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翌朝、梅雨の晴れ間から差し込む初夏の日差しが、水たまりをキラキラと反射させていた。
優生の通学カバンはいつもよりずっと重かった。それもそのはずで、中には昨晩自室の本棚から厳選した文庫本と単行本が合わせて五冊も詰め込まれているのだ。
ファンタジー、ミステリー、少し切ない青春小説、それから風景描写が美しい紀行文のような物語。彼女がどんな本を好むのか分からなかったため、手当たり次第に選んだ結果だった。
カバンの重みは、不思議と優生の胸を高鳴らせた。 事なかれ主義で、誰の記憶にも残らないような高校生活を送ってきた自分。
そんな自分が、誰かのために何かを準備し、その反応を心待ちにしている。それは優生にとってひどく新鮮で、くすぐったい感覚だった。
教室に入ると、まだ星街愛理の姿はなかった。
自分の席に座り、窓の外を眺めながら彼女の登校を待つ。いつもならホームルームギリギリまで机に突っ伏して寝ている時間だが、今日ばかりはそんな気にはなれなかった。
カバンの中から本を取り出し、机の中に隠すように並べてみる。いざ本を持ってきてみたものの、冷静になると途端に羞恥心が押し寄せてきた。昨日の雨の昇降口という非日常的な空間のせいで、自分は少しハイになっていたのではないか。
「俺が読むよ」なんて、どの口が言ったのだ。もし彼女が昨日の約束を「雨の日の冗談」として受け流していたら? あるいは、「やっぱり結構です」と遠慮されたら?
心臓がバクバクと嫌な音を立て始める。
その時、教室の前方の扉がガラガラと開いた。
コツ、コツ、コツ。
リズミカルな白杖の音が響く。愛理だった。
いつもと変わらない、少しうつむき加減の慎重な足取り。しかし、昨日までとは一つだけ違う点があった。彼女の右手が白杖を握っているのに対し、左手はカバンの持ち手ではなく、あの『金属製の栞』のキーホルダーをキュッと握りしめていたのだ。
まるで、それが自分を勇気づけるお守りであるかのように。
優生は、弾かれたように席を立った。
昨日までは、彼女が自分の席に辿り着くまで無言でやり過ごしていたというのに、今日は自分から彼女の歩く動線へと足を踏み出していた。
「……おはよう、星街さん」
自分でも驚くほど、自然な声が出た。
ピタッと白杖の音が止まり、愛理が顔を上げる。すりガラスのような瞳が、声のした優生の方を真っ直ぐに向いた。
「……蒼井、くん。おはようございます」
愛理の顔に、ふわりと小さな花が咲いたような笑みが広がった。
それは昨日、雨の昇降口で見せたあの柔らかい笑顔だった。周囲のクラスメイトたちが、突然の二人の会話と愛理の見たことのない笑顔に驚き、チラチラと視線を向けてくるのが分かった。しかし、今の優生にはそんな他人の視線はどうでもよかった。
「そこ、机の角があるから気をつけて。こっち」
「はい、ありがとうございます」
愛理が席に着き、白杖をフックに掛けるのを見届けてから、優生は自分の机の中からドサリと五冊の本を取り出し、愛理の机の上に置いた。
「あっ、あの……本持ってきた。星街さんがどんなの好きか分かんなかったから、とりあえず色々」
優生の言葉に、愛理は「えっ」と小さく息を呑み、そして恐る恐る両手を机の上に伸ばした。
彼女の細い指先が、積まれた本の一番上にある文庫本の表紙に触れる。
「本当ですね。……紙の匂いがする」
愛理は愛おしそうに、本の輪郭を指先でなぞった。タイトルが印字されたわずかな凹凸、ツルツルとしたカバーの感触、そしてページとページの隙間。彼女の指先は、まるで失われた宝物を確かめるようにゆっくりと、丁寧に本を撫でていく。
「蒼井くん、本当に持ってきてくれたんですね。……昨日、無理させてしまったんじゃないかってお母さんとも話してて……」
「無理なんてしてないよ。俺が読みたかっただけだし」
優生は照れ隠しにぶっきらぼうに言った。
「それで、どれから読む? 一番上のはミステリーで、その下のがファンタジー。魔法使いが砂漠を旅する話。で、その下が——」
「ファンタジーが、いいです」
愛理が、食い気味に言った。
「魔法使いが、旅をするお話。……今の私には、そういうどこか遠い世界のお話が一番嬉しいかもしれないから」
