第2話 魔法使いはこうして育った
ヒースは、エルセリニア国の最北に位置する霊峰・エーデ山に住む魔法使いエセルヴォルドの、唯一無二の弟子である。
ヒースは、物心ついたときからずっと、エセルヴォルドとともに暮らしていた。小さな蜥蜴の姿をしたエセルヴォルドの使い魔・ジルが言うところによると、『赤子のときにエセルヴォルドが連れてきて、俺はその世話をするために作られた』らしい。ともかくヒースは、エセルヴォルドの家と山の麓の村とを往復するような、ごく静かな生活をしていた。
一年の半分が雪に覆われた山で、無口で厳しい師匠との二人暮らし(陽気な使い魔も加えれば三人暮らしか)。けれどもヒースは、そんな生活に一つの不満もなかった。
なぜならヒースは、物心ついたときからずっと──つまり人生のすべてにおいて、エセルヴォルドのことを敬愛していたからである。
エセルヴォルドはとても厳しい師匠だったが、同時に、とても過保護な親でもあった。
子どもを育てるのがはじめてだったらしいエセルヴォルドは、ヒースをとにかく大切に育てた。ヒースが咳のひとつでもすれば部屋を蒸気で満たし、熱など出た日には最高級の回復薬を取り出してきてヒースに飲ませた(不味くて吐いた)。外出時は常にジルを共につけさせ、それでも一度雪に埋もれて死にかけたことがあったが、そのときのエセルヴォルドといったら、彼のほうが死んでしまうんじゃないかという顔をしていた。
エセルヴォルドはとかく表情に乏しく、物言いに厳しい男だったのだが、その不器用で過度な愛情は、感じ取らないほうが難しい代物だったのだ。
不器用ながらも重すぎる愛を全力で注がれてしまえば、嫌いになる方が難しい。
ヒースはエセルヴォルドの教育と愛とを全身で受け、めきめき魔法の実力を伸ばし、ついでに自己肯定感をすくすく育てていった。そして、同時に、エセルヴォルドの愛に応えるべく、エセルヴォルドの苦手な家事全般を覚え、家の中を快適に整えていった。
そんなヒースに転機が訪れたのは、ヒースが十五歳になったとき。
エセルヴォルドは『最後の課題』と称してヒースを連れ出し、ひとりでエーデ山の山頂にたどり着くように言い渡した。過保護でありながら手加減はしない、一見矛盾する行動をあっさりやってのけるのがエセルヴォルドである。ヒースは人生において二度目となる死の覚悟をしつつ、どうにか山頂にたどり着き──そこで、この世で最もうつくしい景色を見た。
奇しくも、時は夕暮れ。
山頂からは遠く島の端、海岸線までが見渡せて、まるで空と海とが赤銅色の光の帯によって溶け合うかのようだった。視線を上げれば澄んだ空に星がきらめき、視線を下げれば都市の明かりが靄のように見える。
エルセリニアのすべてが、視界の中にある。
その壮大さに圧倒され、言葉のひとつさえ形にならず、指先のひとつさえ動かせない。ヒースはしばらく呆然と固まって──それからふと、横から注がれる視線にやっと気がついて、はっとして顔をそちらに向けた。
そこには、当然のように、エセルヴォルドが立っていた。
己に注がれるその視線、この景色を前にしながら己のみに注がれている視線の柔らかさに、ヒースは大きく目を見開いた。同時に、普段はほとんど表情を変えないエセルヴォルドの口元が僅かに緩んでいることに気がついて、かっと頬に熱が集まるのがわかった。
「……師匠」
「うつくしいでしょう」
何がだ、と、尋ねたくなるような声だった。景色のことだと明らかなのに、そう尋ねたくなるぐらい、エセルヴォルドはヒースしか見ていなかった。何も言えないでいるヒースに、エセルヴォルドは続けた。
「君に、この景色が見せたかった」
エセルヴォルドははじめてちらりと景色に視線を向け、僅かに、眩しがるように目を眇める。そうしてすぐにヒースに視線を戻し、エセルヴォルドは一本の杖を差し出した。
夕暮れが、終わろうとしている。
陽の光は海に滲んで消えていき、つめたい夜がやってくる。
そして、その、月のない夜の代わりのような、月の光を閉じ込めたような薄金色の宝石がトップにはめ込まれ、精巧な装飾が施された『魔法使いの杖』が、ヒースの前に差し出されている。ヒースはいちど目を瞬き、杖からエセルヴォルドへと視線を上げた。
「私が教えられることは、すべて教えました。一人前の祝いに、これを」
エセルヴォルドは、ただ真っ直ぐにヒースを見ていた。ヒースが恐る恐るそれを受け取ると、エセルヴォルドの目が、見たことがないような色で甘く蕩ける。
宝物を、見るような目だ。
大切にされていることは知っていた。愛されているとわかっていた。
けれどもこれは。ヒースはその目を見ていられず、思わず顔を下げてしまう。
「……ありがとう、ございます」
どうにか絞り出した声は、みっともなく震えなかっただろうか。
手にした杖を強く握りしめ、ヒースは、この寒空の下でも発火しそうに熱い頬、体から飛び出しそうに跳ねる心臓とともに、二つのことを自覚した。
ひとつは、エセルヴォルドがどうやら、『特別に』、自分を愛しく思っているらしいこと。
そしてもうひとつは──自分もどうやら、エセルヴォルドのことを、ただ師匠として、あるいは親代わりとしてではなく、愛しく思っているということだった。
……その日以降、何かが変化したというわけではない。けれどもヒースはもう、自分がずっとエセルヴォルドのもとにいるということを、今の生活が続いていくということを、一欠片も疑わずに過ごしていた。無口なエセルヴォルドがそれ以上の何かをヒースに告げたりすることはなかったし、ヒースから何かを言うこともなかった(そもそも何を言ったら良いのかもわからなかった)。ただ少し、いままで当然のようにエセルヴォルドにくっついていたのが恥ずかしくなって、距離をとるようになったけれど、それでなにかが変わったりもしなかった。
ヒースは、自分の心臓を不規則にさせるこの感情の意味を朧気に知ってはいたけれど、『そこから先』のことは、ぼんやりとしたイメージすら持っていなかった。
そう、だからヒースは、今の生活に、何一つとして不満がなかった。
──三ヶ月前、ヒースが十八歳になったとき、二度目の転機が訪れるまでは。




