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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第5話「骨董商の正体」

麻痺しそうになる右手首の痛みに耐えながら、織部は数分間の完全なフリーズ状態を経て自らの思考回路を再起動させた。

内部システムは依然として危険なエラーの警告を発し続けているが、彼はその警報をバックグラウンドへ強制的に押し込めた。

荒くなっていた呼吸の乱れを慎重に制御し、意識の表層を極めて冷徹なエージェントのモードへと意図的に切り替える。

拒絶反応を抑制するために、織部は思考を強制的に外部タスクへと退避させた。

『あの子』が自分自身であるという結論は、すでに彼の中で全く揺るぎない事実として完全に確定していた。

ならば次に解明すべきタスクは、誰が何のためにこの異常な記録を三十年間も続けさせたのかという事実の特定だ。

梶川という老人は、巨大な闇の金融組織クロノスの末端に位置する無害な古物商にすぎない。

彼自身が何の理由もなく、見知らぬ子供の人生を三十年間もトラッキングし続ける論理的な動機などどこにも存在しないのだ。

梶川に記録を命じた人間か、あるいは梶川が記録を捧げ続けた相手が、必ずこの不可解な事象の背後に存在しているはずだ。

織部は机の上の古い手帳を静かに閉じ、パブリッシャーから支給された暗号化通信端末に向き直った。

設備点検業者としての物理的な潜入任務は、手帳を回収した昨日ですでに完了している。

ここから先の調査はパブリッシャーの深層データベースを用いた、情報空間での徹底的な追跡任務となる。

感情というバグに侵されかけている己のシステムを修復するためには、あらゆる事象を論理的に説明できる確かな根拠が必要だった。


織部は端末のキーボードを的確に叩き、パブリッシャーが独自に保有する膨大なデータベースへとアクセスした。

それは世界中のあらゆる裏社会の履歴から犯罪組織の興亡まで、表のネットワークには決して存在しないデータが蓄積された情報の深海だ。

彼は検索のパラメータを細かく調整し、梶川の現在のダミー経歴から三十年前へと一気にさかのぼらせた。

クロノスの前身となる犯罪組織が解体される直前の、完全に抹消されたはずのログを少しずつサルベージしていく。

通常のエージェントには閲覧権限が与えられていない深い階層まで、織部は最精鋭として付与された特権IDを用いて迷いなく潜行した。

過去の膨大な通信記録や暗号化された資金の移動経路などが、画面に緑色の文字列となって滝のように流れ落ちていく。

織部は自らの圧倒的な処理速度でそのデータの海から、梶川という末端の構成員と接点を持っていた人物を片っ端から洗い出していった。

やがて膨大なデータの集積の中に、不自然にぽつりと空いた一つの奇妙な情報の空白地帯が浮かび上がった。


梶川が三十年前に、極めて頻繁に暗号通信を行っていた相手が存在している。

だがその通信相手のプロファイルだけが、パブリッシャーの強固なデータベース上においてさえ厳重にロックされていた。

意図的に削除された痕跡が至る所に残されており、徹底した情報の秘匿が行われていることが明白だった。

パブリッシャーの高度な監視網を逃れてここまでの工作を行える人間は、裏社会においても極めて限られている。

織部は自らの高度な解析アルゴリズムを限界までフル稼働させ、破損したデータの断片を慎重に修復していく。

散らばったパズルのピースを一つずつ組み合わせるようにして、その人物の不鮮明な輪郭を根気よく再構築していった。

その男は組織の最前線で直接手を汚すような、粗暴で暴力的な構成員ではなかった。

世界中の裏口座と資金洗浄を管理する情報処理の中枢だったのだ。

その完璧な情報処理能力ゆえに組織の中枢深くに関与し、決して自らの意志で抜け出すことの許されない立場に置かれていた男だ。

パブリッシャーのデータベースにすら残されていないその男の真の目的を、織部はただ純粋な情報として抽出しようと試みた。

修復された断片的なデータが、モニターの黒い画面上に少しずつ意味のある文字を形成していく。

そして数十秒の重苦しい処理ののちに、名前が表示された。


織部は、その文字列を認識しなかった。

——いや、認識を拒否した。


またしても彼の内部システムで、許容量を超える不可解なデータが激しく軋む音が鳴り響いた。

画面に表示されたその名前は、織部自身の奥深くにある幼少期の記憶とともに永久に封印したはずのファイルに深く刻まれていた。

それは他でもない、織部悟の実の父の名だった。


父という存在。

織部にとって、それはすでにいかなる意味も持たない無価値な単語のはずだった。

物心つく前に自分を手放し、養護施設であるわかばの家に置き去りにした、論理的に不要なデータだ。

かつて彼自身が自らの手でシステムから削除したはずの人間的なバグが、父という単語をトリガーにして急激に増殖していく。

