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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第6話「父の輪郭」

夜明けの冷たい空気が、織部の黒いジャケットを容赦なく通り抜けていく。

点検業者としての偽装を完全に脱ぎ捨てた彼は、エージェントではなく織部悟という一個人として街を歩いていた。

誰もいない公園のブランコが、微かな風に吹かれて軋む音を立てている。

その金属の擦れる冷たい音が、織部の内部で鳴り響くシステムエラーの警告音と奇妙に同調しているように感じられた。

だが彼の足は、梶川の営む骨董品店の数ブロック手前にあるその無人の公園で静かに止まった。


織部は冷え切ったベンチに腰を下ろし、ジャケットの内ポケットから持ち出していた最新の手帳を数冊取り出した。

ふと、彼はその記述の質的な変化に気づいた。

三十年分の記録のうち、最初の二十年と最後の十年では、書かれている内容の性質が根本的に異なっているのだ。

前者には日付に応じた気象、祭事、事故といった具体的な外部事象との照合が緻密に組み込まれていた。

だが後者の十年には、そうした現実世界との接続を示す情報が完全に消失している。

残されているのは、ほぼ問いの形だけだった。

『元気だろうか』『無事でいるだろうか』『今日はどこにいるのだろうか』。

それはもはや対象の追跡記録ではなく、暗闇に向かって発せられるただの純粋な祈りに他ならなかった。

この空白の十年間。

それは他でもない、織部がパブリッシャーに引き取られ、あらゆる公開情報から完全に「消去」された期間と正確に一致している。

手がかりが完全に途絶えた後も、老人はこの途方もない祈りを一日も欠かすことなく書き続けていたのだ。

その事実の重さが、織部の内部システムをさらに深く軋ませる。

織部は手帳を静かに閉じ、再びポケットへとしまった。


直接対面してすべての真実を引き出す前に、彼にはどうしても確認しておかなければならないことがあった。

それは暗号化通信端末を用いた、父という人物の客観的な輪郭の構築だ。

父はクロノスの前身組織において、金庫番であり情報管理の絶対的な中枢だった。

それは組織の巨大なシステムの中で、冷酷な意思決定の根幹に深く関わっていたということを意味する。

自分が生き延びるために与えられた愛情の重みを知った今、父が組織で具体的に何をしていたのかを知る必要がある。


織部は端末を取り出し、画面に複雑なパスコードを素早く打ち込んだ。

特権IDの認証を経て開かれたその扉の奥には、歴史の闇に葬られた膨大な真実が静かに眠っていた。

父の名前を入力して実行キーを押すと、端末はわずかな沈黙の後に暗号化されたファイルを次々と展開していく。

パブリッシャーの深層データベースへと再び接続し、三十年前の抹消されたログを強引に抽出していく。

画面には血と暴力と金にまみれた、冷酷な文字列の羅列が緑色の光となって滝のように流れ落ちていった。

敵対組織の徹底的な壊滅や、裏切り者の無慈悲な粛清の記録。

父はそのすべてを完璧な情報処理で管理し、巨大な組織の勢力を拡大させていったのだ。

その圧倒的な効率性と論理の美しさに、織部は同種のシステムとして微かな共鳴すら覚えそうになる。


だが検索条件を末端の下請けの整理に絞り込んだ時、ある一件の記録が織部の視覚センサーを捉えて離さなくなった。

それは三十年前の、ある若い夫婦と幼い娘に関するごく短い報告書だった。

父親は表向きは小さな運送会社を細々と営んでいたが、裏では組織の末端で資金の運び屋として利用されていた。

しかしある日彼は組織の非道な取引内容に異を唱え、家族のために抜け出すことを懇願したのだ。

その若い父親は娘の誕生日に小さな自転車を買ってやる約束をしていたというメモまでが、監視記録に残されていた。

巨大な犯罪組織のシステムにおいて、末端の歯車が個人の意思を持つことは決して許されない。

不要なエラーは即座に排除されるのが、裏社会の絶対的なルールだ。

組織の冷徹なシステムは個人のささやかな事情など一切考慮せず、ただ効率的にエラーを排除するだけだ。

パブリッシャーのデータベースに残された報告書には、極めて事務的な文体でその家族の整理の過程が記されていた。


父親は深夜の港に呼び出されて拉致され、それ以降二度と家に戻ることはなかった。

現在に至るまで行方不明のままであり、海の底に冷たく沈められたことは誰の目にも明らかだ。

母親は翌日、何も知らない五歳の娘を連れて街から逃げようとした矢先に不自然な交通事故に巻き込まれて死亡した。

大型トラックが信号を無視して突っ込んできたその凄惨な事故は、警察の記録では単なる居眠り運転としてあっさり処理されている。

残された五歳の娘だけが奇跡的に無傷で生き残り、親戚にも引き取られることなく遠くの児童養護施設へと送られた。

末端の構成員に対する見せしめとして、その家族は最も残酷な方法で解体されることが決定されたのだ。

記録はそこで、まるで初めから何もなかったかのように完全に終わっている。

