第20話 魔法使いは別れを告げる
数カ月ぶりに見る居間は、まるで別の部屋のように様変わりしていた。
「……ヒース? ヒース! 帰ってきたのか! 良かった、見てくれこの惨状を。どれもこれも全部……」
ジルがヒースに気づいて飛び上がり、何やら喚いている声も、あまり耳に入らなかった。
ふたりで使っていた長机も、ヒースが気に入っていた食器も、壁に留めていたちょっとしたメモ書きも──すべてがさっぱりと失われ、新しいものに入れ替わっている。呆然と立ち尽くすヒースに気付かず、ジルはひとりで「ああ!」と声を上げる。
「それより先にあいつを呼ばなきゃな。エセルヴォルド、ヒースが帰ってきましたよ!」
小さな翼で飛んでいったジル(ジルは翼ある蜥蜴なので、実際は、ごく小さな竜と言ったほうが正しいのかもしれない)が、瞬く間にエセルヴォルドを連れて戻って来る。
扉の前に立ったままのヒースに、エセルヴォルドが近づいてくる。そうしてヒースは、呆然としたまま、エセルヴォルドの姿を見上げた。
「戻ったのですか」
エセルヴォルドは、何一つ変わっていないみたいに見えた。
ヒースを見下ろす顔はいつもどおりの無表情で、声にも何かしらの感情が乗っているようには聞こえない。そのあまりに淡々とした様子に、ヒースはいっそ懐かしさすら覚えた。
エセルヴォルドは変わらない。──ヒースが、いてもいなくても。
ヒースが使っていたものをあっさり片付けながら、ヒースが戻っても何事もなかったかのような顔のままでいる。その執着のなさは、まさしく、彼が人ではないことを表しているようでもあった。
エセルヴォルドはおそらく、良くも悪くも、ヒースのことが、どうでもいいのだ。ぐっと重たく胸が傷んで、ヒースは咄嗟に顔を俯けた。
そうしないと、泣いてしまいそうだった。
(……落ち着け)
わかっていたことだ。
いや、正確には、『この可能性も想定した上でここに来た』。
(わかってたことだ。僕が出ていったって、師匠の生活は変わらない。いらなくなったものを処分しただけだ。……もしかしたら、家さえ放棄していた可能性もあった。想定の中ではマシな方だ)
こうして顔を合わせることができたからには、少なくとも、話はできる。ヒースは一度息を吐いて自らを落ち着かせ、それから、やっと顔を上げた。
「違いますよ。……聞きたいことがあって来たんです」
「聞きたいこと、ですか?」
「はい」
エセルヴォルドを、正面から見上げる。
「僕は、『海竜アズロ』の生贄ですか?」
エセルヴォルドが、ごく僅かに眉を動かす。それだけで、ヒースにとっては十分だった。
「そうですか。そして師匠は、『原初の古竜』……あるいは、エルセリニアを守る神エルセだと。そういうことで合ってます?」
「……よく、調べましたね」
「聖女の友人ができましてね。……そうですか」
すべては、ヒースの想定通りだったと言うことだ。十八年前に捧げられるはずだった生贄。十八年前に失われるはずだった命。
「わかりました。……じゃあ」
ならば、そのせいで起きている問題を、この命で解決するのはおそらく正しいことだ。ヒースは頷き、エセルヴォルドに向かって軽く微笑んだ。
「師匠なら……いや、違うな。大神エルセであれば、とうにご存知のことと思いますが」
ヒースの改まった口調にだろうか、エセルヴォルドが軽く眉を寄せる。その不快そうな顔を気にせず、あくまで穏やかにヒースは続けた。
今度こそ、美しい別れにしたかった。
「エルセリニアの西側が荒れています。人々はそれを、十八年前の『生贄』の失敗のせいだと考えている。──『海竜アズロ』には生贄が必要だ。十八年前に受け取り損ねた生贄が。……だから今日は、お礼を言いに来たんです」
ヒースは笑った。うつくしく見えるようにと祈りながら。
「長い間……育てていただいて、ありがとうございま、……ッ!?」
けれどもそのヒースの試み、せめて美しい姿でエセルヴォルドの記憶に残ろうという企みは、とうのエセルヴォルドのせいであえなく破綻した。ダン、と大きな音が鳴った──それが、エセルヴォルドが手にしていた杖を思い切り扉に叩きつけた音だということに気づくまでに少しかかった。
「師匠……?」
まるで、杖で閉じ込められているかのような姿勢だ。ヒースは軽く眉を寄せた。
「……何か、間違ったことを言いましたか」
エセルヴォルドの表情は変わっていないが、その金の瞳に、ひどく強い光が宿っているような気がする。刺すような金でヒースを射すくめながらエセルヴォルドが尋ねる。
「生贄になりに行くのですか」
どうしてそんな、自明のことを聞くのだろう。ヒースは訝しみながら頷く。
「はい。だって……師匠は、そのために僕を育てたんでしょう?」
びりっ、と。
その瞬間、空気が震えた。ぱちぱちと何かが弾けるような小さな音がして、ヒースは反射で首を竦める。雷の予兆だ。ヒースがなにかしでかしたときに落とされていた雷。──いや、どうして雷が?
