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逃げるように教室を後にしてから数日が経った。
梅雨空は、まるで優生の晴れない心の中をそのまま映し出したかのように、連日しつこく灰色の雨を降らせていた。
あの日、誰もいない教室で声を殺して泣いていた星街愛理の姿は、優生の脳裏に深く焼き付いて離れなかった。授業中、プリントを回す一瞬の接触。移動教室で置き去りにされそうになる彼女の背中。その全てに優生の神経は過敏に反応するようになっていたが、それでも彼は「事なかれ主義」の殻に閉じこもり、決定的な一歩を踏み出すことを躊躇い続けていた。
自分のような中途半端な人間が、彼女の抱える深い絶望に触れていいはずがない。
そう言い訳をして、ただ遠くから彼女の孤独を観察するだけの卑怯な傍観者。
その日の放課後も、土砂降りの雨だった。
他の生徒たちがとうに帰り去った薄暗い昇降口に降りていくと、下駄箱の前にポツンと立つ小柄な影があった。
愛理だった。
彼女は白杖を両手で体の前に持ち、コンクリートを叩く激しい雨音にじっと耳を澄ませているようだった。いつもならとっくに母親の車で帰っている時間だ。おそらく、仕事の都合で迎えが遅れているのだろう。
薄暗い昇降口。外は視界を遮るほどの雨。彼女の周囲だけが、世界から完全に切り離されてしまったかのように孤立して見えた。
優生は傘立てから自分のビニール傘を引き抜きながら、息を止めた。
そのまま彼女の横を通り過ぎ、見えないふりをして帰ることは簡単だ。彼女には優生の姿は見えないのだから、足音さえ忍ばせれば、誰が通り過ぎたかも分からないだろう。
——だが。
優生の脳裏に、あの日、教室で震えていた彼女の丸い背中がフラッシュバックした。
気がつけば、優生は傘を握りしめたまま、彼女の数歩手前で立ち止まっていた。心臓が、肋骨を内側から叩くように激しく脈打っている。喉がカラカラに乾いていた。
何を言えばいい? 「迎えが遅いのか?」違う、そんな馴れ馴れしい関係じゃない。「大丈夫か?」それも白々しい。
頭の中で無数の言葉が浮かんでは消え、優生はどうしようもないほど不器用に、そしてひどく唐突に口を開いた。
「……あのさ」
自分の声が、雨音に負けてひっくり返りそうになった。
ビクッと、愛理の肩が大きく跳ねた。彼女は声がした方向——優生がいる方向へ、怯えたように顔を向けた。すりガラスのような瞳が揺れている。
「あ、蒼井、です。隣の席の」
「……蒼井、くん」
愛理の声は、警戒心で硬くなっていた。いつもプリントを回す時くらいしか声を発しない隣の男子が、なぜ突然自分に話しかけてきたのか、理解できないという顔だった。
「迎え、まだなの。お母さんの車」
「あ……はい。お仕事が少し長引いているみたいで。もう少しで、着くと思うんですけど……」
「そっか。……よく、降るね、雨」
「……そうですね」
会話が途切れた。
気まずい沈黙が降り降りる。激しい雨音だけが、二人の間の空間を埋めていた。優生は後悔で舌を噛みそうだった。柄にもなく話しかけたりするからこんな空気になるのだ。何か話題を探さなければと焦り、優生は彼女の足元、そして彼女が肩から下げている通学カバンへと視線を泳がせた。
その時、優生の目にふと、あるものが飛び込んできた。
愛理の黒い革カバンの金具に、小さなキーホルダーが揺れていた。アンティーク調の金属でできた、細長い羽の形をした飾りの先に、赤いタッセルがついている。
それは、どう見てもカバンにつけるマスコットではなく、『金属製の栞』だった。
「……それ」
優生は、考えるよりも先に声に出していた。
「鞄についてるやつ。それ、本の栞......だよね」
「え……?」
愛理は戸惑ったように、自分のカバンの金具を手探りで触った。金属の羽の感触に指先が触れると、彼女の表情が少しだけ、本当に微かにだが、和らいだように見えた。
「はい。……お父さんが昔買ってくれた栞を、キーホルダーに直してつけてるんです。本を読むのが好きだったので」
「読書......星街さん、本好きなんだ」
「……昔は、ですね。色々な世界に行けるから、好きでした。ファンタジーも、ミステリーも、図鑑も」
そう語る彼女の声には、確かな熱が籠もっていた。しかし、すぐにその熱は急速に冷め、彼女は寂しそうに伏し目がちになった。
