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転校初日から数日間、星街愛理の周りには、常に人だかりができていた。
主に、クラスの中心にいるような女子生徒たちだ。彼女たちは「世話焼き」という大義名分のもと、物珍しい転校生を自分たちの輪に引き込もうと群がった。
「星街さん、どこから引っ越してきたの?」
「前の学校では何の部活やってたの? あ、ごめん、目はいつから……?」
「お昼、一緒に食べよ!校舎も私が案内してあげるからさ!」
休み時間になるたび、愛理の机の周りは甲高い声で包まれた。
愛理はその一つ一つの質問に対して、丁寧に、けれどひどく慎重に言葉を選んで答えていた。
「……ありがとう。引っ越してきたのは、隣の県からです。目は、中学の時の事故で……。誘ってくれて嬉しいです」
彼女は、声がする方向へ顔を向ける。しかし、その瞳は相手の顔を捉えていない。宙を泳ぐ視線。彼女の顔には、相手の感情を探ろうとするような、微かな緊張が常に張り付いていた。
隣の席で突っ伏して狸寝入りを決め込んでいた優生は、そのやり取りを腕の隙間から、あるいは耳だけで観察していた。
残酷なことを言うようだが、優生には最初から結末が見えていた。この「親切なクラスメイトたち」による歓迎ムードが、長くは続かないということが。
コミュニケーションにおいて、『視覚情報』がいかに絶大な割合を占めているか。その事実を、優生はこの一ヶ月の間に嫌というほど思い知らされることになった。
女子たちが笑いかけても、愛理にはそれが見えない。だから、彼女は愛想笑いを返すタイミングが少しだけ遅れる。女子たちが「ねえ、あそこの男子ウケるよね」と視線で合図を送っても、愛理はポカンとしているしかない。身振り手振りも、大げさなリアクションも、彼女には一切伝わらない。
愛理との会話は、全て『言葉』だけで過不足なく説明しなければならないのだ。
それは、空気を読み、視線とニュアンスだけで複雑なコミュニケーションを成立させている現代の高校生たちにとって、恐ろしく「カロリーを消費する」作業だった。
「……なんかさ、星街さんって話しかけづらくない?」
「わかる。無視されてるわけじゃないんだけど、なんか気まずいっていうか……」
「お昼とかもさ、おかず一つ一つ『これは卵焼きだよ』『右にお茶あるよ』って説明しなきゃいけないから、全然食べた気しないんだよね……」
一週間が過ぎる頃には、群がっていた女子たちは潮が引くように彼女の周りから離れていった。
決して、明確な悪意があったわけではないだろう。ただ「疲れる」のだ。善意だけで乗り切るには、見えない彼女をサポートするという行為は、普通の高校生には難し過ぎた。
そして、一度「面倒くさい」というレッテルが貼られてしまえば、あとは転がり落ちるように『腫れ物扱い』へと移行していく。
六月も終わりに近づき、梅雨の湿気がピークに達する頃。
教室における愛理の扱いは、完全に「不可視の存在」になっていた。
朝、彼女が白杖をついて教室に入ってきても、誰も挨拶をしない。彼女が通路を歩いてくると、皆、面倒事に巻き込まれないようにサッと道を開ける。体育の時間の移動教室や、プリントを後ろに回す時、ふとした瞬間に生まれる「誰が星街のフォローをするのか」という、無言の押し付け合い。
優生は、その押し付け合いの最前線にいた。
なにせ、隣の席なのだ。プリントを回す時も、優生が「はい、プリント」と声をかけて彼女の手に持たせてやらなければならない。移動教室の時、誰も彼女に声をかけずに出て行ってしまった教室で、彼女が一人立ち尽くしていると、優生はため息をついて「……次、理科室」とボソリと教える羽目になる。
