第1話 魔法使い、家出する
吐く息が、白く烟る。
世界のすべてが凍りついているような、清々しくもつめたい朝だった。窓の向こうでは、夜と朝との境目がぼやけ、空が薄紫に染まりはじめている。
大陸の北の果てに位置する霊峰の麓、見た目はごく簡素で小さなこの家が、師匠とヒース、ふたりにとっての幸福な城だ──そこまで考え、ヒースは内心で訂正をした。
(違う。……城『だった』、だ)
そう、すべては過去形だ。
その『幸福』がヒースひとりの愚かな勘違いであったことが知れた今、ヒースはもう、一秒だってこの家にはいられない。
ヒースは、窓から姿見へと視線を移した。
見慣れない旅装束に身を包んだ青年が、所在なさげに佇んでいる。
湧き水を凍らせたような白銀の髪に、同じく冷たく澄んだ冬空のような蒼色の瞳。新雪のように白く滑らかな肌。『まるでこの山に住む精霊だ、この世のものとは思えないほどに美しい』とか言ってきたのは、街に来た吟遊詩人か誰かだっただろうか。ヒースは視線を逸らして軽く舌を打った。
(……まったく、陳腐で無意味な称賛だ)
ヒースが、『この美貌の虜になって欲しい』と願う唯一の相手に、まるで効果がないのだとしたら、意味などひとつもない。ヒースは軽くため息を吐き、水に保存食、着替えに魔術書といった必要なもの一式を詰めた魔法鞄を肩に掛け直した。
そうして、宵闇色のローブを身に纏い、薄金色の宝石がトップにはめ込まれた杖を手に取れば、旅支度は今度こそ完了だ。
不思議な光沢を帯びたローブは『今年は特に冷えるようですから』と言ってつい先日師匠が与えてくれたもので、杖は『一人前になった証に』と、数年前に与えられたものだった。ヒースはそのどちらもを、無口で表情に乏しい彼からの愛の証だと、そう信じて疑わなかった。
けれども、そこに込められた思いは──もちろん、『弟子への』愛はあったのかもしれないが──悲しいかな、ヒースの求めるものではなかった。
だから──もう、行かなければ。
すべてを決めてこの場に立ちながら、どうして、最後の一歩が踏み出せない。ぐずぐずしているヒースの耳に、小さな足音が聞こえてくる。ヒースは軽く息を止めた。
(……どうやら、置き手紙の出番はなさそうだな)
口元に、どうにか笑みを作る。そうしてヒースは、殊更にゆっくりと、扉の方へと振り返った。
その姿を、視界に収める。
「……ヒース?」
扉に手をかけたまま、師匠──エセルヴォルドが、その秀麗な面に困惑を浮かべて立ち尽くしている。寝起きだからだろう、癖のある黒髪はいつも以上に好き勝手に跳ねて、寝巻き姿であることも相俟ってどこか間抜けにも見えた。
この顔も、暫く見納めか。ヒースはじっくりとエセルヴォルドを眺めてから、笑顔とともに、なんでもない口調で言った。
「おはようございます、師匠。起こしてしまいましたか?」
「……いえ。その格好は? 出かける予定があったとは聞いていませんが……」
エセルヴォルドの薄金色の瞳が、ヒースの頭のてっぺんからつま先までを検分し、不可解そうに細められる。僅かな不審が滲む声に、ヒースはわざとらしく小首を傾げた。
「あれ、言ってませんでしたっけ? ……今、勇者パーティーで、『魔法使い』を募集してるって話を聞いたんです」
「……勇者パーティー?」
「はい。ご存知ですよね? それで、僕ももう十八でしょう。ちょっと腕試しをしてみるのも悪くないかなと思いまして」
くるん、と、これ見よがしに杖を回して見せると、黄金色の光がきらきら弧を描く。「というわけで」と、ヒースは無邪気に笑って見せた。
「ちょっと、魔王退治に行ってきます」
エセルヴォルドの眉が、くっきりとした皺を作る。
「……は?」
そうして零された『間の抜けた』と言っていい声に、確かに溜飲が下がるのを感じた。沈着冷静を絵に描いたようなエセルヴォルドが、ヒースによって混乱させられている。ヒースはそのまま、畳み掛けるように言葉を続けた。
「数日分の作り置きはありますが、それが尽きてからもちゃんと食事は摂ってくださいね。師匠、放っておくと三日くらい平気で絶食するんですから。ああ、もちろん、ジルに餌をやるのも忘れないこと……いや、ジルに『師匠に餌をやるのを忘れないで』って言ったほうが効果的かな」
「……ヒース、待ちなさ」
「人間らしい生活の放棄もなさらないでくださいね。毎日しろとは言いませんから、掃除も洗濯も、週一ではやってください。ああ、あと、今注文が入ってる分の薬は作ってあるので、麓の村人が取りに来たら渡してやってください。代金はいつもの棚に」
「ヒース、話を」
「してますよ、今」
ヒースが笑顔で応えると、確かに、とでも思ったのだろうか、エセルヴォルドが絶句する。妙なところで押しに弱い人なのだ。そんなエセルヴォルドを真っ直ぐに見上げ、ヒースはとどめとばかりに笑みを深めた。
「そもそも、師匠の意見に従ってるんですよ? 引き止められる理由がわかりませんね。……というわけで、まあ、しばらく戻らないと思いますが」
エセルヴォルドの瞳が、戸惑いに揺れる。……否、『揺れている』ように見えるのは、ただのヒースの願望かもしれない。
そう思うようになってしまったから、ヒースは、こんな手段を取らざるを得なかったのだ。ヒースはつめたい笑みを口元に閃かせ、挑むように、決意を込めてこう言った。
「くれぐれも、迎えに来ないでくださいね?」
エセルヴォルドの瞳が、そのとき、確かに大きく見開かれた。それを喜んでしまう己が浅ましい。未練に取り込まれる前に、ヒースはくるりと踵を返した。
玄関の扉を、開け放つ。
吹き込んでくる冷たい風が、熱くなった頬を打つ。
背後から聞こえてくる声を無視して、ヒースはそのまま雪原へと飛び出す。ローブが翻り、黒い翼のように広がる。杖を振る──風除けの魔法で体を包み、飛行の魔法で体を持ち上げる。
後ろは向かない。
だってヒースは、もう決めた。
愛しい人。
この鈍感で、朴念仁で、──どうしようもなく薄情な師匠に、再び顔を合わせられる自分になるまで──絶対に此処には帰らないと、決めたのだ。




