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第1章:『手抜き不味い飯』と吐き捨てた夫の皿に乗っていたもの


時計の針が午後八時を回る。


相沢希美あいざわ のぞみは、重い足取りでマンションの玄関をくぐった。


大手企業の総合職として働く彼女にとって、この時間帯の帰宅は日常茶飯事だ。今日も残業続きで、体は鉛のように重い。


(……急いで夕食の準備をしなきゃ)


息を整え、リビングのドアを開ける。


案の定、ソファには夫の智樹ともきがスマホを片手に寝そべり、その隣では義母の和代かずよが腕を組んで座っていた。


「遅かったじゃない、希美さん。智樹をこんなにお腹すかせさせて、妻としての自覚があるのかしら?」


開口一番、和代がトゲのある声を飛ばす。


智樹も画面から目を離さないまま、不機嫌そうに舌打ちを漏らした。


「本当だよ。外で少しばかり稼いでるからっていい気になってさ。俺なんて、お前より早く帰って待っててやってるんだぞ?」


智樹の年収は同世代の平均並みだが、総合職で役職手当のつく希美のほうが遥かに稼ぎが良い。


それが智樹の肥大化したプライドを傷つけていることを、希美は痛いほど理解していた。


そして結婚してからの半年間、彼らが希美より優位に立つために使い続けてきた言葉が——「メシマズ」だった。


「すみません、すぐに準備しますね」


希美は静かに頭を下げ、キッチンへ向かった。


——だが、今日の希美には一つの『試み』があった。


手ぶらで帰ってきたわけではない。


帰り道、有名百貨店の地下食品売り場に立ち寄り、一人前数千円もする一番人気の高級惣菜を買ってきていたのだ。


まろやかな黒酢ソースが絡む国産黒豚のとんかつに、新鮮な海の幸が溢れんばかりに入った魚介のカルパッチョ。


プロのシェフが丹精込めて作った、誰が食べても絶品としか言いようのない料理だ。


希美はそれらをパックから出し、丁寧にお皿へ盛り付けた。温め直し、食卓へと運ぶ。


「お待たせしました。どうぞ」


智樹は皿を一瞥すると、露骨に嫌そうな顔を作った。


箸でとんかつをひとかけらつまみ、口に運ぶ。


数秒の沈黙。


そして——


「ッ……ぺッ!!」


智樹は吐き出すように、ティッシュへ肉を捨てた。


「おいおい、今日も安定の罰ゲーム飯かよ。惣菜温めただけの手抜きにしても、お前が選ぶとこうも不味くなるかね?」


希美の胸の奥で、静かに何かが断ち切れた。


味付けすら希美がしたものではない。プロが作った高級惣菜だ。

それを一口噛んだだけで吐き捨て、「希美が選んだから不味い」と言い放つ。


理不尽なんてものではない。ただ単に、希美を貶めたいがための言いがかりだ。


「そうよ、希美さん」


和代も同調するように、カルパッチョの海鮮をつつきながら眉をひそめる。


「手抜きをするなとは言わないけれど、こんな味付けの濃い、品のないものを智樹に食べさせるなんて。仕事にかまけて主婦業を疎かにするから、舌まで馬鹿になるのよ。やっぱり家庭に入って、一から料理を学び直したほうがいいんじゃないかしら?」


「おふくろの言う通りだよ。はぁ……今日もまともな飯にありつけなかったな。俺、カップラーメン食うわ」


智樹は大袈裟にため息をつき、立ち上がってキッチンの棚へと向かった。


和代も「本当に智樹がかわいそう」と吐き捨て、自慢げに息子のお手伝いをし始める。


食卓に残された希美は、一人静かにうつむいていた。


肩が小さく震えている。


智樹も和代も、それを「妻としての不甲斐なさに泣いている」のだと確信し、満足げな視線を交わし合っていた。


だが——二人は気づいていない。


うつむいた希美の前髪の影。暗がりの中で——


(あぁ、そう。……そこまで言うなら、徹底的にやってあげる)


その口元が、冷たく、妖しく吊り上がっていたことに。

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