第2章:『お前の舌が狂ってる』狂った正義と歪んだ密約
翌日の夜。
智樹と和代は、食卓で声を潜めてヒソヒソと話していた。希美がまだ帰宅していない、二人だけの時間だ。
「智樹、昨日の作戦はうまくいったわね。あの女、すっかりショックを受けて黙り込んでいたじゃない」
「まあな。フン、大企業の総合職だかなんだか知らねえけどさ、女のくせに俺より稼いでるのが昔から気に入らなかったんだよ。飯のことでマウント取って立場を教えてやらないとな」
智樹は満足そうに鼻を鳴らした。
彼らの目的は、最初から「美味しい料理を食べること」などではなかった。
希美の自尊心を粉々に砕き、自分たちの支配下に置くこと——ただそれだけだったのだ。
「ええ、その通りよ。このまま自信を奪って仕事を辞めさせ、家庭に入らせましょう。それが智樹のためであり、相沢家の正義なんだから」
和代は邪悪な笑みを浮かべ、智樹と密やかにうなずき合った。
——カチャ。
玄関の開く音が聞こえると、二人は一瞬で「厳格で正当な家族」の顔へと切り替えた。
帰宅した希美は、昨日とは打って変わって小さく肩を落とし、弱々しい足取りでリビングに入ってくる。
「……ただいま戻りました」
「希美さん、待ちくたびれたわ」
和代が腕を組み、ゆっくりと立ち上がる。
「昨日の件だけどね、私、真剣に考えたの。あなたがこれ以上、智樹に不味い料理を出して恥をかかないよう、明日から私が毎日ここに来て『料理指導』をしてあげるわ」
「えっ……お義母さんが、毎日……?」
「当然だろ」
智樹が上から目線で口を挟む。
「お前は自分の料理が不味いと思ってないみたいだからな。おふくろの指導を受けて、一から主婦としての常識を叩き直してもらえ」
「でも……私、デパ地下の惣菜はプロの味だと思って買ってきたのに、それすら不味いと言われると、本当にどうすればいいのか……」
希美が悔しそうに声を震わせると、智樹は吐き捨てるように笑った。
「プロの味? リップサービスに決まってるだろ! 毎日お前のメシを我慢して食ってる俺と母さんの言葉が信じられないのかよ! お前の舌が狂ってるんだよ!」
「お前の舌が狂ってる」——その暴言がリビングに響き渡る。
希美はショックを受けたように顔を覆い、深く息を吐き出した。
(……よし、最高のセリフが撮れた)
希美のポケットの中。
そこでは、スマートフォンで起動された録音アプリが、二人の暴言をクリアな音質で刻み続けていた。
「……分かりました」
希美はぽつりと呟き、うつむいたまま頭を下げた。
「お義母さんの言う通りにします。私の舌がおかしいのかもしれません……教えてください」
「ふん、素直でよろしいわ。じゃあ明日からビシビシ行くわよ」
和代は満足そうに胸を張り、智樹も「最初からそうしていればいいんだよ」と鼻で笑った。
二人は完全に勝利を確信していた。希美が自尊心を失い、自分たちの思い通りに屈服し始めたのだと。
だが、自分の部屋に戻り、ベッドに腰掛けた希美の顔から、困惑や悲壮感は瞬時に消え去っていた。
(和代の料理指導……言い換えれば、モラハラと理不尽な強要の連発ね。全部録音して、言われた通りの記録も細かく残しておこう)
希美は冷ややかな手つきでスマホを操作する。
画面に表示されたのは、とあるクリニックのWeb予約ページだった。
——『〇〇心療内科 初診予約完了』
夫と義母からの継続的な精神的ストレスによる体調不良。
その「客観的な事実」と「診断書」を手に入れるための第一歩だ。
「……さあ、どこまで付き合ってあげようかしら」
暗闇の中、液晶の光に照らされた希美の瞳には、二人への容赦ない冷徹な光が宿っていた。




