第3章:狂い始めた食卓と、妻の静かな「壊れ」
「いい、希美さん? 料理っていうのは根気なのよ。智樹は繊細なんだから、もっと味付けをしっかりして、出汁や調味料をふんだんに使いなさい!」
和代の「料理指導」という名の説教が始まって数日。
希美は和代の言うことを一言一句逃さずメモを取り、深々と頭を下げていた。
「はい、お義母さん。もっと味付けを濃く、調味料を惜しまず使うのですね……」
「そうよ。分かればよろしいの」
和代はふんぞり返り、智樹も「最初から素直に言うことを聞いていればいいんだ」と勝ち誇っていた。
——そして、その日の夕食。
食卓に並べられたのは、一見するとごく普通の豚の生姜焼きと味噌汁だった。
智樹は「やっとまともな料理を覚えたか」と満足そうに笑い、生姜焼きを大きめにつまんで口へと放り込んだ。
「……ん!?」
一口噛んだ瞬間、智樹の顔が急速に硬直した。
目を見開き、喉をゴクリと鳴らすと、猛烈な塩分と醤油の濃さに激しくむせ返る。
「ガハッ! げほっ、ゴホッ!! な、なんだこれ……っ!? しょっぺぇなんてもんじゃねぇぞ! 毒でも入ってんのか!?」
「ちょっと智樹、大丈夫!?」
和代が慌てて味噌汁を一口煽る。
しかし次の瞬間、「ぶふっ!」と盛大に噴き出した。
「な、何よこれ! 味噌の塊をそのまま飲まされてるみたいじゃないの! 希美さん、あなた正気!? こんなの人間が食べるものじゃないわよ!」
二人から同時に怒号が飛ぶ。
智樹は激しく咳き込みながら水を一気飲みし、和代は顔を真っ赤にして希美を睨みつけた。
だが——責め立てられた希美は、怒るでも焦るでもなかった。
ただ、光の消えた虚ろな目で、じっと二人を見つめている。
その顔には、どこか壊れてしまったかのような痛々しい笑みが浮かんでいた。
「……え? おかしいですか……?」
希美は蚊の鳴くような、かすれた声で呟いた。
「お義母さんが……『もっと味付けを濃く、調味料をふんだんに使え』とおっしゃったから……。私、自分の舌が信じられなくて、言われた通りに調味料をいっぱい入れたんです……」
「い、いくらなんでも限度があるでしょう! こんなの嫌がらせよ!」
「すみません……すみません……っ」
希美は急に頭を抱え、小さく震え出した。
「すみません……私、どうすれば美味しい料理が作れるのか、もう自分の舌が信じられなくて……。お義母さんの教え通りにやってるのに……私、おかしくなっちゃったみたいです……」
ハハ、と乾いた笑いを漏らしながら、虚空を見つめる希美。
その気迫すら感じる「壊れ」の演技に、智樹と和代は一瞬気圧され、背筋にヒヤリと冷たいものを感じた。
(……おいおい、まさか本当に精神的に参っちまったのか?)
(やりすぎたかしら……? でも、これで完全に折れたってことよね……)
一瞬の焦りと同時に、二人の胸に湧き上がってきたのは歪んだ優越感だった。
「妻を、嫁を完全に支配下に置けた」という勘違いが、彼らの危機感を麻痺させていた。
「はぁ……もういい、今日はメシ抜きだ! 気分が悪い!」
智樹は吐き捨てるように立ち上がり、自分の部屋へと逃げ込んだ。
和代も「明日からはもっと様子を見るわ」と気まずそうに捨て台詞を残して帰っていった。
静まり返った深夜のリビング。
智樹のいびきが廊下に響く中、希美は一人、キッチンの明かりを小さく点けた。
昼間、自分のためにコソコソと作っておいた特製の夜食——出汁がしっかり効いた、完璧な味付けの優しい雑炊をレンジで温める。
「ふぅ……美味しい」
レンゲですくい、一口食べる。
味覚は至って正常。精神も至って健康だ。
雑炊の温かさにほっと息をつきながら、希美はスマートフォンの画面を操作した。
そこには、和代の指導内容と、今日二人に出した調味料の分量メモ、そして二人が激怒した音声データがしっかりと保存されていた。
(二人が『自分たちのせいで壊れた』と勘違いして油断してくれれば、次の仕掛けがやりやすくなるわ……)
雑炊をきれいに平らげた希美は、暗闇の中で静かに冷ややかな微笑を浮かべた。




