフィルターを通すことで、世界は彼女に対して少しだけ優しくなっていた。
「……そっか」
優生は、熱くなった目頭を誤魔化すように、わざとらしくため息をついてみせた。
「星街さんが気にしてないなら、別にいいけどさ。からかわれる俺の身にもなって欲しいよ」
「ふふ、ごめんなさい。でも、蒼井くん、耳まで真っ赤になってますよ」
「なっ……見えないのに適当なこと言わないでよ!」
「見えなくても分かりますよ。ここ数週間毎日読み聞かせてくれる人の声ですから。それに、声が裏返ってますよ」
クスクスと笑い合う二人の声が、夕暮れの廊下に響く。
窓の外では、ひぐらしがどこか切なげな声で鳴き始めていた。
他人の顔色を窺って生きてきた蒼井優生の「事なかれ主義」は、この時、完全に音を立てて崩れ去った。
誰に何を言われようと構わない。クラス中から偽善者だと後ろ指を指されようと、彼氏気取りだと笑われようと、どうでもいい。
この透明で、無防備で、少しずつ色彩を取り戻していく彼女の笑顔を、近くで守れるのなら。
優生は、夕日に照らされてオレンジ色に染まる愛理の横顔を見つめながら、静かに、けれど確かな覚悟を決めていた。




