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マニュアルキラー 第6部 父の手帳  作者: 早野 茂


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第4話「一致」

無機質な部屋を、朝の完全な光が白々と満たしていた。

織部は硬い椅子に座り、左手で右手首を強く固定したまま、ページをめくるという物理的なタスクを強制的に継続していた。

彼の内部システムは、原因不明の処理遅延によって依然として重い負荷を引きずり続けている。

年齢と生年月日の一致。

その事実が引き起こした未知のエラーを鎮静化させるためには、論理的な否定材料――別人である決定的な矛盾点を見つけ出すしかない。

それを発見することだけが、彼を元の完璧な機能としての存在へと復旧させる唯一の解決策だった。

織部の視覚センサーは文字列の上を滑り、そこから客観的な文字情報だけを抽出し続ける。

だが彼が求める別人である証拠は、いくらページをめくっても、どこにも見当たらなかった。

それどころか古い紙面から浮かび上がるのは、織部の過去のアーカイブと残酷なまでに合致する事象ばかりだった。


『三年生になった。担任は厳しいと聞くが、あの子はうまくやっているだろうか』

『自転車で転んだらしい。怪我の程度が分からない』

『初めての海だ。水は冷たくなかっただろうか』


織部の脳内に保存されている、長年アクセスすることすら忘れていた古い記憶の断片。

それが手帳の記述と、恐ろしいほどの精度で同期していく。

厳しい担任の怒声、擦りむいた膝の微かな痛み、そして初めて触れた海水の凍えるような冷たさ。

彼がこれまでシステムから徹底的に排除してきたはずの過去の感覚的ノイズが、古いインクの染みを通して次々と呼び覚まされていく。

ただの同い年の子供の記録だという論理の盾が、少しずつ、だが確実に削り取られていくのを織部は感じていた。

それでも彼は、計算機のように冷徹にデータを読み込み続けた。

やがて、数冊目の手帳の中盤。

三十年前の春の日付が記されたページで、彼の視線がピタリと停止した。


『今日から新しい場所だ。わかばの家というらしい。あの子は泣いていないだろうか』


わかばの家。

その五文字のテキストデータが脳内に取り込まれた瞬間、織部の内部で稼働していたすべての並列処理が強制終了された。

それは暗号でも比喩でもない。

極めて具体的な、一つの明確な固有名詞だった。

織部はパブリッシャーから支給された暗号化通信端末に触れ、自分自身のアクセス制限付き個人データを呼び出した。

画面に表示された、冷たい電子の文字の羅列。

そこには、織部が幼少期を過ごした児童養護施設の名前が正確に記録されている。

『わかばの家』。


織部は端末の青白い画面の光と、古い手帳の紙面を交互に見つめた。

ただ一つの固有名詞が偶然一致する確率を、バックグラウンドで瞬時に計算する。

全国に存在する何千という児童養護施設の中から、同じ名前が偶然記される確率はゼロではない。

まだだ。まだ論理的に飛躍してはならない。エージェントとしての客観性が、早計な判断を戒めている。

だが織部の思考回路は、すでに次の厳密な検証プロセスへと移行していた。

彼は手帳の束の一番下から、最も古い一冊を引き抜いた。

第一ページ目。

三十年前のある秋の日付で、この異常な記録は始まっている。

『今日も晴れ。あの子は元気だろうか』

織部は再び端末に視線を戻し、自身のデータファイルの入所日の項目を無表情に確認した。

彼が親元から離れ、『わかばの家』に正式に引き取られた正確な年月日。

それは、手帳の第一ページ目に記された記録の開始日と、一日の狂いもなく完全に一致していた。


年齢。

施設名。

入所日。


三つの完全に独立したデータポイントが、一つの座標上で寸分の狂いもなくピタリと重なり合った。

織部の内部で稼働する論理のアルゴリズムが、冷酷なまでに正確な計算結果を弾き出した。

