表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第5章:限界を迎えた夫の「罠」と、待ち構えていた弁護士


包丁の一件以来、和代は一切家に来なくなり、智樹もまた希美の「異常行動」を恐れて口数を劇的に減らしていた。


そして金曜日の夜——智樹は「残業だ」と短いメッセージを残したまま、家に帰ってこなかった。


連絡を絶って丸一日。


土曜日の午後、カチャリと静かに玄関の鍵が開いた。


戻ってきた智樹の顔には、数日前の怯えや恐怖はカケラもなかった。


その背後には義母の和代、そしてスーツをビシッと着こなした見知らぬ五十代半ばの男が立っている。


「……ただいま、ノゾミ」


智樹の声には、隠しきれない優越感と余裕が滲み出ていた。


希美がソファから立ち上がると、和代は智樹の背中に隠れるようにしながら、勝ち誇った顔で希美を睨みつける。


「希美さん、覚悟しなさい。今日はあなたの『異常性』について、プロの方を交えてお話ししに来たのよ」


スーツの男が胸ポケットから名刺を取り出し、希美に差し出した。


「はじめまして。相沢智樹氏および和代氏の代理人を務めます、弁護士の吉本と申します」


吉本と名乗った弁護士は、どこか見下すような視線を希美に向けながら、リビングのテーブルへ書類を広げた。


「単刀直入に申し上げます、ノゾミさん。ご依頼人である智樹氏および和代氏から、あなたが日常的に精神的な異常行動を繰り返し、先日は包丁を持ち出して義母の和代氏および夫の智樹氏を威嚇・殺害しようとしたとお聞きしました」


吉本は淡々と、しかし威圧的な声で言葉を続ける。


「これは明白な『婚姻を継続しがたい重大な事由』であり、警察に被害届を出せば殺人未遂や暴力行為等処罰法違反に問われる可能性も十分にございます。もちろん、日常的な不味い料理の強要による精神的苦痛の賠償請求も可能です」


「……へえ」


希美は感情を殺した声で短く相槌を打つ。


智樹はここぞとばかりに腕を組み、鼻で笑った。


「言っただろノゾミ、お前はやりすぎたんだよ。俺も母さんも限界だったんだ。本来ならお前からガッツリ慰謝料をもらうところだけどさ……俺も鬼じゃない。無条件で離婚に応じるなら、警察への被害届も慰謝料請求もナシにしてやるよ。今すぐこの離婚届にサインしろ」


和代も横から口を挟む。


「ノゾミさん、こちらとしては警察に被害届を出す用意もあります。無条件で離婚に応じるのが、あなたのためですよ。まあ、仕事にかまけてまともな飯も作れず、狂って包丁を振り回すような女、うちの智樹にはもったいなさすぎたのよ!」


二人の中では、完璧なシナリオが出来上がっていた。


「包丁を持ち出した狂気の妻」という弱みを握り、自分たちが被害者の顔をして、慰謝料も払わずに希美を追い出す——完璧な「勝利」の算段だった。


智樹は勝ち誇った笑みを浮かべ、テーブルの上に離婚届とペンを叩きつけた。


「さあ、早く書けよ。それがお前のためだ」


静まり返るリビング。


智樹と和代の薄汚いニヤケ顔、そして弁護士の冷ややかな視線が希美に集まる。


しかし——希美は青ざめることも、震えることもなかった。


ただ静かに、小さく息を吐き出すと、ゆっくりと自分のバッグへ手を伸ばした。


「……わかりました」


希美の声は、驚くほど冷静で、通りが良かった。


「では、こちらからも資料をお出ししますね」


ドサッ。


希美がテーブルの上に置いたのは、指が埋まるほど分厚い【3冊のファイル】だった。


一番上のファイルには『モラハラ発言・暴言の文字起こしおよび音声データ目録(過去半年分)』。


二番目のファイルには『心療内科による重度ストレス障害の診断書および通院・処方記録』。


三番目のファイルには『専門医による味覚・嗅覚機能検査結果報告書(異常なしの証明)』。


「……な、なんだね、これは?」


怪訝な顔をした弁護士の吉本が、何気なく一番上のファイルを開いた。


パラパラとページをめくり、添付されたUSBメモリのラベルを見た瞬間——


吉本の顔から、サッと血の気が失われていった。


「……ッ!? こ、これは……」


「え? 何ですか先生、そんなゴミみたいな書類、見なくていいですよ!」


智樹が能天気に声を張り上げるが、弁護士の吉本は額に冷や汗を浮かべ、智樹を怒鳴りつけた。


「黙りなさい、相沢さん!!」


「え……?」


突然一転した弁護士の態度に、智樹と和代は鳩が豆鉄砲をくらったような顔で固まった。


希美は二人の絶望の始まりを優しく見つめながら、ニッコリと微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