報告書の末尾には、粛清の実行部隊に支払われた経費の明細までが几帳面に記録されていた。

その経費の決済に無表情で判を押したのは、他でもない情報と財務を統括していた織部の父だったかもしれないのだ。


織部は端末の青白い画面の光に照らされながら、無表情のままその非情なデータを読んだ。

添付された古い画像ファイルには、事故現場の路上に転がった母親の片方だけの靴が写っていた。

警察の調書からハッキングして引き出されたその画像は、ひどく不鮮明で荒い画質だった。

だがその粗いピクセルの中に残された鮮やかな赤色は、織部の網膜に強烈なコントラストとして焼き付いた。

それは日常のささやかな幸せが、巨大な暴力のシステムによって一瞬で粉砕された生々しい痕跡だ。

織部はその画像を何の感情も交えずに、ただ客観的な視覚情報として自らのシステムに読み込んだ。

だがページを閉じて画面を真っ暗にした後、しばらくの間彼は次の作業に移ることができなかった。

彼の脳内の中枢で、処理を完了したはずのデータが、消えずに重いノイズとして居座り続けている。


親を奪われ見知らぬ施設へと送られたその五歳の娘は、その後どのような人生を歩んだのだろうか。

絶望の中で心を閉ざし、自分と同じように感情を切り捨てることでしか生き延びられなかったのかもしれない。

あるいはどこかの裏社会に取り込まれ、クロノスの末端として使い捨てられる運命を辿った可能性もある。

自分が父によって匿われ、梶川の手帳によって三十年間も見守られ続けていたのとは対照的だ。

組織の巨大なシステムを維持するためには、個人の感情や倫理観は徹底的に排除されなければならない。

父はその冷酷なルールを誰よりも熟知し、それを冷徹に実行する側にいた人間だ。

だからこそ自分がシステムから追放されることを悟った時、自らの息子だけはルールの外側へと逃がそうとしたのだ。

そして織部悟を特別な存在として守り抜き、そのためのシステムを緻密に構築した。

だが巨大な組織を維持するために、他の子供の未来は冷酷な計算式のもとにあっさりと切り捨てたのだ。


父は自分という一人の息子を救うために、絶望的な運命に抗い梶川に後を託した。

それはパブリッシャーのマニュアルには存在しない、崇高で人間的な愛情だ。

だがその同じ父が中枢を担っていた組織は、別の誰かの家族を無慈悲に破壊し幼い子供からすべてを奪い取っていたのだ。

自分に向けられた狂気じみた深い愛情と、他者に向けられた冷酷で暴力的なシステム。

その全く相容れない矛盾した二つの事実が、織部の内部で激しく衝突し合っている。

そして最も彼を軋ませているのは、三十年前にその家族を壊した組織の残党が今もクロノスとして存在しているという事実だった。

彼らは形を変え規模を変え、今この瞬間も同じように誰かの家族を無慈悲に壊し続けている。

借金を返せない者を追い込み裏切り者を闇に葬り去り、残された子供たちを絶望の淵へと容赦なく突き落としているのだ。

それが織部の父がかつて関与し、そして構築に加担した組織の現在の姿である。

父が残した組織の末裔が、今日も世界のどこかで誰かの日常を音もなく破壊し続けているのだ。


織部の視界の端で、朝日に照らされた街の輪郭が少しずつ鮮明に浮かび上がってくる。

パブリッシャーの精鋭エージェントとして、彼はこれまで無数のターゲットを冷徹に処理してきた。

自分もまた、クロノスと同じように誰かの日常を奪うシステムの一部として機能してきたのではないか。

その疑問が鋭い棘となって、彼の機能的な思考回路に深く突き刺さる。

織部は自分の過去と現在が、目に見えない巨大な血の鎖で繋がれているのをはっきりと感じていた。

自分はただの無関係な観測者ではなく、この残酷な連鎖の一部として初めから深く組み込まれていたのだ。

父の愛によって生かされた自分の命は、他の誰かの犠牲の上に成り立っているのかもしれない。

その事実は彼がこれまで信じてきた論理のアルゴリズムを、根底から激しく揺さぶり崩壊させていく。


彼は無人の公園で、冷たい朝の空気を肺の奥深くまでゆっくりと吸い込んだ。

そして自分の中に溜まった行き場のない熱を逃がすように、深く長く息を吐き出した。

白い呼気が朝靄の中に溶けて、静かに形を失って消えていく。

これが自分が長年排除してきた感情というバグによるものなのか、それとも単なる自律神経の生理的な反応なのか。

織部はその判定を下すことを、初めて自分自身の意思で無意識のうちに完全に放棄した。

今はただ、自分に一万日分の記録を残し続けたあの男の元へ向かうことだけが唯一のタスクだ。

冷え切ったベンチからゆっくりと立ち上がり、彼は再び朝の街へと静かに歩み出した。

骨董品店の扉を開けた先で梶川が語る真実と、正面から向き合うために。


【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

マニュアルキラー 第5部

~戦争を止める仕様書~

https://ncode.syosetu.com/n5481mc/


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