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六月。鬱陶しい梅雨の湿気が、教室の窓ガラスを白く曇らせている。
少し開け放たれた窓の隙間からは、絶え間なくアスファルトを叩く雨の音と、土と緑が混ざったような青臭い匂いが入り込んできた。
ここは県庁所在地から電車で小一時間ほど離れた、山と田んぼに囲まれた少し田舎の公立高校だ。生徒の大半は自転車通学で、この時期の教室はいつも、生乾きの制服の匂いと、行き場のない高校生特有の持て余した熱気で満ちている。
蒼井優生は、頬杖をつきながら、白く曇った窓ガラスを指先でツーッとひと撫でした。水滴が筋を作って流れ落ち、その向こう側に、灰色の雲に覆われた低い山並みがぼんやりと見えた。
高校二年の六月。部活に打ち込むわけでもなく、かといって不良グループに属して反抗期を謳歌するわけでもない。
優生の学校生活は、良く言えば平穏無事、悪く言えば徹底的な「事なかれ主義」の賜物だった。
クラスという名の小さな水槽の中で、優生は常に中層を泳いでいる。水面近くで目立つ陽キャグループにも属さず、かといって底の方で息を潜める陰キャというわけでもない。成績は真ん中より少し上。運動神経は可もなく不可もなく。誰かと対立することはなく、誰かの熱狂に同調することもない。
『他人の顔色を窺い、空気を読んで、地雷を踏まないように歩く』
それが、優生がこの十数年の人生で身につけた処世術だった。正義感なんてものは、ヒーロー気取りのバカか、あるいは自分が絶対に安全な場所にいると勘違いしている人間だけが振りかざす娯楽だと思っている。目立たず、波風を立てず、ただ高校生活というモラトリアムを無傷でやり過ごす。それが優生にとっての最優先事項だった。
しかし、今日の2年B組の教室は、朝からどうにも落ち着きがなかった。水槽の中に、異物が投げ込まれようとしていたからだ。
「なぁなぁ、転校生ってマジ? この時期に?」
「マジマジ。さっき職員室の前で見たっていう奴がいてさ。なんか、すげー美少女らしいぜ」
「マジかよ! 都会から来たお嬢様的な? やべえ、俺の隣の席空いてるし!」
ホームルーム開始十分前。教室内は、これからやってくるという「転校生」の噂で持ちきりだった。この閉鎖的な田舎の高校において、転校生という存在はそれだけで特大のエンターテイメントである。
ましてやそれが女子で、噂に尾ひれがついて「美少女」となっているのだから、男子生徒たちの浮き足立った空気は隠しようもなかった。女子生徒たちもまた、「どんな子だろうね」「変にイキってる子じゃなきゃいいけど」と、好奇心の入り交じった声で囁き合っている。
優生は、そんなざわめきをBGMのように聞き流しながら、ペンを指先でくるくると回していた。
美少女だろうがなんだろうが、優生にとっては自分とは関係のない遠い世界の出来事だ。どうせ最初はチヤホヤされ、数週間もすればクラスのどこかのグループに吸収されて、この退屈な日常の一部に溶け込んでいく。これまでも、これからも、自分の平穏な日々が脅かされることはない。そう高を括っていた。
キーンコーンカーンコーン。
朝のチャイムが鳴り響き、クラスの喧騒が少しずつ引いていく。
ガラガラと立て付けの悪い引き戸が開く音と共に、担任の鈴木が教室に入ってくる。いつもは猫背でだるそうにしている中年教師だが、今日はなぜか少し表情が強張っているように見えた。手には出席簿だけでなく、何枚かのプリントが握られている。
「えー、みんな席につけ」
鈴木の声に、生徒たちはそそくさと自分の席に戻る。優生の席は、窓際の一番後ろ。隣の席は、四月のクラス替えの時から空席のままだった。
「朝礼の前に、みんなに紹介しておく。今日からこのクラスに新しい仲間が加わることになった。……入ってきなさい」
鈴木が廊下に向かって声をかける。
教室内が、期待と好奇心で張り詰めた。全員の視線が、開け放たれた前方の扉に釘付けになる。息を呑む音すら聞こえそうなほどの静寂。
コツ。
コツ。
コツ。
最初に聞こえてきたのは、足音ではなかった。
何か硬いものが、教室の古いリノリウムの床を規則的に叩く、乾いた音だった。
そして、その音と共に姿を現した少女を見て、クラス中の空気が、文字通り「凍りついた」。
少女は、確かに息を呑むほど綺麗だった。
色素の薄い、透き通るような白い肌。肩口で切り揃えられた、艶やかな黒髪。長いまつ毛に縁取られた瞳。しかし、その瞳はどこか焦点が合っておらず、虚空を漂っているように見えた。
