プロローグ:磨りガラスの向こう側
初めまして、巫篠美津留です。
拙い文章ですが応援していただけると幸いです。
あの日、私の世界から一切の『色彩』が消失した。
比喩ではない。赤も、青も、空の白さも、木々の緑も、すべてが分厚いすりガラスの向こう側に追いやられたように、輪郭を失って溶け落ちたのだ。
中学の卒業式の日だった。
三月の風はまだ冷たくて、それでも日差しのなかには微かな春の気配が混じっていたことを覚えている。胸元には造花のコサージュ。手には筒状の卒業証書。少し大きめの制服を着た私は、校門の前で両親に挟まれ、少し照れくさそうに写真に収まっていた。
「愛理、卒業おめでとう。高校生になっても、愛理は愛理のペースで頑張りなさい」
カメラのファインダー越しに、父が優しく笑いかけてくれた。目尻に深いシワを寄せて笑う父の顔が好きだった。母は「ちょっとお父さん、写真曲がってない?」と小言を言いながらも、その声は弾んでいた。
お祝いに、少し遠くにある有名なレストランで食事をしよう。
それが、私の何気ない提案だった。父は二つ返事で頷き、私たちは愛車に乗り込んだ。車内には父が愛用している柑橘系のコロンの匂いが微かに漂い、カーラジオからは流行りのポップスが流れていた。助手席には母が座り、後部座席で私はもらったばかりの卒業アルバムを開いていた。
交差点だった。
私たちの車は青信号を直進していた。右側から、信号を無視した大型トラックが猛スピードで突っ込んできたことに、父は気づいていただろうか。
急ブレーキの甲高い摩擦音。
母の短い悲鳴。
視界が激しく揺さぶられ、次の瞬間、世界は鼓膜を破るような金属のひしゃげる轟音に包まれた。
体が宙に浮くような感覚があり、強烈な衝撃が全身を打ち据えた。フロントガラスが粉々に砕け散り、スローモーションのように無数の破片が車内を舞うのが見えた。それが、私がこの目で見た、はっきりとした輪郭を持つ最後の景色だった。
目を覚ましたのは、無機質な消毒液の匂いが充満する病室のベッドの上だった。
全身を鈍い痛みが支配していた。頭の奥でガンガンと脈打つような痛みが響いている。ゆっくりと瞼を持ち上げる。
見えない。
いや、正確には「真っ暗」ではなかった。分厚い灰色の靄が、視界のすべてを覆い尽くしているような感覚。いくら目を凝らしても、天井の模様も、窓の光も、自分の手の輪郭すらも、そこには存在しなかった。
「……愛理? 愛理っ……!」
耳元で、縋り付くような母の声が聞こえた。その声は酷く掠れていて、何度も泣き叫んだ後のように震えていた。
「お母さん……? 私、どうなったの……。それに、なんか部屋が暗くて、よく見えないんだけど……お父さんは?」
私の言葉に、母は息を呑み、そして堰を切ったように泣き崩れた。私の手を握りしめる母の体温だけが、やけに生々しく感じられた。
父は、即死だった。
運転席側から衝突された車は原型を留めないほどに大破しており、助手席の母と後部座席の私は奇跡的に命を取り留めたものの、父はハンドルとシートの間に挟まれ、救急隊が駆けつけた時には既に事切れていたという。
「嘘だ……」
声が震えた。涙すら出なかった。ただ、胸の奥にポッカリと巨大な氷の穴が空いたような、決定的な喪失感だけが広がっていった。
私が、あのレストランに行きたいなんて言わなければ。
私が、卒業式なんてしなければ。
私が、私が、私が——。
自責の念が、黒いタールのようにドクドクと全身の血管を駆け巡り、心臓を鷲掴みにした。息ができない。喉の奥でヒューヒューと音が鳴る。
そして、私の視界を覆っていた灰色の靄は、その日を境に、さらに分厚く、さらに重く、完全に私の世界を閉ざしてしまった。
『心因性視覚障害』。
それが、幾つもの病院を回り、無数の検査を受けた末に下された私の症状の名前だった。眼球や視神経といった物理的な器官には一切の異常はない。しかし、極度のトラウマや精神的ショックにより、脳が「見ること」を拒絶している状態。