「でも、今はもう、読めないですから。点字の勉強も、まだ全然できていなくて……だから、これはただの、お守りみたいなものです」
今はもう、読めない。
その言葉が、優生の胸の奥をチクリと刺した。
彼女の世界から光が奪われたということは、彼女が愛していた物語の世界への扉も、同時に固く閉ざされてしまったということだ。
優生は、自分がなぜあの日、彼女の涙から目を離せなかったのか、今ようやく理解したような気がした。
理不尽に世界を奪われ、暗闇の中でじっと耐えている彼女を、これ以上『透明な存在』にしたくなかったのだ。
「俺が、読むよ」
優生の口からこぼれ落ちたその言葉は、自分でも驚くほどはっきりとした輪郭を持っていた。
「え……?」
愛理が、驚いたように顔を上げる。
「俺が、声に出して読む。図書室でも、自分の家からでも、星街さんが読みたいって思うような本を持ってくる。俺が音読すれば、星街さんも本が読めるだろ?」
言ってしまってから、優生は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
なんだその提案は。まるでドラマの主人公気取りじゃないか。自分の「事なかれ主義」はどこに行った。こんな面倒極まりない約束をして、もし明日から冷やかしの標的にされたらどうするつもりだ。
頭の中で理性が激しく警鐘を鳴らす。
しかし、優生はもう後戻りする気はなかった。じっと愛理の返事を待った。
愛理は、ポカンと口を開けたまま数秒間フリーズしていた。
やがて、彼女の肩が小さく震え始めた。
泣かせたか、と優生が焦った次の瞬間。
「ふふっ……くす、ふふふっ」
愛理の口から漏れ出たのは、嗚咽ではなく、小さな笑い声だった。
転校してきてから約一ヶ月。彼女が誰かの前で見せた、初めての「本心の笑み」だった。
「あ、蒼井くん、いきなり、何を言うのかと思ったら……朗読してくれるんですか? 私のために?」
「いや、その別に俺は暇だし……本くらい、いくらでも読むし……」
「ふふ、ごめんなさい。あまりにも唐突だったから。……でも、冗談だとしても、少し嬉しかったです。蒼井くんって、意外と面白い人なんですね」
「冗談じゃないって。明日、絶対なんか本持ってくるから。期待しといて」
「ふふ、じゃあ期待して待ってますね」
彼女の笑顔は、すりガラスの向こう側から微かに差し込んだ、一筋の陽光のように柔らかかった。
優生がその笑顔に見とれていると、昇降口の前に一台の白い乗用車が滑り込んできた。
バタン、とドアが開き、傘をさした小柄な女性が慌てて駆け寄ってくる。愛理の母親だ。
「愛理! ごめんね、遅くなって。心細かったでしょう——」
母親はそう言いかけて、愛理の表情を見て言葉を失った。娘が、柔らかく微笑んでいたからだ。母親の視線が、隣に立つ優生へと移る。
「あの……あなたが愛理と一緒にいてくれたの?」
「あ、はい。隣の席の蒼井です。……ただ、少し話してただけで」
「そう、蒼井くん。……ありがとう」
母親の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
「この子がこんな風に笑うの、本当に久しぶりで……。どうか、これからも仲良くしてやってね」
深く頭を下げる母親の姿に、優生はただ、無言で頷くことしかできなかった。
車に乗り込む愛理の「また明日」という声を聞き届け、テールランプが雨の向こうへと消えていくのを見送ってから、優生はようやく自分の傘を開いた。
雨は相変わらず激しく降っている。
だが、優生の足取りは軽かった。
家に帰ると、優生は制服も着替えずに自室の本棚の前にしゃがみ込んだ。
自分の退屈な高校生活は、今日で終わったのだ。波風を立てないように息を潜める日々は、あの昇降口に置いてきた。
「何がいいかな……。ファンタジーって言ってたよな」
ホコリを被った文庫本を何冊も引っ張り出しながら、優生は久しぶりに胸の奥が熱く高鳴るのを感じていた。
彼女の世界を覆う分厚いすりガラスを自分の「声」で叩き割る。
その途方もない挑戦の始まりに、優生の口元には自然と笑みが浮かんでいた。窓の外の雨音は、もう鬱陶しいノイズではなく、新しい物語の幕開けを告げる静かなBGMのように響いていた。