優生は愛理のことが嫌いなわけではなかった。ただ、彼女に関わることで、クラスの中で「星街の世話係」として目立ってしまうことが何より苦痛だった。だから、必要最低限の接触しか持たず、彼女の心に踏み込むような言葉は一切かけなかった。
彼もまた、彼女を「腫れ物」として扱っている一人だったのだ。
ある日の放課後だった。
その日は朝から激しい雨が降っており、教室の中は重く澱んだ空気が立ち込めていた。授業が終わり、生徒たちが部活やバイトへと足早に散っていく中、優生は日直の仕事で黒板を消し、日誌を書いていた。
教室には、優生と、一番後ろの席に座ったまま動かない愛理の二人だけだった。
愛理の登下校は母親が車で行っている。その日も、彼女は母親の到着を待っているらしかった。
優生が日誌を書き終え、鞄を手に取って席を立とうとした時だった。
教卓のそばから一番後ろの席にいる彼女を一瞥した優生は、足の裏が床に張り付いたように動けなくなった。
愛理が、泣いていたのだ。
声は、一切出ていなかった。
俯き、両手でスカートの裾を白くなるほど強く握りしめ、肩を小刻みに震わせている。すりガラスのような彼女の虚ろな瞳から、大粒の涙が次々と溢れ落ち、制服のスカートに濃いシミを作っていた。
ポタッ、ポタッ。
雨音に掻き消されそうなほど微かな、涙が落ちる音。
そして、必死に嗚咽を漏らまいと、きつく噛み締めた唇から漏れる、ひゅっ、という浅い呼吸の音。
優生は息を呑んだ。
見えない彼女の耳が、どれほど鋭敏か。優生は気づいていなかったのだ。
クラスメイトたちが彼女を遠巻きにして囁き合う声。
「また星街さん? マジ勘弁……」という苛立ちの混じったため息。
「本当は見えてるんじゃないの?」という心無い陰口。
彼らは声のボリュームを落としているつもりだった。しかし、視覚を失い、すべての神経を聴覚に集中させて生きている彼女にとって、それらの「ひそひそ話」は、耳元で怒鳴られているのも同然だったのだ。
前の学校でも、きっと同じだったのだろう。
いや、もしかしたら、この一ヶ月間、彼女はずっとこうして、誰もいなくなった教室で一人声を殺して泣いていたのかもしれない。
誰も私のことを必要としていない。
誰も私のことを見ていない。
彼女の丸まった背中が、そう叫んでいるように優生には見えた。
声をかけるべきだ。
ハンカチを渡すなり、「大丈夫か」と声をかけるなり、何かアクションを起こすべきだ。それが、人としての正しい反応のはずだ。
しかし、優生の体は動かなかった。ここで彼女に深く関わってしまえば、もう「事なかれ主義の傍観者」には戻れない気がした。彼女の抱える絶望の深さは、中途半端な同情で触れていいものではないと、警告していた。
助ける覚悟もないのに、優しい言葉をかけるのは偽善だ。そう自分に言い訳をして、優生は踵を返した。
彼女が気づかないように、足音を忍ばせ、逃げるように教室の後ろのドアから廊下へと出た。
廊下に出ても、心臓が早鐘のように鳴っていた。
逃げた。傷つき、一人で泣いている同級生を見捨てて、自分は逃げたのだ。
薄暗い廊下を歩きながら、優生は強烈な自己嫌悪に苛まれた。胸の奥に、ざらりとした不快な砂を飲み込んだような感触が残っている。
ただ無難に過ごしたいだけなのに。
どうして自分は、あんなにも彼女の涙から目が離せなかったのだろう。どうして、彼女の震える肩が、あんなにも脳裏に焼き付いて離れないのだろう。
昇降口で傘を開き、土砂降りの雨の中へと足を踏み出す。
冷たい雨粒が頬を打っても、優生の頭の中からは、声を出さずに泣いていた星街愛理の痛々しい姿が、いつまでも、いつまでも消えることはなかった。