つまり、私の心は、父のいないこの世界を見ることを、自ら放棄したのだ。
退院し、予定より遅れて地元の高校に入学したものの、そこは私にとって地獄のような空間だった。
光を失った私の世界では、代わりに『音』が異常なほど鋭敏になった。
視覚という最大の情報源を絶たれた人間は、本能的に他の感覚で世界を補おうとするらしい。だが、それは私にとって呪い同然だった。
特別支援学級という名目で用意された居場所。しかし、教室の隅に座る私の耳には、廊下を歩く生徒たちの足音、遠くの教室から聞こえる笑い声、そして何より、私に向かって向けられる無数の『声にならない声』が突き刺さった。
『ねえ、あの子……本当に見えてないの?』
『なんか、目立ちたいだけなんじゃない?』
『親が死んでショックで目が見えなくなるなんて、ドラマじゃないんだからさぁ……』
『関わらない方がいいよ、面倒くさそう』
それが実際に口に出された言葉だったのか、それとも私の肥大化した被害妄想が作り出した幻聴だったのか、今となっては分からない。ひそひそとした囁き声が、針のように耳の奥を突き破り、脳髄を掻き回す。私は常に怯え、肩をすくめ、誰とも口を利かなくなった。
白杖をついて歩く廊下は、まるで地雷原を歩くようだった。少しでも誰かにぶつかれば、舌打ちされるのではないか。冷たい目で見下ろされているのではないか。
すりガラスの向こう側の世界は、悪意と恐怖の渦に満ちていた。
私は次第に学校に通えなくなり、自分の部屋という小さな暗闇の中に引きこもるようになった。父の仏壇の線香の匂いだけが漂う家の中で、ただ膝を抱えて時間が過ぎるのを待つだけの日々。
母は必死だった。一人で家計を支えながら、泣き言一つこぼさず私の身の回りの世話をしてくれた。けれど、母の優しい声を聞くたびに、私は自分がどうしようもなく汚らわしい存在に思えた。父を死に追いやった張本人である私を、母が心の底から愛せるはずがない。義務感と、哀れみ。それが母を動かしているのだと、捻くれた私の心は勝手に決めつけていた。
季節が巡り、私が引きこもってから一年以上の月日が流れた。
高校二年の春。母は、環境を変えることを提案した。
「愛理、お母さんね少し田舎の方に仕事を見つけたの。空気も綺麗だし、静かな街よ。……愛理もあっちで新しい高校に通ってみない?」
母の声には、すがるような響きがあった。私がこのまま暗闇の中で朽ち果てていくのを、母は見過ごせなかったのだろう。
私は何も答えなかった。ただ、緩く首を縦に振っただけだ。
どこへ行こうと、同じだと思った。場所が変わっても、私の目には何も見えない。周囲の人間は私を「可哀想な障害者」として扱い、やがて腫れ物のように避けるようになる。
光のない世界で生きるということは、そういうことだ。
私はもう、誰かに理解されることも、誰かを愛することも、この世界を美しいと思うことも、二度とない。
父と一緒に、私の心はあの交差点で死んでしまったのだから。
高校二年の六月。
梅雨の湿った空気が肌にまとわりつく季節。
私は、新しい制服に袖を通し、折りたたみ式の白杖をしっかりと握りしめた。
母に手を引かれ、新しい高校の校門をくぐる。
見知らぬ生徒たちのざわめきが聞こえる。これから始まるのは、また同じ地獄の繰り返しだ。すりガラスの向こう側から向けられる好奇と憐憫の視線を想像し、私は奥歯を噛み締めた。
まさかこの場所で、私の閉ざされたすりガラスを叩き割り、無理やりにでも光を差し込ませてくる、一人の不器用な少年に出会うことになろうとは。
星街愛理の止まっていた時間が、微かに音を立てて動き出そうとしていた。
蒼井優生。
それが、私の世界に声だけで美しい色彩を描き出してくれた、彼の名前だった。




