第6章:地獄へのカウントダウンと、手渡された請求書
「せ、先生……? どうしたんですか急に怒鳴ったりして……」
智樹はおろおろと狼狽え、和代も不安そうに首を傾げた。
吉本弁護士は額の汗をハンカチで拭うと、顔を引きつらせながら智樹たちを振り返った。
その目は怒りと呆れに満ちている。
「相沢さん……あなた方、私に嘘をついていましたね。『妻が精神異常で包丁を振り回した』『メシマズで苦しめられた』だと……? ふざけないでいただきたい!」
「え、えぇっ!?」
「こちらの録音データを少し確認しただけでも、あなた方二人が日常的にノゾミさんへ酷い暴言を吐き、仕事を辞めさせようと不当な圧力をかけていた証拠が明白です! さらに包丁の件についても『追い詰めた末のパニック誘導』と取れる音声がしっかり残っている! これで警察に駆け込んでも、失笑されて追い返されるのがオチですよ!」
「そ、そんな……! でも、あいつの飯は本当に不味くて——」
智樹が必死に食い下がろうとすると、希美は三番目のファイルをコンコンと指で叩いた。
「これは専門の医療機関で受けた味覚・嗅覚機能検査の診断書です。私の味覚には一切の異常がありません。つまり、智樹さんとお義母さんが主張する『メシマズ』は、私を精神的に追い詰めるための言いがかり——明確なモラハラ行為の証拠となります」
「くッ……っ!?」
智樹と和代は絶句した。
自分たちが希美より優位に立つために使い続けてきた「メシマズ」という武器が、そのまま自分たちの首を絞める絞首縄へと変わったのだ。
「吉本先生、これでも私を訴えますか?」
希美が静かに問いかけると、吉本弁護士は顔を蒼白にして深々と頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。私は辞任させていただきます。相沢さん、これ以上の法闘争はあなた方に百害あって一利なしです。素直に謝罪し、示談に応じることを強くお勧めします」
吉本弁護士は書類をカバンに押し込み、逃げるように部屋を飛びしていった。
頼みの綱だった弁護士に捨てられ、残された智樹と和代の顔は土気色に染まっていた。
「さあ、ここからが本題です」
希美はバッグからもう一枚の紙——産婦人科の診断書を取り出し、テーブルの中央に滑らせた。
「私のお腹には、新しい命が宿っています。現在妊娠二ヶ月です」
「え……? に、妊娠……!?」
智樹が目を見開く。和代も「孫……?」と息を飲んだ。
「喜ぶのは早いですよ。私はあなたと離婚します。そして、半年間の過酷なモラハラに対する【慰謝料】、さらには生まれてくる子の【認知】および【養育費】を請求させていただきます」
「よ、養育費……!? おいノゾミ、冗談だろ!? 俺の給料でそんなの払ったら、俺の生活が——」
「知ったことではありません」
希美の声には、氷のような冷たさが宿っていた。
「養育費に関しては、確実に回収できるよう弁護士を通じて公正証書を作成します。もちろん、逃げられると思わないでくださいね。不払いがあれば、あなたの給料や口座を法的手段で即座に差し押さえますから。あ、必要ならDNA鑑定もどうぞ。……どれだけ時間がかかっても、絶対に妥協しません」
「そんな……払えるわけないだろ! 母さん、なんとか言ってくれよ!」
「私に振らないでよ! 智樹の自業自得でしょう!?」
「なんだと!? 母さんだって一緒に責めてただろ!」
醜い責任の擦り付け合いを始める親子。
智樹は妻を失い、財産を奪われ、これから長年にわたり希美と子どもへお金を払い続ける未来が確定した。
和代もまた、外聞を気にする世間体モンスターでありながら、近所に「息子のモラハラで離婚され、慰謝料と養育費を請求される愚かな親子」として知れ渡る恐怖に震えている。
希美は二人の見苦しい争いを一瞥すると、あらかじめまとめておいたキャリーケースのハンドルを握った。
「離婚届は私の弁護士を通じて郵送します。サインして返送してくださいね。拒否すれば、すぐに裁判へ持ち込むだけですので」
膝から崩れ落ち、頭を抱える智樹と和代。
二人の絶望的な悲鳴と惨めな言い争いを背に受けながら、希美は玄関のドアを開けた。
差し込む太陽の光が、温かく希美を包み込む。
希美はそっと愛おしいお腹に手を当て、優しく微笑んだ。
(これからは、愛する我が子と二人で、溢れるほど豊かに生きていくのだから)
パタン、と静かにドアが閉まり、二人の地獄と、希美の新しい幸福な人生の幕が開いた。
(了)