パブリッシャーに引き取られて完璧な機能としての人間になることを選んだ時点で、血の繋がりなどという感傷的な概念は完全に切り捨てていた。

だがモニターに映し出された無機質なデータは、織部のこれまでの認識を根本から覆す冷酷な事実を突きつけていた。

父はクロノスの前身組織の金庫番であり、すべての機密情報を統括する絶対的な中枢だったのだ。

あまりにも有能すぎるがゆえに巨大な犯罪組織に縛り付けられ、逃げることなど絶対に許されない絶望的な状況にあった。

織部は端末をさらに素早く操作して、より深い階層に眠る過去のデータを掘り起こしていく。

父の足跡は、三十年前のある時期を境にして不自然なほど完全に途絶えていた。


——織部が生まれた直後。


あの手帳の第一ページに最初の記述が記される、その直前の出来事である。

断片的な記録が明確に示しているのは、父が組織に対して何らかの重大な決断を下したという事実だ。

それは組織への致命的な反逆か、あるいは極秘情報の隠蔽だったのかもしれない。

報復として無惨に消されたのか自ら進んで消息を絶ったのかは、残された記録からは読み取れない。

ただ一つ確かなのはその直後に巨大な組織は一気に解体へと向かい、残党が現在のクロノスを形成していったということだけだ。


これらすべての情報が一本の線で繋がり、織部の脳内で完璧な論理の構築が完了した。

父は自分が組織から決して逃れられない運命にあることを、誰よりも正確に悟っていたのだ。

だからこそ息子である織部悟だけを組織の魔の手から逃がすために、自らの手でわかばの家へと預けた。

そして自分が完全に消えた後も遠くから息子の安否を確認し続けるために、最も信頼できる部下であった梶川にその過酷な任務を託した。

効率と合理性のみを追求する裏社会の論理から見れば、それはあまりにも無謀で狂気じみた行動に他ならない。

だがその非合理的な狂気こそが、織部悟という一人の人間を今日まで生かし続けてきた唯一の理由だったのだ。

あの三十年分にも及ぶアナログな手帳は、ただの古物商が趣味で書いた感傷的な日記などではない。

それは決して会うことのできない父の代わりに、梶川が三十年もの途方もない時間をかけて書き続けた究極の報告書だったのだ。


『これでようやく、あの子は自由になれる』

手帳の間に挟まれていた新聞記事の余白に書かれていた、あの一行のインクの文字列。

あれは決して、見知らぬ誰かのために書かれた無関係な言葉ではなかった。

三十年前のあの日に、織部悟という人間が自由の身になることをこれほどまでに強烈に切望していた人間がいるのだ。

組織が壊滅して追手が息子に及ぶ危険が去ったことを、姿なき父へ向けて報告した梶川の強烈な安堵の言葉だった。


モニターの冷たい光に照らされた織部の顔には、依然として一切の表情が浮かんでいない。

だが彼の内部では論理のアルゴリズムでは到底処理しきれない膨大なノイズが、許容バッファを超えて激しく溢れ続けていた。

自分はただの不要なデータとして、親から完全に削除されたわけではなかった。

三十年間一度も会うことのない父の切実な依頼によって、見知らぬ骨董商の老人から一日も欠かさず見守られ続けていたのだ。

それはパブリッシャーの冷酷な仕様書には決して書かれることのない、ひどく人間的で非効率な愛情の形だった。

自分に向けられていたその途方もない時間の蓄積を思い知らされ、織部は自らの呼吸が微かに震えていることを客観的に観測した。

その見えない圧倒的な執念の重さが、織部のエージェントとしての存在意義を根底から激しく揺さぶっていく。


織部は無言のまま、端末の電源を静かに落とした。

青白い光がふっと消え、部屋は再び深い暗闇と朝の冷たさに包まれた。

パブリッシャーから与えられた本来の任務は、クロノスの情報伝達経路の特定と確たる証拠の確保だ。

だが今この瞬間において、彼を突き動かしているのは組織からの冷徹なマニュアルではない。

彼は自らの明確な意志で、硬い椅子からゆっくりと立ち上がった。

モニター越しに過去の無機質なデータを眺めているだけでは、この深刻な処理遅延を解決することは絶対にできない。

あの手帳を三十年間も書き続けた男である、梶川という存在。

彼と直接対面して、三十年間の空白のすべてを彼自身の口から引き出さなければならない。

それはパブリッシャーの精鋭エージェントとしての、任務の完全な逸脱を明確に意味していた。

だが織部は点検業者の作業服を部屋の隅に脱ぎ捨て、普段の黒いジャケットを無言で羽織った。

夜明けの空気が張り詰める冷たい街へ向けて、彼は静かに歩み出した。


【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

https://ncode.syosetu.com/n5481mc/


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