「わかった。じゃあ、昼休みに読もう。ここだと……ちょっと騒がしいから、図書室の奥のスペースとか、どう?」
「はい……! お願いします」
愛理は両手でファンタジーの文庫本を抱きしめるようにして、深く頷いた。
四時間目の授業が終わるや否や、優生はお弁当を手に愛理を連れて図書室へと向かった。
図書室の奥にある、古い郷土史などが置かれたコーナーは、普段は誰も寄り付かない死角になっている。二人掛けの小さな机に向かい合って座ると、開け放たれた窓から初夏の風が吹き込み古い紙の匂いと混ざり合った。
優生はコホン、と小さく咳払いをしてから、文庫本のページを開いた。
「えっと、タイトルは『砂の海の星拾い』。……じゃあ、読むよ。第一章」
優生の声が、静かな図書室の片隅に響き始めた。
最初はひどく緊張した。声が上擦り、漢字の読み間違いでつっかえ、句読点の間合いも不自然だった。自分の拙い朗読を彼女に聞かせているという事実が、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
しかし、ページをめくるごとに、優生は目の前に座る愛理の『聴く姿勢』の真剣さに圧倒されていった。
愛理はというと、背筋をピンと伸ばし両手を膝の上で固く組み、目を閉じていた。
いや、目は開けていても見えないのだから、彼女にとって目を閉じることは、視覚への未練を断ち切り、優生の声だけを世界に迎え入れるための儀式なのだと思う。
優生が『黄金色に輝く砂漠の果てに、ひときわ高い塔が見えた』と読めば、彼女の口元が微かに「ほう」と感嘆の形に開く。
『背後から、砂を巻き上げて巨大な獣が迫ってくる』と読めば、彼女の肩がビクッと跳ね、組まれた手にギュッと力が入る。
優生は戦慄した。
自分の声が、彼女の脳内に『世界』を作り出している。
ただの活字の羅列が、優生の喉を通り、空気の振動となって彼女の鼓膜を揺らす時、それは鮮やかな色彩を持った砂漠になり、熱風になり、生き物の息遣いになる。
自分は今、彼女にとっての「目」なのだ。
そう自覚した瞬間、優生の中から羞恥心は完全に消え去っていた。
「……『星拾いの青年は、杖を高く掲げた。その先端から放たれた青い光が、夜の砂漠を昼間のように照らし出し——』」
優生は、情景がよりはっきりと伝わるように、少し声のトーンを落とし、ゆっくりと、噛み締めるように言葉を紡いだ。光の描写はより鮮やかに、風の描写はより軽やかに。
愛理の表情が、万華鏡のようにクルクルと変わる。
悲しいシーンでは眉をひそめ、主人公が機転を利かせるシーンではクスッと笑う。
その反応の一つ一つが、優生には尊いものに思えた。すりガラスに閉じ込められ、表情を失っていた彼女が、自分の声によって生気を取り戻していく。まるで、乾ききった鉢植えの花に、少しずつ水が浸透していくのを見守っているような、静かな喜悦があった。
「……今日はここまで。キリがいいしお昼も食べないと」
愛理は夢から覚めたようにゆっくりと目を開けた。
「あっという間でした」
愛理の頬は、微かに上気してピンク色に染まっていた。
「蒼井くん、すごい。読むのすごく上手ですね。私……本当に、砂漠の中にいるみたいでした。青い光、綺麗だった……」
「そんな、上手くはないけど。星街さんが真剣に聞いてくれるから、俺もなんか、変に入り込んじゃって」
「ふふ、ありがとうございます。……明日も続き、読んでくれますか?」
すがるような、淡い期待に満ちた声。
優生は、小さく、けれど力強く頷いた。
「ああ。明日も、明後日も読むよ。この本が終わったら、次のもあるしね」
二人がお昼を食べ終え、図書室を出て教室へ戻る道すがら、すれ違う生徒たちが奇異の目を向けてくるのを感じた。
「腫れ物」として遠ざけられていた転校生と、目立たない男子が、なぜか急に親しげに連れ立って歩いているのだから無理もない。
しかし、優生はもう、他人の視線から逃げるようにうつむくことはしなかった。
隣を歩く彼女の白杖のリズムに自分の歩幅を合わせ、時折「段差があるよ」と声をかけながら、堂々と前を向いて歩いた。
この日から、優生と愛理の『音読の会』は、二人の日常の欠かせない一部となった。
そしてそれは同時に、教室の空気を少しずつ、だが確実に変容させていくこととなる。