何よりクラスメイトたちの視線を釘付けにしたのは、彼女の右手だった。
彼女の右手には、杖が握られていたのだ。
先端を床に滑らせ、周囲の障害物を確認するように小刻みに動かされる白杖。
「……え?」
誰かが、無意識のうちに漏らした小さな声が、静まり返った教室にやけに大きく響いた。
「えー、紹介する。今日から2年B組に入る、星街愛理さんだ」
鈴木が、少し事務的な、しかしどこか気を遣うようなトーンで言った。
星街愛理。それが、彼女の名前だった。
「……はじめまして。星街、愛理です。よろしくお願いします」
澄んだ、ガラス細工のような声だった。少し震えてはいたが、教室の隅々にまでよく通る声だった。彼女は声を出した後、少し遅れて、ぺこりと深く頭を下げた。しかし、その顔を上げた時、彼女の視線はクラスの誰とも合っていなかった。彼女の瞳は、まるで分厚いすりガラスの向こう側を見つめているように、ただぼんやりと虚空を見据えていた。
教室の空気は、先ほどまでの浮ついた好奇心から、一転して「困惑」へと変わっていた。
転校生が来た。それはいい。だが、まさか『目が見えない』子が来るなんて、誰も予想していなかったのだ。この少し田舎の、バリアフリー設備もろくに整っていない古い公立高校に。
皆がどう反応していいか分からず、ただ無言で彼女と白杖を見つめている。それは、残酷なほどの静寂だった。異物を前にして、集団が本能的に発する拒絶にも似た戸惑い。
「あー、星街は、少し前に事故に遭ってな。その時の後遺症で、視覚に少し難があるらしい。全く見えないわけではないらしいが……日常生活にはサポートが必要だ。お前たちも、困っている時は助け合って、仲良くやってくれ」
鈴木の言葉は、どこか歯切れが悪く言い訳がましかった。
「星街の席は……一番後ろ、窓際の蒼井の隣だ。蒼井、ちょっと手を貸してやってくれ」
突然名前を呼ばれ、優生はビクッと肩を揺らした。
クラス全員の視線が、一斉に優生に向く。面倒なことに巻き込まれた、と直感的に思った。事なかれ主義の優生にとって、一番避けたい「目立つ」という状況だった。しかし、ここで拒否することも、嫌な顔をすることもできない。
「あ……はい」
優生は椅子から立ち上がり、教卓の横で心細げに立っている彼女の元へ歩み寄った。
「えっと……こっちです」
どう声をかけていいか分からず、優生は少し間抜けな声を出した。星街愛理は、優生の声がした方向へゆっくりと顔を向けた。焦点の合わない瞳が、優生を捉える。
「……ありがとうございます」
彼女は小さく呟き、白杖をリズミカルに動かしながら、優生の声がした方向へ慎重に歩き出した。優生は彼女の半歩前を歩きながら、「ここは教卓の角」「そこから机の列」と、ぎこちない言葉でナビゲートした。
彼女が歩くたびに、コツ、コツという白杖の音が響く。
その音は、優生の心臓の鼓動と妙にシンクロしているように感じられた。
すぐ後ろを歩く彼女から、雨の湿った匂いに混じって、微かに甘いシャンプーの香りがした。それは、この古臭い教室には酷く不釣り合いな、清潔で儚い匂いだった。
一番後ろの席に到着し、彼女が椅子に腰を下ろすのを確認して、優生も自分の席に戻った。
隣に座った彼女は、白杖を丁寧に折りたたむと、机の横のフックに掛けた。その一連の動作は、とても慣れているように見えたが、同時にどこか諦めのようなものを帯びているように優生には感じられた。
彼女は前を向いたまま、両手を膝の上で固く組み、じっと動かない。
まるで、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のようだった。周囲のクラスメイトたちは、彼女をどう扱っていいのか分からず、チラチラと盗み見ながらも、決して直接話しかけようとはしなかった。教室の中に、見えない透明な壁が築かれた瞬間だった。
優生は再び窓の外に視線を戻した。
雨はまだ降り続いている。
隣に座る、白杖を持った美しい転校生。彼女の存在が、これから自分の平穏な高校生活をどう変えていくのか、この時の優生には知る由もなかった。
ただ、彼女から漂う微かな甘い香りと、静まり返った教室の異様な空気だけが、優生の脳裏にまとわりついて離れなかった。
一時間目のチャイムが鳴った。
これが、優生と星街愛理の、静かで、残酷で、そして後戻りできない日々の始まりだった。