これが単なる偶然の一致である確率は、天文学的なゼロに等しい。

もういかなる仮説を用いても、この事実を別人の記録として処理することは不可能だった。

彼が懸命に維持しようとしていた論理の盾が、限界点を超え、ついに音を立てて粉々に砕け散った。

自己防衛のための強固なファイアウォールは、ただ一つの事実の前にあっけなく瓦解したのだ。

織部はその場に座ったまま、自身のシステムの最深部で確定させた。

導き出された唯一の結論。


『あの子』は、織部悟だ。


この三十年間に及ぶ狂気じみた見守りの記録は、他でもない自分自身に向けられたものだったのだ。

感情による飛躍ではない。

パブリッシャーの最精鋭エージェントとして、あらゆる事象を客観的かつ冷徹に処理してきた彼自身の論理が、その事実を明確な解として導き出していた。

自分は三十年間、一日も欠かすことなく、見知らぬ誰かに遠くから監視され、記録され続けてきた。

自分がターゲットとして長年追跡されていた——その事実に対して起動すべき警戒や危機感は、なぜか起動しなかった。

代わりに織部の内部に広がっていたのは、ひどく静かで重いノイズだった。


『これでようやく、あの子は自由になれる』


日中の潜入任務で発見し、手帳に挟まれていた古い新聞記事の余白。

そこに書き込まれていたインクの文字列が、再び彼の脳裏にフラッシュバックした。

あれは、見知らぬ誰かのための言葉ではなかった。

三十年前、織部悟という人間が自由になることを、これほどまでに強烈に切望していた人間がいるのだ。

織部は、無意識のうちに手帳のページに触れていた。

劣化し黄ばんだ紙の表面に残る微かな凹凸が、書き手の筆圧の強さを無言のまま物語っている。

自分という存在が、これほどまでに重く、執拗な祈りのような視線に晒され続けていたという事実。

その重圧が、織部のシステム全体を物理的に軋ませていく。


結論は確定した。

ならば、次に移行すべきタスクは明確だ。

この一万日を超える記録を、三十年間も書き続けた人間は一体誰なのか。

巨大な闇の金融組織クロノスの末端で使い捨てられるような古物商、梶川という老人が、自分に対してこれほどの執着を抱く論理的な理由は存在しない。

梶川はただの記録者に過ぎないはずだ。

この果てしない視線の真の主は、その背後にいる別の誰かだ。

誰が。

何のために。

自分という存在を三十年間も遠くから見つめ続けてきたのか。その執念の源泉はどこにあるのか。


その問いを立てた瞬間だった。

織部の右手が、再び激しく震え始めた。

今度のフリーズは、先ほどの処理遅延とは比べ物にならないほど強烈なものだった。

一定であったはずの呼吸の制御が乱れ、視界の端にノイズが走る。

重大なエラーの警告が、彼の内部で警報のように鳴り響いていた。

誰が書いたのかという当然の疑問に向かおうとしただけで、なぜシステムがここまで決定的な拒絶反応を示すのか。

それは未知の脅威に対する防衛本能なのか。

それとも、決して触れてはならない真実に近づくことへの、根源的な回避プロトコルなのか。


『今日から新しい場所だ。わかばの家というらしい。あの子は泣いていないだろうか』


その言葉の奥に潜む、ひどく不器用で、しかし確かな体温のようなもの。

それを書いた人間の正体を暴くことは、織部悟という完璧に構築されたシステムそのものを、根底から破壊する行為になるのではないか。

論理では説明のつかない直感が、彼に深刻な警告を発し続けていた。

左手で強く握りしめた右手首の感覚が、次第に麻痺していく。

爪が食い込むほどの力を込めているのに、震えは一向に収まらない。

原因不明のエラーは、もはや彼の思考の奥深くにまで完全に侵食し始めていた。

だがそれが何という名前の現象なのかを、織部はまだ自分の言葉で言語化することができなかった。

冷たい朝の光が容赦なく彼を照らし出す中で、彼はただ、自分自身の過去という名の巨大な迷宮の入り口で立ち尽くしていた。


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