「……そのために?」
状況が理解できないヒースの前で、雪山よりもなお冷たい、凍りつくような声でエセルヴォルドが言う。
「私が? 君を? アズロの『花嫁』にするために育てたと?」
ヒースは思わず「ひっ」っと喉を鳴らして一歩後退り、あっさりと扉に阻まれて足を止めた。
逃げられない。……逃げられないなら、戦うしかない。ヒースは必死で口を動かした。
「ち、……違うんですか」
なんで、エセルヴォルドが怒っているんだ。というか『花嫁』ってなんだ、初耳だ、それじゃあ男じゃ条件を満たさないわけだ……って、じゃあ、今ヒースが行くのも無意味なのだろうか? いやそれは困る。ヒースは必死で首を振った。
「いや、違う。そうじゃないとしても、他に方法がないでしょう。度重なる瘴気の発生、地震、大雨……西の民はもう限界です。はやく鎮めてやらないといけない」
「君は、死ねと言われれば死ぬのですか」
違う。
そうじゃない。そうではないのだ。ただ僕は。ヒースはきっと唇を噛んで、挑むようにエセルヴォルドを見上げた。
「……なんで、師匠がそんなに怒るんですか?」
エセルヴォルドが、気圧されたように口を閉ざす。
喧嘩なんてものは、内容なんて二の次で、結局、押し負けたほうが負けなのだ。エセルヴォルドとの暮らしの中で、ヒースはそれを学んでいた。感情が怯えから怒りへと振り切れてしまえば、口は嘘のように良く回った。
「『君は自由だ』と言ったのはあなたでしょう。僕がどうしようとどうでも良かったんでしょう?」
「どうでも、とは」
「気になっていれば、手紙のひとつでも寄越すのが普通です。僕はきちんと、リアムの家に世話になっていると連絡を入れました。なのにあなたは、返事のひとつもよこさなかった」
「……それは」
「この部屋だって、僕のものを全部片づけて、戻ってくるなんて思っていなかったんでしょう。……ばかみたいだ。僕は、」
勇者パーティーの旅路、王都での日々、そういうものが、頭の中で閃いては消えていった。楽しい日々だった。価値のある日々だった。たぶんもっとずっと、いつまでだって続けられたかもしれない。
でも。
「僕は、何をしていても、あなたのことばかり思い出してた。何をしていても、あなたが好きだと思わされるばかりで、……」
泣くな。
「……だから」
もう少しだ。もう少しで全部吐き出せる。死出の旅に、ばかみたいな未練を抱えて行かずにすむ。
「だから僕は、自分自身の意思で、望んで、『生贄』になるんです。……大神エルセ、僕は、あなたのことが、すこしわかった気さえしているんだ」
何を思い出したって、最後に残るのは、あの山頂の景色ばかりで。
「あなたが見せてくれた光景そのままに、……この国は、とても美しかった」
あの日のエセルヴォルドの表情の意味が、ヒースには、やっとわかったのだ。
「僕は、エルセリニアという国が、エルセリニアに住む人々が好きだ。だから……僕は、この国を守りたい。かつてあなたが、王家の祖を助けたように」
エセルヴォルドは愛しているのだ。彼の守る国。この島の、エルセリニアの大地と、そこに住む人々。その暮らしをきっと愛している。あの日ヒースが見た表情はだから、ヒースに向けられたものではなくて、エルセリニアという国に向けられたものだった。
「……ずっと、好きでした。あなたのことが」
──今まで、ありがとうございました。
今度はなんとか言い切れて、ヒースはそのまま、自身の杖でエセルヴォルドの杖をなんとか弾いた。そうして、蹴破る勢いで扉を開けて、あの日──数ヶ月前、この家を出たあの日のように、そのまま飛行魔法で空へと飛び立つ。
もっと見ていたかった。もっと綺麗に別れたかった。ひどい顔だっただろうな、と思う余裕がやっとできて、ヒースは少し情けなく笑った。泣いているのか笑っているのかわからないような顔だっただろうな。
それでも、どんな顔でもいい、彼の記憶に残りたかった。
──けれども、きっと、エセルヴォルドは、ヒースのことを、すぐに忘れてしまうのだろう。
あの、すっかりヒースの気配がなくなってしまっていた部屋を思うと、そういう想像しかできなくて──ヒースは何も考えたくなくて、そのまま、西の入り江を目指して、ただひたすらに飛び続けた。




